Wednesday, August 5, 2020

トポロジカルな反転

表題にあるように、単なる「反転」ではない。「トポロジカルな」反転、たとえばメビウスの帯におけるような反転である。誰でも知っているだろうが、メビウスの帯をカニが一周したとする。カニは右か左のはさみが反対のはさみより大きいが、メビウスの帯を一周するとそれが反転するのである。

Fiddler crab mobius strip.gif
By <a href="//commons.wikimedia.org/w/index.php?title=User:Hamishtodd1&amp;action=edit&amp;redlink=1" class="new" title="User:Hamishtodd1 (page does not exist)">Hamishtodd1</a> - <span class="int-own-work" lang="en">Own work</span>, CC BY-SA 4.0, Link

それゆえメビウスの帯は数学的に「方向付けの不可能な」属性を持つと云われる。わたしが考えるトポロジカルな反転は、このような反転現象とよく似ている。

反転というと明から暗に、正から邪へ、上から下への移行を考えるかもしれない。わたしがいう反転は、これとは違う。いわゆる明暗、正邪、上下といった観念は二項対立をなしている。これらの対立はじつは一定の土俵の上でなされる区別である。対立はしているけれども、その対立を構成する土俵は共有しているのである。わたしが考える反転は、このような「明」から「暗」への移行ではない。「明/暗」という対立を構成する土俵そのものを崩してしまう領域への移行を意味している。では土俵そのものが崩壊するような領域とはどんな領域か。明でもあり、かつ暗でもあるような領域、「明/暗」という二項対立がそこから発生するような、原初的な領域である。かりにそのような領域は、暗としか呼びようがなかったとしても、それは「明/暗」の「暗」とは異なる暗なのである。

ラカンは「性的関係は存在しない」といったけれど、それはたとえば男は二項対立の領域に存在し、女はそのような対立が崩壊する領域に存在しているからである。二項対立においては土俵がおなじだから、明と暗は反対物であっても相互にコミュニケーションが可能である。ところがラカンの考える男と女のあいだにはそのようなコミュニケーションを可能とする共通基盤が存在しない。それゆえ両者はいかなる関係も結ぶことが出来ないのだ。

このような関係がラカンの議論の中核にある。この関係は欲望と欲動の差異の中にも認められる。欲望は象徴界という「法」の支配下に置いて作動するが、欲動は矛盾撞着の領域、しかしそこから「法」や「文化」が生まれ出てくる領域で作動している。

独逸語大講座(20)

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