Wednesday, May 12, 2021

「ヤクザ」とメロドラマ

英語版では Yakuza 、日本語版では「龍が如く」というシリーズは抜群に面白いゲームである。暴力に充ち満ちたノワール風味の主筋があり、これを追うだけでも十時間から二十時間はかかるのだが、それに脇筋やらミニゲームが付加され、こちらもやりこなそうとすれば、ゲームをコンプリートするのに百時間以上はかかるだろう。奇妙なのは主筋は本格的な犯罪ドラマであるのに、それに付加される部分はほとんどがコメディ、またはギャグなのである。しかしそれが分裂を生むのではなく、渾然一体化してゲームの魅力になっているという、まことに珍なる傑作なのだ。

主筋のドラマは十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて隆盛を極めたメロドラマ仕立てになっている。メロドラマの最大の特徴は、ほとんどありえないような偶然の一致を利用して物語を盛り上げていくところにある。「ヤクザ」はこの仕掛けを臆面も無く再利用している。たとえばYakuza 0 のエピローグでは地面に埋められたオルゴールが、その持ち主の登場とともに鳴り出すのだが、これはあまりにも都合がよすぎる偶然といえる。 Yakuza 7 では主人公の生い立ちにおいて信じられないような取り違えが生じていて、それが衝撃を与えるように創られている。また双子とか影武者とか寸分たがわず他者に化ける暗殺者とか、外見がそっくりな人間を使って謎を深める書き方もメロドラマの基本戦略といっていい。劇的瞬間を人工的に生み出すことで読者を楽しませるわけだ。

メロドラマのもう一つの特徴は誇張表現。恐怖が描かれるときは、なぜか嵐が吹き荒れ、雷がなり、稲妻が真っ暗な部屋の中を一瞬照らして、怖ろしい血の跡を垣間見せる。主人公は目を見開き、悲鳴を上げ、手も足もぶるぶる震える。読んでいるこっちまで頭がクラクラするくらいだ。この手の作品が大衆向けに大量生産されたのだが、しだいにばかばかしさが鼻につくようになり、読者に飽きられていったという歴史がある。「ヤクザ」シリーズも漫画的な誇張表現を多用し、大いに雰囲気を盛り上げている。

「ヤクザ」はとりわけ十九世紀の半ばに大人気となった犯罪都市小説に似ている。当時、「パリの秘密」とか「ロンドンの秘密」といったヨーロッパの大都市を舞台にした犯罪小説が大流行した。後者の作品はディケンズなどより読まれていたという研究もあるくらいである。この犯罪小説においては、主筋に加えて脇筋が膨大に展開されるのだが、それがメインストーリーと無数のサブストーリーから成る「ヤクザ」にそっくりなのだ。(「ヤクザ」のサブストーリーは0から6へと進むにつれ、次第に洗練され、メインストーリーの構造を反覆するようになる。単なるランダムなエピソードではなくなるのである)しかもシリーズ化され、延々とつづいていくという点もおなじだ。「ロンドンの秘密」は最初の二巻はレノルズが書いたが別の作家がさらに二巻を書き継ぎ、さらにレノルズがタイトルを変えてそのつづきを二十巻ほど書いている。

また「ロンドンの秘密」は当時のイギリス社会のあらゆる階層に見られる悪徳、腐敗を描いて、一種の社会学的研究にもなっているのだが、同様のことが「ヤクザ」シリーズにも言えるだろう。外国人コミュニティーの存在や、中央と地方の格差、権力の傲慢と庶民のこずるさ、さらに子供の教育や愛の形や親子の関係など、定型的だが、一応日本のさまざまな局面が描き込まれている。

更に言えば、「ロンドンの秘密」など、労働者階級向けの安価な連載ものはペニー・ブラッドと呼ばれて、当時のモラリストから非常な反発をくらっていた。つまり現代における漫画とかビデオゲームと同じような文化的地位にあったのである。

そういうわけでわたしは「ヤクザ」シリーズを見ながら歴史がちょっとだけ形を変えて反復されているような気分に陥った。なぜこのような反復が生じたのだろう。たとえば「ヤクザ」シリーズも「ロンドンの秘密」も極端な格差社会の時期に生まれているが、それはこの反復と関係があるのだろうか。ポストモダニズムは大きな物語が消滅した時期にあらわれた。それは当時の政治・経済状況と密接に関係している。メロドラマも政治・経済状況の一表現ではないのか。ゲームとはいえ、物語論的に見ればいろいろ面白い問題をはらんでいる。

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