Friday, June 4, 2021

亀裂

こんな意見がリベラル論者のなかでよく言われる。イスラエルの人々はナチスの迫害を受けたユダヤ人である。彼らは命や人権の価値をよく知っているはずである。その人々がつくった国が(パレスチナに)無慈悲なことをする。その落差が理解できない。

こういう考え方はもうそろそろ卒業しなければならない。人間は分裂しているのが当たり前なのだ。しかも想像しうるもっともグロテスクな形で分裂している。それが人間なのだ。

わたしは先日「悪い種子」という戯曲を訳出した。これはウィリアム・マーチといういう作家が同名のタイトルで書いた小説を、マクスウエル・アンダーソンが戯曲化したものである。主人公はローダという八歳の女の子だ。彼女は分裂した人間の極端な例を示している。彼女は愛らしい顔をしていて、勉強がよくでき、服も靴もけっして汚さないきれい好き。大人たちは彼女の容姿や仕草を見ると思わず甘い表情になる。それくらい魅力的な女の子だ。ところが彼女は欲しいものを手に入れるためなら殺人だって犯す冷酷な人間でもある。このギャップが「悪い種子」という作品を衝撃的なものにしている。

マクスウエル・アンダーソンの戯曲の中では犯罪の専門家が、直接ローダを指して言ったわけではないけれど、ローダのような人間こそが戦争の世紀、つまり二十世紀を生き抜く人種なのかもしれない、と語っている。わたしは後書きのなかで「アメリカン・サイコ」だってそのような人間を描いているのだと主張した。ウオール街でトップの座を取れるエリート・ビジネスマンが、じつは快楽殺人を犯す犯人だったのだから……。

また、後書きでは書かなかったけれど、オルダス・ハクスレイの「灰色の宰相」もおなじテーマを扱っている。これは十七世紀の政治家ジョゼフ神父を分析したものだ。簡単に云えば、著者のハクスレイはジョゼフ神父の分裂ぶりにとまどっている。彼は政治の世界においては血なまぐさい殺戮を平気で行った。ところが同時に彼は神秘学者として超一流の業績を残しているのだ。極度の残虐と極度の精神性がどうして一人の人間のなかに存在しうるのか。それがハクスレイの問いだった。

このような人間の二面性は昔から文学ではテーマ化されていて、「ジキルとハイド」みたいな作品がたくさんある。ついでに言うと、わたしが訳したマリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」は、「信心」というもっとも内密なものでさえ、分裂の形態を取ることを描いた作品である。しかし人間の分裂が先鋭な形で思考の対象となるのは第二次世界大戦以降だと思う。あの悲惨のなかでわれわれは人間が非人間化する現象に直面させられた。また学問の世界でこの問題に鋭い光を当てたフロイトの考え方が一九四〇年代から世界的に広まっていったなど、いくつかの要因があるのだろう。

この考え方に立てば、ユダヤ人殲滅を目指したヒトラーだって、家に帰れば子供に優しい、慈愛深い人であったかもしれない、ということになる。あるいは、古典音楽をこよなく愛し、みずから楽器を演奏していたかもしれない、ということになる。しかしそれに騙されてはいけないのだ。われわれはこうした考え方に慣れていかなければならない。さもないと人間の危険性に気づかず、何度でも足を掬われることになるだろう。

独逸語大講座(20)

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