ポピュラー・カルチャーもハイ・カルチャーと同様に時代を表現する。なかには鋭い認識を示す作品もある。ビデオゲームの「龍が如く」も漫画的な物語でありながら面白い問題をはらんでいる。それは父権性の問題だ。
三島由紀夫は「絹と明察」のなかで二つの企業家の姿を描いた。一つは古いタイプの企業家で、雇い主は父親として子である従業員に接する。父親(雇い主)はきびしく子供(従業員)をしつける。しかしこの父と子の関係は、搾取し搾取されるという生々しい現実の関係をごまかすものでしかない。資本家は父のように労働者に対するが、じつは労働者を自分の利益のために利用しているにすぎない。
その一方で新しい企業家たちがあらわれ、古い経営の仕方をあざわらっている。この新しい企業家達は労働者の福利厚生のために投資するのをおしまない。彼らは新しい父の姿を提示している。それは子供(労働者)の権利を認め、その幸せのために力を尽くしているように見える。しかし彼らの考え方・態度の背後にはシニシズムがある。つまりそのようにしたほうが労働の効率が上がり、利益になるというのである。
前者は前近代的な資本家、後者は近代的な資本家だといえる。
「龍が如く」は極道組織を描いているが、Yakuza 5 の冒頭で東城会の組長が言うように、極道組織は一種の企業体である。そしてこの組織に於ける上下関係は、「父(おやじ)―子(手下)」関係に擬せられている。ではこの父子関係はいかなるものだろうか。
主人公の桐生は親がおらず、やくざの風間が運営する養護園で育ち、風間を父親(おやじ)と考えている。つまり「龍が如く」における父親はヴァーチャルな存在なのである。これはまさにポストモダンな父親像ではないだろうか。「龍が如く」の物語が開始されるのは1980年代。ちょうどポストモダンが文化現象として世界を席巻していた時期である。
勘違いされたくないので一言つけ加えるが、ポストモダンの段階において真正なる父親が存在しなくなったということではない。もともと「真正なる」父親など存在しなかったという考え方がこの時期に流布し始めたということである。父親に権威を与える言説を細密に検討するとそこには揺らぎがあり、分裂が潜んでいる。それを無理やり排除することで父親の権威は成り立っている。とりわけデリダの一連の考察はこのスキャンダルをあばいてくれた。くだらない洒落をとばすと、彼の「考察」はまさに父権性の神話を「絞殺」したのである。
「龍が如く」に話を戻すと、桐生の父親代わりとなった風間は、じつは桐生の実の父親を殺している。その罪滅ぼしの意味で養護園を経営しているのである。ヴァーチャルな父親は真の親を殺してその位置を簒奪したのである。まさしくポストモダニズムによる父親の否定が物語の中で繰り返されている。
しかしヴァーチャルな父親像ももはや「時代遅れ」として「龍が如く」からは消えて行く。桐生自身、自分は古いタイプのやくざであると考えているし、Yakuza 6 においては六代目会長堂島大吾の「親」である桐生は社会から姿を消すことになる。そして新しいシリーズの第一作となる Yakuza 7 では、西と東のやくざの大組織は解体してしまう。では、そのあとに来るのはいかなる父なのか。
最近出た Yakuza シリーズのスピンオフ、Lost Judgment を見ると、やくざのかわりに半グレ集団が物語りの前面に出て来ていることがわかる。半グレは、やくざのような組織に属さず、暴力行為・犯罪行為を行う集団だ。裏社会における組織の変質は、表社会における会社形態の崩壊(終身雇用の崩壊)、労働者の非正規化に対応しているのではないか。どうもわたしにはそう見える。ここに「父」という観念は存在するのだろうか。父親の姿がバーチャルなものにすぎないと暴露されたあと、会社はもはや父らしく振る舞うことを捨て、利潤を得るためにかつては「子」であったはずの人間をひたすら搾取するようになったのではないか。新自由主義からいまだに逃れられない日本における父。それを Yakuza シリーズがどう描いていくか、わたしは注目している。