作者は Amir D. Aczel。発音がよくわからないので、「アミール・D・アクツェル」は間違いかも知れない。
本書はアインシュタインの伝記であり、その思想の影響力を門外漢向けに紹介したものである。等式は出て来るけれども、それが意味するところはわかりやすく解説されている。面白く読める相対性理論入門といっていいだろう。こういう入門書がわんさかあるというところがアメリカの文化の底力を示している。日本は文学でも哲学でも科学の分野でも、知の最先端と門外漢をつなぐ役目を果たすものがあまりにも少ない。
が、わたしがこの本を読んでいちばん印象に残ったのは、リーマン幾何学をつくったリーマンがいかに偉大であったかということだ。この本の中頃にリーマンの紹介があるのだが、アインシュタインの伝記のはずなのに、その部分だけリーマン小伝といったおもむきに変わるのだ。しかしそうせざるをえないほど、リーマンの功績は大きい。リーマンの業績がなければアインシュタインは複雑な数学的処理をどうしていいのかわからなかったかもしれないのだから。
この事実は前から知っていたけれど、今回「神の等式」を読みながらあらためてその意味を考えた。物理学者が発想を得ても、それを表現する数学が存在しなければどうにもならない。文学的に言えば、内容があっても、それを表現する形式がなければ意味がないということである。ジェイムズ・ジョイスは「スティーブン・ヒーロー」という自伝的小説を書き出したが、新たな形式の可能性に気付き、書き直した。それが「若き日の芸術家の肖像」だ。あの形式を得て、一人の芸術家(になろうとする男)の半生が印象深く表現できたのだ。
「アインシュタインは数学的方法があるかどうか、それによって自分の努力が制限されていることを理解していた。特殊相対性理論をつくりあげるとき、アインシュタインはロレンツやミンコフスキの数学を使った。一般相対性理論にはリッチやレヴィ=チヴィタやリーマンの数学を次々と利用した。しかしここでアインシュタインは立ち止まらざるをえなかった。彼は神の等式を発見するためにはるばると歩みを進めてきたが、しかしそこからさらに進むには彼は新しい数学を必要としていたのだろう」
作者は本書の末尾近くでそう書いているけれど、これは重い言葉だと思う。わたしが愛読するジャック・ラカンという精神分析家はアインシュタインに負けないほどの大天才だが、彼も自分の発想を表現するために、当時の数学者たちから最先端のトポロジーの理論などを学んでいたのだ。理系と文系を水と油に譬える人がいるけれど、トップレベルでは両者は緊密に結びついているのだろう。