Monday, September 26, 2022

カルロ・ロヴェリ「時間とはなにか、空間とはなにか」

時間は存在しない。

まるでラカンの「女は存在しない」に対抗するような言い廻しだが、これがロヴェリの主張である。

ラカンの「女は存在しない」を理解するのはなかなか厄介だが、ロヴェリの主張はわかりやすい。よく考えてみると、われわれは時間をはかっているようで、じつは別のものをはかっている。ガリレオは教会の天井にぶらさがるシャンデリアの揺れが一定していることに気づいた。そのとき彼は自分の脈を取ってはかったといわれる。シャンデリアの一揺れする「時間」は常に一定だと彼は考えたのだが、しかし彼は時間そのものをはかったわけではない。シャンデリアの揺れの周期を、脈搏と比較して、その周期は一定であるといっただけである。

ニュートンは時間は存在しないけれども、それを想定することはいろいろと便利だと考えた。ところが量子力学では時間という観念がなくなる。量子力学でシャンデリアの揺れを語るには、ガリレオのように他の何かと比較してどうこうであると議論しなければならない。

ロヴェリのこんな説明を読みながら、わたしは貨幣論を想いだした。貨幣の価値というのも時間と同様、まぼろしのようにしか存在していない。貨幣の価値を究極的に支えるものなどないのである。時間は存在しないという考え方は、貨幣は存在しないということであり、シャンデリアの揺れを脈搏と比較するとは、貨幣価値というまぼろしを消し去り、物々交換で考えることとパラレルな事態ではないだろうか。マルクスが貨幣価値や貨幣形態について考えた際の論理が、量子力学において反覆されているとしたら……。

独逸語大講座(20)

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