Thursday, October 20, 2022

平林たい子「沙漠の花」

平林のおそらくは自伝的要素の濃い小説である。貧乏な家に生まれて高等教育を受けることができなかった文学少女「平林たい子」が、女学校卒業とともに電話の交換手として働き出すが、政治活動やら恋愛やら夫婦関係の故に次々と苦難を味わう様子を長編にしたものである。この苦難が一通りのものではない。借金生活にあえぎ、結婚してからは警察の嫌がらせを受けて(たい子は社会主義者、アナキストと交流があった)牢獄入り、あげくに大陸へと渡り、そこで栄養不良、重度のかっけという状態で妊娠、生まれた子供はすぐに死亡、極貧のためろくにお墓も用意できなかった。たい子は獄中にいる夫を見捨てて東京に帰り、その日暮らしをつづけながらも結婚、離婚を繰り返す。ときには娼婦まがいの仕事までやらされそうになりながらも、彼女はこれも文学・人生修養の一部と思ってひたすら先へ先へと突き進んでいく。若いとはいえ、驚くべきバイタリティーである。その後、社会運動の同志と結婚してからもあらぬ嫌疑をかけられて投獄され、結核にかかり、それこそ生死の境をさまよっている。

関東大震災を含む大正末年の世相を描き出しながら、壮絶な人生絵図を展開した本書は圧倒的に面白いだけでなく、自分の人生を深く反省させもする。

読んでいて「おや」と思ったのは、主人公がどん底のような生活に落ち込んだとき、キリスト教などの神にすがるところである。いや、「すがる」とは言えない。彼女は宗教的なものに傾倒はするものの、完全にそこに自己を埋没させるわけではないからである。しかしそれでもある種の神頼みを彼女はやっている。アナキストといえどもある種の境遇に置かれると、やはり神の観念が芽生えるものらしい。それからこんな一節も気になった。「私は、自分がせっぱつまるとアナキストであることを忘れて、自分をうらむ女だった。こんなことになるのも、社会がわるいのだと思うまえに、やっぱり、自分がわるいのだと思うほうが自然だった」こう書くとき「平林たい子」はこの「自然」がどれだけ本当に自然なものなのか、疑問を感じているのだろうか。つまり彼女の人生はたしかに多難であって、あの苦労の中を生き抜いたのはすごいことだと思うが、人生に対する心構えのほうはある種のナイーブさに満ちているのではないか。

わたしは主人公を非難しているのではない。実行力のある人間はえてして認識においてナイーブであるものだからだ。そうした盲点を持つ人間の研究として、この小説は最高におもしろい。しかし主人公がこの物語の作者として立ち現れるとき、つまり、小説家という位相にあるとき、その認識のナイーブさ(真面目さ)はいささか読者にくいたらない思いをさせることも事実である。

もう一点気になったのは、平林が売れない作家時代に探偵小説を書いていたということである。しかも出来がよくてその筋では注目されたらしい。これは捜し出して読まなければならない。しかし残っているだろうか。


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