信仰心というと、ほとんどの人は信仰する人の内奥にあるものと考えるが、ロベルト・プファーラーやスラヴォイ・ジジェクといった思想家が信仰の外在性について力強い理論を形づくりつつある。非常にわかりやすい例はチベットのマニ車だろう。あれは内部にお経の書かれた紙が入っていて、ドラム型の部分がくるくる回転していれば、本人がお経を唱えていなくても、お経をとなえたことになるというしろものである。ジジェクは「どんなに卑猥なことを考えていようとマニ車が回っていれば、本人はお経を唱えていたことになるのだ」とちょっと意地悪な言い方をしているが、しかしまさにそうなのだ。信仰はモノであるマニ車にまかせられる。マニ車が本人の代わりに信仰してくれる。そして本人自身は信心深いことを考えていなくてもいいのだ。プファーラーはこの信仰の外在化こそが危機としてとらえられ、宗教改革が起きるのだと考えている。
谷崎潤一郎の「或る調書の一節」もこの不思議な信仰の形を描いている。大工の頭が殺人の罪で捕らえられ、調書を取られる。その問答の過程で大工の「信仰の形」が明らかにされていく。それは取調官にはパラドキシカルに思われる「外在的な信仰」なのである。
できるかぎり端的にそこをまとめよう。大工は悪事や殺人がやめられない本物の悪党である。結婚してはいるが、家庭の外に女もたくさんつくっている。小股の切れ上がったいい女も囲ったりしているのだが、なぜかさえない女である本妻を捨てようとはしない。それどころか取り調べが進むうちに、彼が彼女を「必要」としていることがはっきりしてくる。なぜ必要なのか。大工は悪事を働くと、妻の前でおれはこんなことをしたと自慢話のようにその話をするのだが、すると妻はさめざめと泣いて、どうか改心してくださいと彼に懇願する。そのような存在が大工には絶対的に必要なのである。大工はこう言う。「私はつまり、自分の為めに泣いてくれる女が欲しかったのです。私が悪い事をすると、あとで女房はきっと泣きました、どうか真人間になって下さいと云ってしみ〴〵泣きました、それが私には悲しいような嬉しいような気持がしました」そこで取調官が「ではお前は、女房を泣かせるのが面白いのでわざと悪い事をしたのか」と問うと、「いゝえ、そうではありません。悪い事は矢張自分がしたくってしたのですが、あとで女房が泣いてくれるとそれでいくらか罪滅ぼしが出来るような気がしました。つまり女房が居てくれた方が悪い事がしよかったのです。だから私のような人間にはどうしてもあゝ云う女房が居なければいけないのです」と答える。
まさしく妻は大工にとってのマニ車であって、大工自身がどれだけ悪事を働こうとも、妻がくるくると回転してくれてさえいれば、彼は罪滅ぼしができるのだ。そして妻のおかげで罪滅ぼしができるから、なおさら悪事が働けるのである。ここで注目すべき点は二つある。大工は徹底した悪党だが、妻の存在が絶対的に必要なのだ。やや面倒な言い方をすると、大工にとって妻は非同一的なものだが、同時に同一的なものでもある。二つ目の注目点は、悪の道を邁進するためにこそ信仰が必要になる、あるいは、外在的な信仰こそが悪の道を邁進する原動力となる、という奇々怪々な構造だ。これは善悪という単純な二項対立をくつがえす考え方をわれわれに要求してくるだろう。
このような信仰の構造は、わたしが翻訳したマリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」にも描かれている。詳しくはその後書きを読んでいただきたいと思うが、ヴィクトリア朝末期の男性どもがデカダンな生活にあけくれることができたのは、じつは「家庭の天使」がうちで彼らのために(彼らに代わって)祈りを捧げていたからなのである。
さらに一つ附け足しておく。大工がなぜ外在的な信仰を必要としているのか、その理由は、あの世を信じているからである。自分は悪党だからこの世では助からないが、あの世では助かりたい、というのだ。彼は人間は死によって消滅するのではなく、超越的な次元に於いて生を継続すると考えているのである。だから外在的な信仰がなんとしても必要なのだ。この考え方はやはり「悪魔の悲しみ」にも出てくる。わたしはここをもう少し理論的に詰めていきたいし、詰めていけると考えている。
谷崎はその変態性がよく取り沙汰されるけれど、しかしフロイトにいわせれば人間は根源的に変態であって、変態的なあり方が人間の本性なのである。谷崎を読む場合、その変態性はまさに人間の本質をつくものと、とらえ返す視点が必要になる。