フィリップ・ギブズは第一次・第二次世界大戦のあいだ従軍記者としてすぐれた記事を書いたジャーナリストである。その業績で大英帝国二等勲爵士を得ている。彼の著作は膨大で、大量の記事のほかにも小説を書き、そのうち九作が映画化されている。二十世紀前半、もっともよく読まれたジャーナリストの一人といっていい。日本では翻訳が出ているのかちょっとわからないが、ほとんど知られていないのは間違いない。しかし彼の戦争ルポタージュは欧米では今でも評価されていて、電子化もさかんにされている。わたしも前から気になっていた作家なのだが、最近 fadepage.com から彼の小説「汝の敵」(Thine Enemy)が出たので、読むことにした。
物語は現在ロシア領となっているカリーニングラード、1945年まではケーニヒスベルクと呼ばれていたドイツの都市からはじまる。第二次大戦末期で、ドイツの敗色は濃く、人々はロシア軍の侵攻、その凶暴な兵隊たちの噂に怯えて暮らしていた。暮らしていると言っても空爆を受けて家は崩壊し、地下壕で暮らしているのである。食べものはなく、ナチス政権は人々に町を離れるのを禁じ、夫を兵隊に取られた若い妻のなかには、絶望の余り、子供と心中をする者もいるくらいだ。
(ちなみに言っておくと、この作品は作者がドイツに取材に出かけ、実際に見聞きしたり、直接当事者達から聞いた話しを元に書かれている。)
そしてとうとうロシアがケーニヒスベルクに来ると云う情報が人々のあいだに伝わってきた日、この都市の若い女達は子供と老人とともに逃避行を開始する。雪が降るなか、老人、女、子供が馬に牽かせた荷車に乗り、あるいは徒歩で、延々列をなしプロイセンに向けて移動して行くのである。
非常にドラマチックな始まりで、一気に物語に引きずり込まれた。しかしここで場面は一転し、ケーニヒスベルクから数キロ離れた地点でロシア軍と戦いながら退却を繰り返すドイツ軍が描かれる。こちらのエピソードはフランツ・レーバーという軍曹の視線から語られる。彼はもともとは芸術家で、愛国者でありつつもヒトラーの残酷さには批判的な人間だ。彼のまわりでは爆弾が落ち、飛び散った破片にあたった兵隊、レーバーの戦友たちがハエのように目の前で死んでいく。
レーバーたちが後退をつづけていると、ケーニヒスベルクからの避難民の列にぶつかり、一緒にプロイセンへ向かうのだが、その間にもロシアの爆撃機の攻撃を受け、多くの人が死んでいく。
息つく暇もなく戦争の惨状が描かれ、読んでいる方は胸が潰れる思いをする。ナチスの残虐を知らない人々、なぜイギリスやアメリカが自分達に冷たいのか理解できない人々、その反対にナチスの蛮行を憎む人々、家を破壊され、食べものはなく、自殺したり殺されていく人々、寒さに死んでいく幼児、死を覚悟して全員が毒薬をポケットにしのばせている家族、愛する人の名を口にしながら死んでいく兵士、ヒトラーの暗殺計画を練った人々、それゆえに拷問され殺された人々、産まれた時から戦争を見、戦争しか知らない子供達、ベルリンも含めて都市という都市がすべて灰燼に帰したドイツ、地下室で四人五人と固まって生活する人々、食糧難と闇市、栄養不足で死んでいく人々、食べる為にアメリカやイギリスの兵隊に身を売る女達、イギリスに支配された地域とロシアに支配された地域の違い、敗戦国ドイツがこれからどう国を建て直すのかという政治的議論等々、戦争の現実をたたきつけるように次々と描いている。
一つのまとまったドラマ的展開があるわけではない。おもにフランツ・レーバーの視点から彼が体験することを時系列に沿って記述しているだけである。また小説の技術的・芸術的な側面に於いてそれほど秀でたものがあるわけではない。が、さまざまな階層の人々の、さまざまな戦争に対する反応がリアルに描かれ、とほうもなく面白い。こういうのを無技巧の技巧というのだろうか。戦争小説はかなり読んでいるつもりだが、敗戦時における一般人の行動や心情が克明に記された本書はそのなかでも非常に印象に残る一冊だ。