オックスフォードから出ている Very Short Introduction シリーズの一作。1980年代から1990年代にあらわれた文学理論のやさしい入門書。この時期は難解な哲学理論がもてはやされ、文学研究の領域が拡大し、大学の先生がポップカルチャーについて語るようになった。あまり有名でないマイナーな作品に光を当てる動きが出て来たのもこの時期で、わたしが忘れられた作家や作品をとくに扱うのは、あの頃のそうした動向と関係がないとはいえないだろう。読んでいて勉強になると言うより、懐かしさを感じさせる本だった。
内容についてはとくに紹介しない。文学の基本が説かれているので、中高生で批評に興味を持ちだした人が読むと参考になるだろう。
ジョナサン・カラーは小難しい書き方をせず、要点を明快に提示する。その資質を生かしてすぐれた啓蒙書をいくつも出している。ただし、わかりやすいというのはワナでもあって、それは努々忘れてはならない。本当に起爆力を持つ理論はある種の奇怪な核を内包しているのだが、わかりやすさはその奇怪さを常識的ななにかに変えてしまう危険性がある。たとえばカラーはデリダの supplement の概念を紹介しているのだが、非常にわかりやすく解説されていると同時に、それが思考を刺戟するパラドキシカルなわかりにくさを消去してしまっている。バフチンの対話の概念も、政治的な意味合いを持った危険なものなのだが、カラーの紹介の仕方はそこを消去してしまっている。ラカンの鏡像も自己のアイデンティティを確立する契機のように書かれているが、誤解を与える単純化である。読者はそのわかりやすさに安心をおぼえるのだろうが、これでは理論に近づくどころか遠ざかっている。本当の理論というのは簡単な要約を許さない、しかしながら思考を誘って止まないなにかなのである。
それはカラーが本書のなかで何度も言及するロバート・フロストの詩に描かれたようななにかである。
We dance around in a ring and suppose,
But the Secret sits in the middle and knows.
この詩は真に刺激的な力を持つ理論を「秘密」に例えている。輪の核心には解読のできない謎が鎮座している。われわれはその周囲を廻りながら、ああだろうか、こうだろうかと思考をめぐらす(suppose)。さらに重要なのは「秘密」とわれわれのあいだには転移の関係が成立していることだ。われわれは「秘密」がなにかを知っている(knows)と思いこむ。そこに魅力的ななにかかが隠されていると信じ込む。この関係は精神分析の治療現場における、患者と医者の関係と類似し、この転移関係が無意識の読解への糸口を与えるのだ。しかし気をつけなければならないが、精神分析において知っている者(one who knows)とは分析者のことである。しかしここにおいて知っている者とは特権的なテクストのことであり、それを読むわれわれは被分析者の立場にある。つまり被分析者が分析者を分析しようとするわけだ。私にはこういう倒錯的というか、ねじれているというか、奇怪な関係のなかにしか理論的な営みは生じないのではないかと思われる。