Monday, February 26, 2024

ブルース・ロゼンブラム、フレッド・クットナー「量子の謎」

これは数年前に読んだものだけれど、たまたま手に取って読み返したらやっぱり面白かった。作者はおなじ大学に勤める物理学の先生で、彼らはタッグを組んで人文学系の学生を対象に、量子力学の紹介講座を開いたらしい。そして人気講座となったその授業内容をまとめたのが本書である。ニュートン力学の基本的考え方から出発し、それと比較する形で量子力学の奇怪さを説明している。解説書としてはスタンダードな構造だが、わかりやすさという点では抜群である。日本語には翻訳されているのだろうか。

あくまで素人に対して量子力学の現状を教えるという目的に徹した本で、作者たちの独自な視点が開陳されているものではない。そこは物足りないと言えば物足りないと言えるけれど、量子力学の問題点を明確に提示するその手際のよさには舌を巻かざるを得ない。

読みながら私は自分がここ数年考えてきたことを振り返って見た。量子力学は確かに奇怪な現象をわれわれに突きつける。が、その奇怪さは文学をやってきた人間にもどこか馴染みがないだろうか。文学もパラドクスを扱う。たとえばシェイクスピアの「冬物語」は一つの存在が内的なずれをともないつつこの世にあることを示している。それは内的なずれを持つがゆえに同一性を保ち得ず、つねに他者性を帯びている。しかしその他者性をみずからの存在から放逐しようとすれば、動きも時間も失い、永遠の「冬」に閉ざされてしまう。シェイクスピアはこの事態を、同一性、他者性、ずれという三者の関係としてとらえている。

Pauline Implores Leontes
「冬物語」

シェイクスピアの考察に従えば、存在は二つの様態を持つことになる。一つは他者性(これは動き、時間をもたらす)とともにある状態、もう一つは他者性を失った状態である。後者は動き、時間を失った状態だから、時間軸や空間において位置が固定されることになるだろう。しかし前者はずれ、他者性とともにあるため、位置が固定できない。この二つのありようは、それぞれニュートン力学と量子力学に対応しないだろうか。物体の位置は観測により固定できるという古典物理と、量子の位置は確率論的にしか推定できないとする量子力学に。

「冬物語」における同一性、他者性、ずれは、それぞれリオンティーズ、ポリクシニーズ、ハーマイオニーによってあらわされているが、「冬物語」冒頭において示されるリオンティーズとポリクシニーズとの関係は量子力学の EPR パラドクスを思い起こさせる。シェイクスピアはこの両者の関係を比喩的にこうあらわす。すなわち、両者は世界の果てに位置しつつ、同時に手を握っているようだ、と。両者のあいだには決定的な距離が存在するが、にもかかわらずつながっている。EPR パラドクスによれば、素粒子を崩壊させ電子と陽電子にわける。これをたとえば宇宙の果てにそれぞれ持っていったとしても、量子力学によると両者のあいだでは光よりも早い速度で情報が交換されることになる。(それはおかしいと、アインシュタインは言おうとしたのだが)このことは実験的にも証明されており、電子と陽電子のあいだには「もつれ」が存在していると考えられている。このもつれは、シェイクスピアにおいては「ずれ」であるハーマイオニーによってあらわされているわけだ。

私は文学と物理学のあいだに厳密なパラレル関係があるとは言わない。両者はどうみたって異なる領域である。しかしある種の考え方、発想に着目するなら両者のあいだに大ざっぱな相関性を見ることは間違いではあるまい。しかもその相関性は二十世紀初頭にあらわれた量子力学と、それより四世紀も前にあらわれたシェイクスピアのあいだに見いだされるのだから、文学というのははなはだ不思議な人間的活動というしかない。

独逸語大講座(20)

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