Sunday, September 29, 2024

S. S. ヴァン・ダイン「カナリア殺人事件」

 


S.S.ヴァン・ダインを読んだのは随分昔で、「僧正殺人事件」と「グリーン家殺人事件」を読んだことは憶えているが、他の作品はどうだろう。「ベンスン殺人事件」は読んだかもしれないが、ストーリーはさっぱり憶えていない。じつは「僧正」も「グリーン家」も内容はきれいさっぱり忘れてしまった。「僧正」というのはチェスの「僧正」のことだったろうか。「グリーン家」の犯人はぼんやり憶えているが、事件の内容はなにひとつ頭に残っていない。

「カナリア殺人事件」は心理的な手掛かりによって犯人を見出す物語だというようなことを何かで読み、興味をなくして読まなかった。その頃は、初期のエラリー・クイーンみたいにしっかりした物質的手掛かりから論理的に推理を構築する物語に魅力を感じていたので、「心理的手掛かり」などというあやふやなものには食指が動かなかった。

今も「心理的手掛かり」には関心がないのだが、高名な作品ではあるし、一度は読んでおこうと半ばあきらめたような気分で本作を読み出した。テキストは Fadedpage.com から出されたものだ。

無能な警察と天才的探偵という設定や、探偵が事件現場から警察の目を盗んでこっそり重要証拠をくすねるとか、古いパターンが目について仕方がなかったが、ちょっとだけ面白かった部分もある。それは十四章で探偵ヴァンスが犯罪を芸術にたとえる部分だ。ここで彼は絵画のオリジナルと、コピー(模写)に関する興味深い議論を展開している。

われわれはオリジナルとコピーについて考える時、オリジナルの完成度を百パーセントとするなら、コピーの出来はそれよりも低いと考える。コピーにはオリジナルに到達し得ないある種の欠如が存在する、というように。ところがヴァンスが提示している議論はちがう。オリジナルのほうにこそ欠如が存在する。そしてコピーが復元し得ないのは、まさにその欠如である、というのだ。つまりこの議論を敷衍するなら、オリジナルこそオリジナルに到達し得ていない、なぜなら欠如を含んでいるから。しかしながら、その欠如こそ、オリジナルをオリジナルにしている当のものだ、ということになる。一応その部分を引用しておくので、興味のある向きはじっくり読んでみてほしい。


“Y’ know, Markham,” he began, in his emotionless drawl, “every genuine work of art has a quality which the critics call élan-namely, enthusiasm and spontaneity. A copy, or imitation, lacks that distinguishing characteristic; it’s too perfect, too carefully done, too exact. Even enlightened scions of the law, I fancy, are aware that there is bad drawing in Botticelli and disproportions in Rubens, what? In an original, d’ ye see, such flaws don’t matter. But an imitator never puts ’em in: he doesn’t dare-he’s too intent on getting all the details correct. The imitator works with a self-consciousness and a meticulous care which the artist, in the throes of creative labor, never exhibits. And here’s the point: there’s no way of imitating that enthusiasm and spontaneity-that élan-which an original painting possesses. However closely a copy may resemble an original, there’s a vast psychological difference between them. The copy breathes an air of insincerity, of ultra-perfection, of conscious effort. . . . You follow me, eh?”


わたしの解釈には多少の強引さがあるのだが、しかしそう考えるなら探偵の考え方はラカンの対象aの考え方と見事に一致する。S.S.ヴァン・ダインは美術評論家でもあるようだが、わたしはこれを読んで彼の推理小説より美術評論のほうに関心を持った。こんな議論を展開しているなら大いに読む価値がある。さらにこの視角から彼のミステリも読み替えが可能だろうか、と考え出した。わたしが知るかぎり、この一節に注目したヴァン・ダイン論、推理小説論というのは見たことがないのだが。

英語読解のヒント(140)

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