第二次世界大戦を背景にしたチェイニーのスパイ小説。主人公クエイルはイギリスの諜報組織を統轄している。彼の下で多彩なスパイたちが働いている。水夫のように体格のいいグリーレイ、美人だが恐るべき記憶力を持つジラ、仕事ひとすじに打ち込むフェル等々。彼らはチームを組んで敵国ドイツの情報を探り出そうとする。
あるときモロッコからフォーデンという男がイギリスに帰国した。彼はドイツに関するとびきりの機密情報を持っているらしい。そしてそれを大金と引き替えに売ろうとしている。フォーデンの情報ははたして信頼できるものなのか、また、本人が思っているような重要な機密なのか、それを探り出すためクエイルはスパイたちにフォーデンと接触を命じる。
ところが接触したメンバーのうち、ジラが不可解にもピストル自殺をしてしまうのだ。しかしそれは本当に自殺なのか。ドイツとイギリスのあいだで虚々実々のスパイ合戦が展開する。
1943年の作品だが、この時期になると現代のスパイ小説の形がほとんどできあがっていて、読んでいてもあまり古さを感じさせない。しかし微妙に違うとしたら、それはどんな点にあるのか。それは単に時代背景だけの問題ではないだろう。やはり書き手の認識が変化してきているのだ。二十世紀初頭のスパイ小説、たとえばル・キューとかオッペンハイムの作品にはロマン主義がただよっている。そこにはまだ正邪の区別があり、夢と冒険が可能な世界だ。チェイニーではすべてがぐっと地味になる。登場人物は普通の人々、もちろんスパイの教育は受けているが、地位も身分もない市井の人々でもある。(ル・キューやオッペンハイムの主人公はたいてい貴族である)そして物語に描かれているのは夢と冒険ではなく、頭脳合戦である。どちらが敵の読みを上回るかという、チェスゲームであり、銃撃戦やらなにやらといった活劇は付け足しに過ぎない。しかし正邪の観念はまだ残っているように思われる。
グリーンやル・カレになると、この正邪の観念が曖昧になる。正邪の区別をするときジレンマに襲われるようになるのだ。その認識の差が現代のスパイものとチェイニーの大きな差ではないだろうか。わたしにはチェイニーの作品にはまだ「甘さ」があるように思えるけれども、しかし充分に面白い。