日本語の作品はレビューに取り上げないことにしているが、とびきり上等の作品にでくわしてしまったので、書かざるを得ない。
森雅裕の「モーツァルトは子守唄を歌わない」である。
この作者の文章はすばらしい。はじめて読んだが、感服した。本書は江戸川乱歩賞を受賞したらしく、巻末に選考委員のコメントが出ていたが、はっきり言って選考委員の誰よりも文章がうまい。選考委員の小林久三をわたしは高く評価しているが、文章の魅力という点では森の比ではない。これはいい人を発見した。これから彼の作品を探し出して読みふけるという楽しみが出来た。
内容はベートーヴェンが探偵となってモーツァルトの不審な死の真相を探る、というものだ。ベートーヴェンが語り手となって物語は進むのだが、あの堅苦しい顔からは考えられない口の悪さだ。その弟子もそんな師匠と丁々発止を展開できるくらい、口の減らない男であって、この二人の掛け合いがたまらなくおかしい。そういう笑いが明らかに漢文脈を基礎に持つ地の文のなかで繰り広げられるのだ。たんにおかしみがあるだけでなく、どことなくグロテスクさすら感じさせる。
ところで漢文脈という言葉でわたしはなにを意味しているのか。中島敦みたいに漢文訓読調の言い回しを多用していればもちろん漢文脈だが、漢字の使用が多く、それに欧米語の翻訳文体を意識的に合わせ用いているものも、わたしは漢文脈と考えている。本書から例を取ろう。
協奏曲の中で絢爛なピアノ技巧が炸裂するためには、オケは断じて添えものであってはならない。
独奏楽器とオーケストラが競い合い、呼応しながら緊張の刃で時間を削りとっていくのが協奏曲なのだ。
オケがひどければ、ピアノもこける。技術と解釈が一致した上で演奏するのでなければ、闘争は足の引っ張り合いに終わってしまうのだ。
「ひどければ」とか「こける」とか「足の引っ張り合い」といった俗っぽい口語的語彙も含まれているが(この混淆の見事さが森の特徴ともいえる)、この文章の背骨にあるのは漢文脈で、その凝集性と、力強さがよく出た一節だと思う。もちろんそのために理屈っぽくなり、和文脈のようなやわらかさは犠牲にされることになるのだけれど。しかしわたしは漢文脈が大好きで矢野龍渓の「浮城物語」や大町桂月の「西遊記」を枕頭の書にしている。思うに、和文脈すら、漢文脈との対立において、その緊張関係においてのみ、成立するのではないか。
いったいこの作者はどんな作品を読んで、この文体を獲得したのだろう。大いに気になる。