ヘレン・ライリイのマッキー警部もので、1944年に書かれた。舞台は第二次世界大戦中のマンハッタン。灯火管制が敷かれ、夜は真っ暗だ。なぜ灯火管制が敷かれているかと言えば、もちろん日本が零戦で攻撃してくるのを避けるためである。登場人物の一人が米国空軍の軍人であるため、戦争の話もちらりと作中に出て来る。さて、事件が起きるのは、霧が出て、昼間でも視界はよくない十二月のある日だ。この日、フラヴェルという富豪の一家が一堂に会する。父親、父親の義理の姉、父親の娘、息子とその婚約者や配偶者、さらに父親が再婚したときに産まれた娘とその婚約者である。彼らのあいだには愛憎関係や利害関係が複雑に渦巻いている。黄金期の推理小説にはよくある設定だ。そしてそのうちの一人、父親の義理の姉が夕方、近くの公園で殺され、翌朝、死体が発見される。もちろん犯人は集まった人間のうちの一人だ。
本書は捜査過程がこまかく描かれているので、いわゆる「警察もの(police procedural)」のジャンルに入れる人もいるだろうが、同時にフラヴェル一家の一人イブという娘の視点からも叙述がなされる。イブには婚約者がいるのだが、じつは昔、腹違いの妹の婚約者とひそかな関係があったらしく、彼への思いを他の人に悟られないようにみんなの前で振る舞わなければならない。そして昔の恋人に警察の嫌疑がかかると、こっそりその証拠の品を隠すし、新たな事件の手掛かりに気づくと、単独で捜査に乗り出したりする。おかげで毒を飲まされ、殺されかかりもするのだが、彼女の恋愛感情や行動力がマッキー警部の冷静な捜査態度といい対照をつくって、物語を面白くしている。
ヘレン・ライリイは本書を派手さのない抑えた調子で書いている。が、物語を展開させるペース配分がみごとで、あっという間に読んでしまった。闇のなかでうごめく犯人やその他の人々の様子はラインハートばりのサスペンスに満ちている。いぶし銀のような一作だ。犯人の意外性といい(わたしはまったくわからなかった)大いに推奨する一作。
いつも思うのだが、1920年以降に登場する本格ミステリと、それ以前に流行していたセンセーション・ノベルは構造が靴下をひっくり返したように反転している。センセーション・ノベルでは衝撃的な物語が全編を通じて展開されるが、ミステリでは、それは最後の部分で(たいていの場合、探偵によって)凝縮した形であきらかにされる。「本邦未訳ミステリ百冊を読む」というブログをつけていたときは、この反転を可能にしたものはなにか、という問題意識をもって過去の作品をよみあさったのだが、「ドアが開いて」を読みながら、もう一回この反転構造に就いて考えてみたくなった。十九世紀的感性と二十世紀的感性の差が決定的にそこにあらわれているような気がする。