エリザベス・フォン・アーニムはオーストラリア生まれで、ドイツ人貴族と結婚したからフォン・アーニムなどというドイツ風の名前になったらしい。その夫が死んだ後、彼女は「宇宙戦争」で有名なH.G.ウェルズと三年ほど関係を持ち、ノーベル賞を受賞した哲学者バートランド・ラッセルの兄と二度目の結婚をしている。彼女はキャサリン・マンスフィールドの従妹にもあたるそうだから、文学と深い関係を持ちながら人生を送った人と言えそうだ。
「魅惑の四月」は1922年に出版されてベストセラーになり、ブロードウェイで上演されたり、映画化も二度ほどされている。1991年の映画はアカデミー賞の候補にもなった。BBCが2015年にラジオドラマにして放送したのは、わたしも聞いた。
どんな筋かというと……。
1920年頃のイギリスが舞台となる。この年代は微妙な時期で、古いヴィクトリア朝の道徳観がまだ根強く残存しつつ、しかし新しい近代的な女性が登場してきた時代でもある。主人公の一人はミセス・ウィルキンス。弁護士を夫に持つ三十歳くらいの女性だ。彼女は古い道徳観にしばられ、鬱屈した生活を送っている。あるとき新聞に「イタリアのお城で休暇を過ごしませんか」という広告を見て、おなじ女性クラブのミセス・アーバスノットを誘い、へそくりを出し合ってイタリア行きを決意する。ミセス・アーバスノットは人生の羅針盤が東西南北の代わりに、「神」「夫」「家庭」「義務」という、それこそヴィクトリア朝的価値観そのものをあらわした人だ。しかしそんな彼女もなにかしら今の自分にあきたらないものを感じていたのだろう。ミセス・ウィルキンスの提案に思い切って乗ることになる。
しかし二人だけではお城の賃貸料をまかなうことはできない。そこで彼らは新聞に広告を出して、さらに二人の仲間をつどう。それがミセス・フィッシャーとレディ・キャロラインである。ミセス・フィッシャーはかなりのお歳で、ヴィクトリア朝の著名人をたくさん知っており、年老いてからはヴィクトリア朝の思い出に耽り、ヴィクトリア朝の価値観で現代を評価する。レディ・キャロラインは二十八歳の美貌の女性で、誰にも彼にもちやほやされるのがいやで、人付き合いを避けるためにイタリアへ行こうと決意する。
この四人がイタリアのリビエラにある中世の城で四月のひと月を一緒に過ごすわけだ。地中海の陽光と咲き乱れる花に囲まれ、彼らはどう変化するのか。
通俗的な読み物であることは否みようがない。曇りがちの、暗い、じめじめしたイギリスに、明るく、からりと晴れたイタリアを対置させているが、この対置の仕方はあまりにも単純にすぎるだろう。イタリアにだって鬱屈を抱えながら生きている人々は大勢いるが、それはきれいさっぱり捨象されている。また大団円では四人の女性がすべて愛に包まれるわけだが、これにはさすがに辟易とした。そこに至る途中でメロドラマにつきもののある驚くべき偶然が起きているが、それもわたしはやりすぎのような気がした。
にもかかわらず、わたしは「魅惑の四月(Enchanted April)」はそれこそ魅惑的な物語だと思う。一つには文体の工夫がある。イタリアへ行くまでの数章はヴィクトリア朝文学の文体を擬して書かれているのだが、それが実に効果的だ。ヴィクトリア朝の文体は、ヴィクトリア朝の価値観を身に纏っているが、それによって女性たちの自然な感情の発露が抑えられているさまがじつによく表現されているのだ。場面がイタリアに移行し、女性たちだけで中世のお城に住むようになると、彼らは次第に自分を取り戻していく。それにつれて文体も微妙に変化する。息の長い文章ではあるものの、素直に読んでいけるようになるのだ。こういう文体の工夫は通俗文学のレベルを越えている。また、すべてが愛に包まれる大団円には、辟易するといえば辟易するのだが、ある種のリアリズムから始まって現実離れしたファンタジー空間へ至るこの小説には、なにか一貫した論理性というものが感じられる。その論理性とはなんなのだろうという知的興味はかきたてられた。
面白い本で、大いに推奨する。