作者のフィリス・ボトム(1884ー1963)はケント州生まれのイギリス人作家。結婚してからオーストリアで学校を開設したのだが、そのときの学生の一人が、なんとイアン・フレミングだったという。ジェイムズ・ボンドの生みの親である。ボトムの作品でいちばん有名なのが1937年に出た本書で、MGMによって映画化もされた。
物語の背景となるのは、ナチスが台頭してきたドイツである。アルプスにほど近い町に、ロート一家は住んでいた。父、母、子供は四人。父はノーベル賞を受賞した医学者で、母は美しく芯の強い女性である。子供のうち、いちばん上の二人は母親が最初に結婚した夫とのあいだに出来た子供であり、下の二人は再婚後、今の夫とのあいだにできた子供である。上の二人はナチス党員となり、下の二人のうち年上(姉)のほうはフレヤという19歳の大学生で、優秀な医学生である。もう一人はまだ十二歳の男の子だ。
この家族構成が大きな問題を生む。というのは母親の再婚相手、今の夫にはユダヤ人の血が混じっているのである。しかもフレヤはハンスという農民ながらきわめて頭のいい共産主義者と親しくなる。父親も母親もナチスを非難はしないものの、平和主義者で、共産主義者に対しても悪い感情はもっていない。しかし上の子供二人は、がちがちのナチスである。ナチス的なものと反ナチス的なものが、一つの家族のなかに存在しているのだ。
あるときフレヤがハンスを家に呼びたいと言うと、家族のあいだに決定的なひびが入った。上の二人の子供は断固反対し、実際ハンスとフレヤがデートから帰って来るのを、家の前でまちぶせし、ハンスに襲いかかろうとした。ナチスの褐色の制服を着て。
一応、その場は鼻血と親による叱責でけりがついたが、しかしナチスの勢力拡大にともない、父親の仕事やフレヤの将来も脅かされることになる。
わたしが手にした本は350頁あり、30年代に書かれたものだから、いささか文体が古く、長々と地の文がつづく。ゆっくり進もうと覚悟を決めて読み出したのだが、上に紹介した喧嘩の場面以降は面白くて一気に終わりまで行ってしまった。
いいと思ったところはナチスを反ユダヤ主義の点から描くだけでなく、女性の権利を踏みにじるものとしても分析している点だ。フレヤは圧倒的な学力を見せつけ、大学から奨学金を受け取る第一候補となる。しかし共産主義者と付き合っていることがナチスたちに知られると、とたんに彼女は研究者としての自由を奪われていく。もともと存在している男尊女卑の考え方が、ナチズムにおいては一層強化される様子がわかる。
フレヤの母親はユダヤの血をもっていないが、女性をおとしめるような言説に対しては毅然と反論する。彼女も父親も最後まで娘の自由――共産主義者と交際し、愛し合う関係になる自由を尊重する。(父親はフレヤに「惜しみなく、賢明に、あわてることなく愛しなさい」と言う。いい言葉だ)だがナチス党員が家を訪問し、書籍の検閲などをはじめるようになると、娘の自由を守ってやることがだんだん苦しくなり、顔つきや目つきが変わってくる。このあたりの描写はじつに痛々しい。
フレヤには幼なじみがいて、彼から結婚を申し込まれるが、この男がまた女性に対する男性の優位性を説くミソジニストで、女性の愛は非常に視野の狭いものだとか、男は浮気をしても妻への本当の愛は忘れないとか、くだらないごたくを並べる。その点、共産主義者のハンスは教育を受けてないにもかかわらず、バランスの取れたものの見方をするし、責任感も強い。
この作品は非常に図式化された構造になっていて、テーマが明確に提示されている。その意味でわたしは山本有三を思い出した。理想主義的な立場から戦争を問うたというところがそっくりである。こうしたところは弱点とも言えるのだが、しかし理想主義をわたしは高く評価する。とりわけ生きるのが困難な時代に理想を追求するのは道化じみており、命を危険にさらすことにもなりかねない。それでもありうべき未来を見つづけることは、嵐のなかの灯台の光のように、心ある人々に希望と方向性を与えるからである。