Thursday, May 29, 2025

読書の衰退について


The Guardian 紙の文芸欄にエリフ・シャファクが「読書をやめた? エリフ・シャファクが語る「なぜわれわれはいまだ小説を必要としているか」が掲載され、興味深く読んだ。(こちら

最近のある調査によるとイギリス人の40%が昨年本を一冊も読んでいないらしい。アメリカの作家フィリップ・ロスが2000年に「文学の時代は終わった」と言ったが、今の人がひとつのことに集中できる時間は45秒から2.5分くらいというから、小説を読む習慣が消えていくのも当然である。ニューヨークにはTEDというNPO団体があって、ここはいろいろなゲストを呼んで新しい考え方を世に広める活動をしているのだが、エリフ・シャファクが2010年に講演を頼まれたときは、話す時間が20分あったのに、2017年に講演をしたときは13分に減らされていた。聴衆の集中時間が減っているから、というのが主宰者側の言い訳だった。

「われわれは情報(information)があふれかえっているが、充分な知識(knowledge)がなく、知恵(widsom)はさらに少ない時代に生きている。この情報過多はわれわれを傲慢にし、ついでわれわれを麻痺させる。この割合は変えられ、知識と知恵にもっと力点が置かれなければならない。知識のためには本やスロー・ジャーナリズム、ポッドキャスト、深い分析、文化的イベントが必要である。そして知恵のためにはとりわけ物語芸術が必要である。われわれは長い形式を必要としている」

要するにエリフ・シャファクは小説が必要と言っている。もちろん小説家が知恵者であるなどということではない。しかし小説には「洞察、共感、感情知能、深い同情」が含まれている、と彼女は主張する。

最後にエリフ・シャファックは四千年前に書かれた「ギルガメシュ」を例に、人間が成長していくために必要な要素がこの長編詩のなかにどのように見出されるのかを説明している。

小説は十九世紀の芸術形態であるとよく言われる。そして映画の誕生とともに小説の衰退ははじまり、ティックトックの登場とともにとどめをさされそうな形勢となったのである。

エリフ・シャファクは小説の教育的側面を強調しているが、しかし身近さ、手軽さがもてはやされがゆえに、深さ、あるいは長さが消滅しだしてから、わたしが気にかかっているのは、人々が質の良くない文学に容易にだまされるようになったということである。文学をたくさん読むということは、さまざまな物語パターンを知り、それらに対してすれっからしになるということだ。批評眼が発達し、容易に物語に取り込まれない態度をつちかう、これが文学研究だろう。だからこそ文学を学ぶとは文学を批判することと言われるのだ。

深さ・長さの消滅は、この態度の消滅をも意味している。そして人々はくだらない「文学」にころりと騙されるようになった。どこぞの首相が「美しい日本」などとほざいていたが、これなど愚劣な文学の典型例だろう。最近も一部の人間が流すでたらめを信じて噴き上がるような人々が大勢いる。文学のすれっからしなら決してひっかからないような詐欺に、まんまとひっかかってしまう。

文学をよく読む人なら、善と悪といった二項対立がなかなか成立しない、複雑でやっかいな事態をよく知っている。勧善懲悪の物語なんて馬鹿くさくって読めたものじゃない、というのが読書のすれっからしの最初の反応だ。(もちろん読書狂としてそんな作品を読まないわけじゃないのだけれど)だから外国人と日本人とか、現役世代と高齢者といった単純な二分法を用いた言説には眉に唾をする癖がついている。ところが文学を読まない人々はそういう一見「明快」な図式にすぐさまとりこまれてしまう。すれっからしでない人々にはこうしたものに対する免疫がないのだ。わたしはこれこそが本当の問題ではないかと思う。

文学や美学は一見すると実用世界からかけ離れているようだが、じつは極度に政治的な意味合いを持っているし、わたしが読書するときはイデオロギー的構築物としての側面に注意を払っている。

エドワード・アタイヤ「残酷な火」

  エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...