表題の「メタル・ドゥーム」は金属が崩壊することをいう。ある日、気がついたら金属という金属がぼろぼろに錆び付き、使い物にならなくなっている。電化製品も鉄道もコミュニケーション手段もいっさいが毀れ、麻痺してしまう。鉄筋の建物すら脆弱になり、地下鉄駅は陥没。都会にいても仕事はできないし、だいいち食べ物がない。車がないから食糧の搬入ができないのだ。缶詰は容器が錆びてしまった。そこで人々はニューヨークから徒歩で脱出し、食糧のある田舎へと大移動をはじめる。これが「メタル・ドゥーム」の時代の開始、早い話が石器時代への逆戻りである。
人々は木やら石やらで道具を作り、森で狩りなどをして食糧を得る。そのうちばらばらに生計を立てていた人々はコミュニティーを作り、外敵から自分たちを守るようになる。なにしろ牢屋に入っていた犯罪者たちは、鉄格子がなくなって集団脱走し、田舎で暮らしはじめた人々に襲いかかっていたのである。しかしこんな連中はどうということもない。なぜなら米国の存続を脅かすような敵がアジアからやってきたからである。韃靼人が米国大陸に渡り、猛攻を仕掛けてきたのだ。ミサイルなどの近代兵器を使うなら話は別だが、馬に乗り、腕力任せの勝負となれば、韃靼人は圧倒的な力を発揮した。米国の人々はこの強敵を撃破し、自分たちを守ることが出来るだろうか。
作者は三十年代、四十年代に活躍したパルプ作家だ。発想は面白いのに、彼の想像力はその面白さを発展・持続させることができないようで、すぐに陳腐に堕してしまう物語が多い。本作も感心しない出来だ。なにしろステレオタイプが目につきすぎる。善と悪、男と女の役割分担など、今の視点からすればあまりに古すぎる。きわめつけは米国とアジアの対比で、明らかに米国は文明国、アジアは野蛮と位置づけられている。黄禍論の焼き直しである。作者は物語の形で文明批判をしたかったのかもしれないが、考え方がナイーブすぎて、とてもこの物語のような結末に人類が到達するとは思えない。パルプ小説と言うより、右派的な妄想を描いた作品のように読める。