Tuesday, October 14, 2025

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(13)

§13. Ich bade jeden dritten Tag.
  (Ich bade alle drei Tage.)
  私は三日に一度風呂にはいる。

 「三日目ごとに」という表現は、jeder を用いれば数詞は序数で名詞は単数、alle を用いれば数詞は基数で、名詞は複数になります

 意味によっては、一方の形式でしか言えないことがあります。たとえば「この村では、十人に一人は知合だ」は In diesem Dorfe kenne ich jeden zehnten Mann で、alle zehn Männer は不可。「電話が数分おきに鳴る」は Das Telefon läutet alle paar Stunden で、jede paarte Stunde は不可、だいいち paarte (何番目か、数番目の)という語はありません。

 毎日、毎月などは jeden Tag, alle Tage; jeden Monat, alle Monate という外に、von Tag zu Tag; von Monat zu Monat ともいい、Tag für Tag; Monat für Monat ともいい、alltäglich, täglich, tagtäglich; monatlich, allmonatlich などの副詞もあります。

 jeden zehnten Tag (十日目ごとに)と同じ意で von zehn zu zehn Tagen ということもあります。

§13. Telefon, n. (Telephon と同じ): 電話(器)。läuten (=klingeln): 鳴る。alle paar: alle がなければ普通は ein paar (=einige) という。paar は格語尾を付けない語。

Saturday, October 11, 2025

英語読解のヒント(191)

191. only + to 不定詞 (2)

基本表現と解説
  • Many people invested all their savings, only to see everything lost. 「あるかぎりの貯蓄を投資にまわし、すべてを失う人が多い」

結果をあらわす不定詞に only がつく形は、意外・失望の念がこめられることが多い。

例文1

His handsome face, his dark eyes, and rich curling hair had won the heart of the pretty, graceful, gentle lady's-maid, and she had married him — only to rue the day and hour in which she had first seen him.

Charlotte M. Braeme, Wife in Name Only

彼のハンサムな顔、黒い瞳、豊かなカールした髪の毛、それらが愛らしい、優雅な、おとなしい小間使いの心をつかんだ。彼女は彼と結婚し……はじめて彼を見た瞬間のことを悔やむのだった。

例文2

There was, however, no sign of him now, and it was evident that he had ascended the next flight of steps. We climbed them, only to find our way barred by a heavy door.

Arthur Conan Doyle, Uncle Bernac

しかし彼の姿はどこにもない。さらに階段を上っていったことは明らかだった。われわれは階段を上ったが、重い扉に行く手をふさがれた。

例文3

"It is not much to be wondered at," said John Niel politely, and lifting his hand to take off his hat only to find that it had gone in the fray.

Henry Rider Haggard, Jess

「無理もありませんよ」とジョン・ニールは丁寧に言った。彼は帽子を取ろうと頭に手をやったが、帽子は騒ぎのあいだにどこかへ飛んで行ってしまっていた。

Wednesday, October 8, 2025

英語読解のヒント(190)

190. only + to 不定詞 (1)

基本表現と解説
  • They separated only to meet again the next day. 「彼らは別れて、すぐまた翌日会った」

結果や、出来事の継起を示す to 不定詞に only がついた場合、「すぐさま」「ただちに」といったニュアンスを含む場合がある。

例文1

He arrived at the vessel's destined port only to set sail again with the first ship bound for England.

Carolina Messenger, January 28, 1875

彼はその船の目的の港に到着したが、ただちにまた英国行きの最初の船に乗って出帆した。

例文2

...he staggered on to his legs, only to collapse with an exclamation of pain.

Henry Rider Haggard, Jess

……彼はよろめきながら立ち上がったが、たちまち苦痛の声をあげて倒れた。

例文3

...the nurse departed, only to return with an apologetic look on her face and equipment for an IV in her hand.

Lauren Ann Isaacson, Through these Eyes

……看護婦は出て行ったが、すぐまたすまなそうな顔をし、手に静脈注射を持って戻ってきた。

Sunday, October 5, 2025

英語読解のヒント(189)

189. come what may

基本表現と解説
  • "Epimetheus," exclaimed Pandora, "come what may, I am resolved to open the box!" 「エピメテウス」とパンドラは叫んだ。「なにがあろうとわたしはこの箱を開けます」

come what may あるいは come what will あるいは let come what may は whatever may come or happen 「なにが起ころうとも」の意。come の代わりに betide や happen が用いられることもある。come weal or woe 「福が来ようが禍が来ようが」などと言うこともある。

例文1

I caught her in my arms, and swore that nothing should part us — that, come what would, she must be my wife.

Charlotte M. Braeme, Wife in Name Only

わたしは彼女をかき抱き、われわれを分かつものはなにもない、なにがあろうとあなたをわたしの妻にすると誓った。

例文2

Nevertheless I will have half an hour's talk with you, betide what may.

Thomas Carlyle, The Love Letters of Thomas Carlyle and Jane Welsh (Edited by Alexander Carlyle)

それでもぼくはきみと半時間は話せるようにするよ、なにがあろうともね。

例文3

"I have got it!" replied the Tsarevich Ivan simply, for he always spoke out his secrets, happen what might.

P. Polevoi, Russian Fairy Tales from the Skazki of Polevoi (translated by R. Nisbet Bain)

「手に入れました!」皇子イヴァンはあっさりと答えました。彼はなにがあろうといつもぽろりと秘密を口に出してしまうのです。

Thursday, October 2, 2025

英語読解のヒント (188)

188. be that as it may

基本表現と解説
  • Be that as it may, the project was at last abandoned.

「とにかく、その計画はとうとう断念された」be that as it may は let that be as it may あるいは however that may be 「それがどうであろうと」「とにかく」の意味。

例文1

Be that as it might, the old man rushed forward, and caught the minister by the arm.

Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter

それはともかく、老人は勇んで飛び出してくると牧師の腕をつかんだ。

例文2

It has always been said that the Japanese are the French of the Orient. Be that as it may, it is very clear that in certain traits which characterize the French, there is no resemblance whatever between the people of those two nations.

George Japy, "The Mirror"

日本人は東洋のフランス人であるといつも言われる。それはともかくフランス人を特徴づけるある種の習性に着眼するとき、両国民のあいだにいかなる類似性も見いだせないのはじつに明白である。

例文3

And was it only fancy which induced me to believe that, with the increase of my own firmness, that of my tormentor underwent a proportional diminution? Be this as it may, I now began to feel the inspiration of a burning hope, and at length nurtured in my secret thoughts a stern and desperate resolution that I would submit no longer to be enslaved.

E. A. Poe, "William Wilson"

しかもわたしが断固とした態度を取れば取るほど、わたしを苦しめる者がその分だけ弱くなるように思われたのは、気のせいにすぎなかったのだろうか。それはともかくわたしは燃えるような希望を感じはじめ、ついには二度と奴隷にされてなるものかという堅い、死にものぐるいの決意をひそかに抱いた。

Monday, September 29, 2025

劉慈欣「三体問題」


今回読んだのは、「三体問題」三部作の第一部だけだ。

「三体問題」はエイリアンとの遭遇を描いているため、同じような主題のSF作品とよく比較されるようだが、わたしは読みながら十九世紀の作家ジョン・ユーリ・ロイドが書いた「エティドルパ あるいは地球の終末」やD・リンゼイの「アルクトゥルスへの旅」を思い出した。異世界に対するセンス・オブ・ワンダーをかきたてるという意味で、「三体問題」は現代の西洋のSFを移植したというより、どっしりとした古典的な書き方に逆戻りした印象を与える。

それにしてもこれだけ重厚なSFが書かれるとは、中国文学は爆発的に成長しているということだろう。ほんの二十年前までエンターテイメントといえば任侠小説で、ミステリやSFは傍流に過ぎなかったのに、えらい変化である。たぶん中国系アメリカ人作家の活躍がいい刺激を与えているという部分もあるのだろう。

一般解が存在しない三体問題を小説の中心に据えたのはいい着眼だと思う。三体問題と現在の世界の政治状況がパラレルな関係にあるのは明白だろう。米ソの冷戦の時期は、世界は二体問題を解けばよかった。これは解が存在するし、この二つの力を利用して安定的に第三世界も存在し得た。しかし現在はどうだろう。中国がとてつもない勢いで国力をつけ、アメリカ、ロシア、中国、そしてEUと力は多極化している。とてもではないが、この先、どのような力の配置が展開されるのか、読むことはできない。安定の時期がどれぐらいつづき、波乱の時期がどれだけわれわれの発展を阻害するか、わかったものではない。三体世界では波乱の時期に惑星が割れてしまったようだが、これは戦争による国土分割の比喩とも取れるのではないか。ただこの問題系が三部作全体のなかでどれくらい発展させられていくのだろうか。第一部を読む限り、話が三体世界から離れていくようで、不安である。せっかくの面白いテーマが単純化されなければいいが。

物語は地球と三体世界の両方で進む。地球の物語は文化革命およびそれ以後の、とある科学者の人生を追う。一方、三体世界の物語は、過酷な環境のもと、何度も文明が滅亡と再興を繰り返すさまを描いている。で、あるとき地球の科学者が宇宙にむかって信号を発し、その信号が三体世界によって受信されることで、両者につながりができる。進んだ科学文明を持つ三体世界の住人は安定した惑星、地球を乗っ取ろうとする。中国の政治に絶望していた科学者のほうも、文明の進んだ三体世界に救世主の姿を見出し、思わず「来てくれ」と頼む。いったい地球はどうなるのか。結末は第二部、第三部に持ち越されている。

後半に入って地球VS三体世界という対立図式ができあがると、前半の謎めいたドラマが急に平板なものになり、陳腐化するのは(とりわけ三体世界の進んだ科学力に地球人がかなうわけがないと絶望する主人公らの描写はおセンチすぎていただけない)瑕瑾と言えるかもしれないが、それを補って余りある厚みがこの作品には備わっている。

量子力学や宇宙論に多少とも興味があるなら、本書に説明されている科学的・擬似科学的説明はべつに珍しくもないし、理解可能なものだろう。すくなくともグレッグ・イーガンを読むときより、わたしは楽に読めた。YouTube で感想を発信している人々の言葉を聞くと、量子力学をまったく知らない人のほうが、わからないなりに深い感銘を受けているような気がする。現代科学が切り開く異様な世界が作家たちの想像力を刺激し、新しい物語を紡ぎ出していくわけだが、本書はその最良の成果のひとつとなるだろう。前半部分の謎めいた書きぶりは秀逸。

Friday, September 26, 2025

アガサ・クリスティー「アクロイド殺し」


最近クリスティーの代表作を読み返しながらいろいろなことを考えた。

「アクロイド殺し」が出たのは1926年。しかしこの有名な叙述トリックはそれ以前にも用いられている。谷崎潤一郎の短編「私」が出たのは1921年だし、スヴェン・エルヴェスタッドの長編「鉄の馬車」が出たのは1909年だ。どうやら二十世紀の初頭は、一人称の語りに問題があるということが世界的に認識されだした時期らしい。ちなみにヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」(若い家庭教師の手記として書かれている。つまり一人称の語りだ)はそれまでたんなる幽霊譚と見なされてきたが、それを信頼できない語り手の物語と見事に読み替えて見せたエドマンド・ウィルソンの論文は1934年に出ている。

もともと小説などというものはいかがわしい産物であって、日本でも「源氏物語」なんか読むヤツは地獄に墜ちるといわれていた。西洋でも事情は変わらない。十八世紀にはやった書簡小説の序文を見ると、作者は道を歩いているとき偶然手紙の束を拾った、読むと面白いので、自分が不適切な部分やつたない表現に手を入れて、ここに出版する、などと書いてある。要するに、この物語は作者がでっちあげた物語ではない、と言い訳をしているのである。そうでなければ作家みたいな口先三寸の嘘つき野郎が書いた物語など誰が読むか、という空気があったのだ。「ねじの回転」のプロローグだっておなじような言い訳である。とある男が、自分の友人の知り合いの家庭教師の手記を、そっくりそのまま読者のご覧に入れよう、と書いてある。ちなみに、自分が書いたものではないと言い訳をして物語の客観性を保障する技法を、ディスタンスの技法という。

ところが次第に序文など書かれなくなり、大衆は物語を素直に享受するようになった。いまだに「小説なんて嘘っぱちだ。おれはノンフィクションしか読まん」という人はいるけれど、たいていの人は、物語が「わたし」によって語られていたら、素直に「わたし」の語りを信じるようになってしまった。

クリスティや谷崎やエルヴェスタッドは、語り手に信頼を寄せるようになった読者たちに対して背負い投げをくらわせたのだ、といっていいだろう。

しかし問題はこれだけにとどまらない。嘘つきの語りは確かに信用できないが、明白に嘘をついているのでなければ信用していいかと云えば、そうではない。問題は「すべての語り」がある種のバイアスを帯びているという点である。「アクロイド殺し」においてはある事実が最後まで隠匿されている。客観を装いつつもある種の事柄は語られない。この語るか、語らないかという取捨選択はすべての物語において生じる。そしてこの取捨選択がすでに語り手の特殊なバイアスによって行われているのである。どれほど作者が事実を書こうとしても、どれほど客観的な記述を志そうとも、このバイアスからは逃れられない。フランスのヌーボーロマンなどはこの問題系に偏執的な関心を寄せているように見える。

精神分析の受容が進んだ現在では、われわれはさらなる一人称の語りの奇怪な問題点に逢着している。一人称の語りはもちろん「わたし」が語るのだが、精神分析においては「わたし」が語るとき、「誰が語っているのか」そして「どこから語っているのか」が問われなければならない。われわれは言語を使用しているのではなく、言語に使用されている。あるいは、われわれは言語を書いているのではなく、書かれているという認識が受け入れられるようになったのだ。ピエール・バイヤールの驚くべき「アクロイド殺し」論は、まさにこの観点から書かれている。バイヤールは「アクロイド殺し」の語り手の背後に別の人物の欲望が存在すること、いわば「わたし」の二重性を見出した。そしてこの二重性が「アクロイド殺し」の叙述に混乱をもたらしていると指摘したのである。

バイヤールの議論は理論的洗練を持っていないせいだろうか、あるいはミステリは所詮知的遊戯という思い込みが広がっているせいだろうか、それにふさわしい注目をあびていないと思われる。しかしこれは小説論としてだけでなく、主体のアイデンティティといった哲学的な問題にも拡大しうる論点を含んでいる。じつはわたしも1990年頃からこの問題に就いて考えてきた。きっかけはスチュアート・ゴードン監督の「ドールズ」というホラー映画だった。主人公の少女の欲望がその母親の欲望の反映であることに気づいたのだ。そして少女の欲望の物語と見えたものが、じつはべつの存在の欲望の物語であると解釈可能だとわかった。また数年前に翻訳したクロード・ホートンの隠れた名作「わが名はジョナサン・スクリブナー」においても、語り手の「わたし」に二重構造が認められることに気づいた。(詳しくは後書きを読んでほしい)

ちょっと話がずれたが、クリスティーの「アクロイド殺し」をはじめとする一人称の問題を扱った作品群は、「わたし」の奇怪なありようを探るきっかけを与えてくれているように思われてならない。

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(13)

§13. Ich bade jeden dritten Tag.   (Ich bade alle drei Tage.)   私は 三日に一度 風呂にはいる。  「三日目ごとに」という表現は、jeder を用いれば数詞は序数で名詞は単数、alle を用いれば数詞は...