原題は Reflected Glory。他人がつかんだ栄光だけれども、その人と関係のある人が、まるで自分の栄光であるかのように感じる、という意味だ。「親の七光り」という日本語が示す事態と、よく似ていると云っていい。
女流作家のエルザは、ふとしたきっかけから画家のクライブと知り合い、肖像画を描いてもらうことになる。彼はロイヤルアカデミーの会員で、その絵で成功すれば画壇における地位を固めることができるはずだった。そして彼が新進の大物画家と認められれば、モデルのエルザも大いにその名声の余沢(つまり reflected glory)にあずかるはずだった。それを夢見て彼女はクライブと婚約さえする。
ところが、好事魔多し。クライブは手に大けがをし、二度と絵が描けなくなる。とたんにエルザは彼に対して冷たくなって婚約を解消、あまつさえロンドンを出て、自分の家がある田舎に帰ってしまう。そしてなぜかクライブはそのときからふっつりと姿を消すのだ。
クライブはエルザに会いにでかけたらしいことを突き止めた警察が彼女を詰問すると、なんと彼女は「わたしが彼を殺した」と自白した。しかし警察に協力する心理学者のキャッスル博士は、彼女は犯人ではないと考える……。
この作品はエリザベス・ホールディングのように「異常心理」を扱っている。わたしはそういう作品が好きなので、期待をもって読んだのだが、残念ながらよくはなかった。フロイトは正常を解き明かす鍵は異常のなかにあると考えるから面白い。つまり正常/異常という区別をフロイトは突き崩すのである。ところがファーンは正常と異常を峻別し、二項対立の構図の中でものごとを考えている。そして本作を、異常から正常へと「治癒」する物語に仕立て上げてしまっている。これではダメなのだ。フロイトを継承したラカンは、正常と異常を峻別するアメリカ流の心理学を絶えず批判したが、小説読みからしてもこの二項対立の図式の中で書かれた作品はつまらない。もしもわたしがこのような作品を読解の対象にするとしたら、むしろ二項対立が崩れている瞬間をその作品の中に見出そうとするだろう。つまり脱構築的な読解を試みるだろう。
ただファーンの作品としてはめずらしく文章に緊張感がただよっている。彼としては力を込めて書いたのではないだろうか。