Saturday, November 29, 2025

アリス・ジョリー「マッチ箱の少女」


この本はまだ読んでいない。ただ数日前に作者がガーディアン紙に新作「マッチ箱の少女」に関する一文を寄稿していて、それが面白かったのでさっそく注文した。寄稿された記事のタイトルは「自閉症に関する彼の研究は思いやりに溢れていた――ハンス・アスペルガーはいかにしてナチスに協力したか」(こちら)である。内容は難しくはない。要するにハンス・アスペルガーという自閉症の研究者は、思いやりにあふれた独創的な思想家であり、同時に熱烈なナチスの支持者でもあった。一見すると対極的なこの二つの人間性がなぜ一人の人間のなかに矛盾なく共存しえたのか。それがアリス・ジョリーが「マッチ箱の少女」という小説を書く動機になったというのである。

これはオルダス・ハクスリーの「灰色の枢機卿」という名作と同じテーマである。灰色の枢機卿とは、十七世紀に活躍したジョゼフ神父のことである。彼はナチスのような残忍な軍事政策を執り行いつつも、同時に神秘主義の研究においては極めてすぐれた精神性を示した。ハクスリーはやはりこの矛盾する傾向の共存に当惑した。一方で残忍であり、他方で慈悲深い人間などどうして存在しうるのか。

これとまったく同じ問題をもっと通俗的な形で追求したのが、韓国の映画監督キム・ギドクである。セクハラ問題を引き起こした監督を論じるのはちょっと気が引けるが、しかし作品自体は重要な問題をはらんでいる。とくに「悪い男」とか「空き家」は注目すべきである。「悪い男」においては上流家庭に育った美しい娘がおしのギャングに誘拐されたのち娼婦として働かされ、人生をいわばめちゃくちゃにされるわけだが、そんな彼女がこのおしのギャングに愛を感じるという話だ。それはまったくありえないような、奇形の愛と映る。また「空き家」においてはDVを繰り返す夫のもとで泣き暮らす女が、映画の最後では彼を熱烈に愛するようになるという物語である。夫が反省してその粗暴な振る舞いを変えたわけではない。まったく変わっていないのだが、しかし女は夫に心からの愛を示すのである。キム・ギドクはこういう極端な状況に常に惹かれる。彼は韓国の名優に映画出演の話をもちかけたが断られたらしい。その理由を俳優はこう説明した。「わたしは心から愛する娘を殺すような役はできない」。どういう映画だったのかはよく知らないが、おそらくこの作品の父親は娘への愛と殺意を共存させる人物だったのだろう。そして俳優はそんな怪物的な存在を演じることに道徳的な嫌悪を抱いたのだろう。それは不自然であり、人間性への冒涜であり、ありえない歪んだ人間の表現である、と。

しかしわたしはこういうことはありうると思うし、実際にハンス・アスペルガーやジョゼフ神父はそういう存在だった。わたしがラカンの精神分析に強く惹かれるのは彼がそういう人間の可能性についても考察しているからである。

ともかく、わたしが興味を持っている問題系を扱っているということで、アリス・ジョリーの「マッチ箱の少女」は非常に楽しみな小説である。

Thursday, November 27, 2025

マイケル・タルボット「夜の怪物」

 


マイケル・タルボットのホラー小説は翻訳されているのだろうか。1982年に処女作 The Delicate Dependency という吸血鬼ものを書いて注目され、91年には The Holographic Universe を出し、科学番組などでいまだに取り上げられたりする。ところが彼は92年に38歳で亡くなってしまった。非常に面白い人だっただけに惜しまれる死である。

「夜の怪物」は彼の処女作ほどの重厚さはなく、クライマックスに至る展開にやや難があるが、よくできたB級ホラー映画のような面白さがあった。ロックスターのスティーブン・ランソムと芸能記者のローレン・モントゴメリが結婚した。スティーブンは初婚だが、ローレンは再婚で、すでに小さな息子がいる。この三人がアディロンダックス山中の巨大なお屋敷を借りて夏休みを過ごすのだが、このお屋敷がものすごい。ヴィクトリア朝時代に建てられ、部屋数が160ある。しかも建てた人が気が狂っていたせいだろう、いろいろと変な仕掛けが施されているのだ。さらに夜になると亡霊? 妖怪? が出てくるようなのだ。

物語を引っぱっていくのは二つの緊迫感だ。一つはスティーブン、ローレン、彼女の息子の関係に徐々にひびが入っていくサスペンス。スティーブンは恋愛上手で、ローレンをいい気分にさせてくれるが、アディロンダックスに着いてからは、気質がまったく異なるローレンの連れ子とそりが合わず、憎しみを感じるようになる。さらにローレンは、音楽会社を経営する彼が冷酷な性格を持っていて、部下の人生を平気で狂わせるようなことをやってのけることを知る。

もう一つの緊迫感は、もちろんお屋敷の謎である。玄関には奇妙なラテン語の文句が掲げられ、巨大な屋敷は人間の感覚を狂わせる奇妙な造りになっていて、屋敷の奥には行けないようにできている。この屋敷を造ったとされる女性はいったいなんのためにこんな不思議な構造を考え出したのか。夜な夜な出没する妖怪はなんなのか。この二つの興味がうまく配合されながら物語は進展する。

タルボットの文章は超一流である。すばらしく達意で自然な流れをもち、生理的な快感を与える。

Sunday, November 23, 2025

東浩紀「存在論的、郵便的」


十一月の第三木曜日、今年は二十日だが、この日は世界哲学デーである。というわけで今日は哲学書を扱う。東浩紀の「存在論的、郵便的」。じつは「批評空間」という雑誌に出ていた分は昔読んでいたのだが、本になったものは今回はじめて見た。

ラカンの精神分析を否定神学ととらえ、デリダはそれに対抗する形で郵便的な思考を展開させた、というのが大掴みな内容である。20代前半の若さで難解な哲学書をよくここまで読みこなしたものだと感心するが、しかし発表されて三十年も経つとさすがに古さや間違いも明確になってくる。

東はラカンの「手紙は必ず宛先に届く」という言葉から、ラカンは理想的な郵便制度を前提にしている、と考える。デリダは「手紙は宛先に届かないこともありうる」と、確率論的な郵便制度、不完全な郵便制度を前提にしているというわけだ。しかしラカンのような思考を展開する人間が理想的ななにかを前提にするなどということがあるだろうか。

ラカンが「手紙は必ず宛先に届く」というとき、この言葉にはある種の皮肉がこめられている。じつは手紙はどこに届くかわからない。しかし「偶然」どこかに届くと、「事後的に」手紙は届くべきところに届いたとみなされてしまう、という意味なのである。

わかりやすい例をあげると、たとえば恋愛。男と女の出会いなどというものは、まったくの偶然に左右される。ところが二人の間に愛が成立すると、二人の出会いは「運命的であった」とか、「二人は赤い糸で結ばれていた」などと思われてくる。まさにこの事態をラカンは「手紙は必ず宛先に届く」と言ったのである。よく「歴史の必然」などというが、これも同様である。Aが起きたからといって必ずBが生起するわけではない。その間にどんなことが生じてCが生起するかもわからない。しかしBが生起したあと、人間の目にはまるでAからBへの移行は必然のように見えてしまう。このような事後性を東は見落としている。

男と女が幸せに結婚しても、ふとしたことがきっかけになって別れてしまうことだってある。そのとき二人は「運命的な」出会いも、「赤い糸」もまやかしであったと理解するだろう。相手の気持をよくわかっているつもりだったが、じつはなにも知らなかったことに気づくだろう。すなわち正しく宛先に届いたと思っていた手紙は、じつは狸の葉っぱであったと理解するのだ。ラカンの哲学のなかに郵便制度があるとしたら、彼はこんな制度を考えていたのである。それは理想的な制度とはかけはなれている。(さらにこの制度の不完全性こそが完全性への条件になるというパラドックスもラカンの重要な論点なのだが、ここは省略する)

もうひとつ東の本を読んで物足りなく思ったのは、デリダの後期の著作を十分に読み込んでいないという点である。テキストの混沌に深く身を沈め、しかしながらそこにある種の規則や論理性を見出し、ふたたび浮上することに成功した者の、明晰な視線がない。アカデミックな世界に浮遊する決まり文句を巧みに取捨選択して構築したような感じが、この本のすべてとはもちろん言わないが、どことなくする。しかし膨大な情報を整理する能力は、たしかにそれだけで大きな価値を持つのだろうけど。

Thursday, November 20, 2025

今月の注目作

Project Gutenberg

The History and Adventures of the Renowned Don Quixote by Miguel de Cervantes Saavedra


「ドン・キホーテ」というとアルベール・チボーの議論を思い出す。「ドン・キホーテ」は先行する騎士文学への否定である、つまり小説の形で先行する小説形式を批判した、という議論である。あれ以来「ドン・キホーテ」の活力は小説形式を批判するその活発な力であると考えている。メタフィクション的な要素が含まれるのは当然なのだ。プロジェクト・グーテンバークにはさまざまな翻訳が集録されていてどれを読むかはその人の自由だが、最近電子化されたのは1775年スモレットによって訳出されたものである。古いので綴りが今とはちょっと違うが、日本語訳なら片山伸の訳を読むようで、かえって雰囲気が出ている。


Project Gutenberg

Oblomov by Ivan Goncharov


イワン・ゴンチャロフの「オブローモフ」はいわばロシアの「引きこもり」を描いた小説だが、ドストエフスキーの「カラマーゾフ」やトルストイの「戦争と平和」に勝るとも劣らない傑作である。この本は十年くらい前からプロジェクト・グーテンバークに集録されていたのだが、今回誤植などを訂正して新版として発表された。1915年に出たホガース訳である。新しい英語翻訳が読みたいならスティーブン・パールの見事な訳業がある。


Project Gutenberg

Futility by William Gerhardie


ウィリアム・ジェハーディーを知っている人はいるだろうか。生前はイーヴリン・ウォーやグレアム・グリーンといった文壇の大御所たちがこぞって彼を称賛していたのだが1940年代になると作品を書かなくなり忘れられていった。本書「むなしさ」は革命前後のロシアを舞台にした自伝的小説。「オブローモフ」と読み比べるのも一興だろう。またブリジッド・ブロフィがナボコフの「栄光」と本書を比較したエッセイを書いている。ナボコフも本書を読んでいたと思う。ただし登場人物が膨大なのでメモを取りながら読まないと混乱する。


Fadedpage

Point Coutner Point by Aldous Huxley


「対位法」は1928年に発表されたハクスレーの代表作。この本も三年くらい前からアップロードされているのだが、やはり今回なんらかの訂正をほどこしニュー・バージョンとして発表された。ハクスレーの知的な作品は面白く、学生時代に読みあさった。小説はどれも考えさせる内容を持っていたし、評論でも Grey Eminence は奇怪な人間精神のありようを追求してわたしを圧倒した。「対位法」は1920年代のイギリス社会をさまざまな人々の生き様を通して批判的に描き出したものだ。調べてみると永松定と朱牟田夏雄の訳があるらしい。朱牟田夏雄は「トリストラム・シャンディ」の名訳で知られるが、現代小説の訳もうまいのだろうか。読んでみたい。


Monday, November 17, 2025

Elementary German Series (11)

11. Die Monate

Die Monate heißen Januar, Februar, März, April, Mai, Juni, Juli, August, September, Oktober, November und Dezember. Der erste Monat heißt Januar, der dritte heißt März, und der letzte heißt Dezember. Für die Kinder ist der letzte Monat der beste, denn am fünfundzwanzigsten Dezember ist Weihnachten.

Ein Monat hat dreißig oder einunddreißig Tage. Sieben Monate haben einunddreißig Tage, vier Monate haben dreißig Tage, und der Monat Februar hat achtundzwanzig oder neunundzwanzig Tage.

Für die Studenten in Deutschland ist die erste Woche des Monats die beste Woche, und die letzte Woche ist die schlechteste Woche. In der ersten Woche hat der Student Geld, in der letzten Woche hat er Hunger.

Man sagt:
Wenn im Januar der Winter nicht kommen will,
kommt er im März und im April.
Oder auch:
Was der März nicht will, nimmt der April.

Friday, November 14, 2025

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(14)

§14. Die einen gehen, die andern bleiben.

ある者は去り、ある者は居残る。

 二人いる中の一方(der eine)と他方(der andere)とを区別するごとく、大勢を指して、「一部の人たちは」という時にも、ein-, ander- を用います。三度目から後は die dritten, die vierten などといえばよろしい。

Tuesday, November 11, 2025

英語読解のヒント(195)

195. to say nothing of / not to speak of / not to mention

基本表現と解説
  • He is well versed in Greek and Latin, to say nothing of modern languages. 「近代語は言うまでもなく、ギリシャ語、ラテン語にも精通している」
  • He is not well versed in modern languages, to say nothing of Greek and Latin. 「ギリシャ語、ラテン語はおろか、近代語にも通じていない」

to say nothing of / not to speak of / not to mention は「……は言うにおよばず」、「……は言うまでもなく」の意味。

例文1

"About five feet and a half from the casement in question there runs a lightning-rod. From this rod it would have been impossible for any one to reach the window itself, to say nothing of entering it."

E. A. Poe, "The Murders in the Rue Morgue"

「問題の窓から五フィート半ほど離れたところに避雷針が立っている。この避雷針からは、室内に入ることはおろか、窓に手を伸ばすことだってできないだろう」

例文2

You may be a great writer in embryo, but you will never develop into a fetus, not to speak of full maturity, unless you bring out what is in you.

Joseph Devlin, How to Speak and Write Correctly

あなたは偉大な作家となるべき胎芽なのかもしれない。しかしあなたの中にあるものを引き出さなければ、胎児に成長することはない。まして成熟を遂げることなどありえない。

例文3

This telescoping of images and multiplied association is characteristic of the phrase of some of the dramatists of the period which Donne knew: not to mention Shakespeare, it is frequent in Middleton, Webster, and Tourneur, and is one of the sources of the vitality of their language.

T. S. Eliot, Homage to John Dryden

複数のイメージ、複数の連想の圧縮は、ダンと同時代の劇作家たち何人かが用いた特徴的な表現法である。シェイクスピアは言うまでもないが、ミドルトンやウエブスター、ターナーにも頻出し、その言語的活力の源の一つとなっている。

アリス・ジョリー「マッチ箱の少女」

この本はまだ読んでいない。ただ数日前に作者がガーディアン紙に新作「マッチ箱の少女」に関する一文を寄稿していて、それが面白かったのでさっそく注文した。寄稿された記事のタイトルは「自閉症に関する彼の研究は思いやりに溢れていた――ハンス・アスペルガーはいかにしてナチスに協力したか」( ...