プロレスではタイトル戦の前に選手たちが記者会見を開き、意気込みのほどを語るのが慣行となっている。
もちろん真面目にしゃべる人もいるし、対戦相手に遺恨があって不穏な雰囲気を漂わせる人もいる。また、試合では真剣に戦うが、こういう場では面白いことを言って笑わせる人もいる。
八月二十六日に行われた全日本プロレス・アジアタッグ選手権の会見は面白かった。チャンピオン野村・青柳組に、大森・木高組が挑戦する試合である。大森は気心の知れた木高とのタッグということで、口も軽かった。木高も適宜合いの手、というか、突っ込みを入れて好調だった。
しかしわたしが感心したのはチャンピオンチームの反応である。青柳は絶好調であることを訴え、今は何も怖いものがない、No Fear であると大森をむこうに言い放った。
青柳は昔から負けん気が強いだけでなく、コメントもうまい。No Fear が彼の口から飛び出したときも、うまいことを言うなと思った。会見はドンキホーテの店内で、お客さんを前に行われたようだが、彼が No Fear を口にした途端、おおっとどよめきがあがった。
野村のコメントもよかった。彼は口べたなのか、あまりコメントに冴えがないのだが、この日はちょっと違った。記者から「ベテランの挑戦者をどう思うか」と問われ、彼はほっぺたでニコニコ笑いながら「これに勝ったら、もう、おっさんの挑戦は受けない。おっさんを消滅させます」と応えた。
「おっさんを消滅させます」には会場からも笑い声があがった。野村のコメントとしては上等の部類に入るだろう。
こういう楽しい前哨戦を見せられたら、本戦も見ないわけにはいかない。大森にはおっさんの意地を、木高にはジュニア・ヘビーの老練で老獪な技術を見せて欲しい。(大森は木高の師匠格だが、実際の試合でチームをリードすべきは木高のほうだろう。タイトルを獲るか獲れないかは、木高の活躍にかかっていると思う。)それが野村・青柳の爆発力とぶつかれば、これはもう面白くないわけがない。
Saturday, August 25, 2018
Thursday, August 23, 2018
「愛には危険がともなうことも」 Love Can Be Dangerous
1955年、コーエンの晩年に出た作品である。おそらく最後の作品ではないだろうか。もしそうだとしたらこれは掉尾を飾るにふさわしい作品といわなければならない。コーエン的なミステリの究極の形が示されているのだから。
物語はこんなふうに始まる。カリフォルニアの高級リゾート地で殺人が起きた。ここにはコテージがいくつもあって、隣のコテージで開かれていたパーティーに参加していたある女性が、その最中に自分が借りているコテージに戻ってみると、男の死体があったのである。さっそく警察が呼ばれ、ウォルシュ警視と若い巡査部長のダニー(ダニーが本編の語り手である)が現場にかけつける。問題のコテージに入ると、確かに男の死体がある。しかし女性が発見したときとは違う部屋にいたのだ。
この女性は嘘をついたのか。それとも警察が来るまでのあいだに誰かがコテージに侵入し、死体を移動したのか。捜査は難航し、その間に第二、第三の殺人が行われる。
ネタバレしないように筋書きは途中でおさえたが、しかしこれから先でネタバレせざるをえない。「コーエン的なミステリ」を説明するにはそうするしかないのだ。
探偵小説の探偵は、普通、事件の外部に立っている。彼は冷静に、あるいは冷徹に事件を観察し、推理する。事件の外部に立つことによって、事件の内部にいる人々には見えないものが見える。内部の人には当然と思えることも、彼には当然ではない。その視差が推理を可能にする。わたしは谷崎潤一郎の「途上」という短編を、そうした内部と外部の差を典型的に示した作品だと考えている。
ところがこの探偵が内部の人間となんらかの関係を持ってしまうとどうなるか。二十世紀の初頭から三十年代くらいまでの作品をいろいろ読んで見たところ、どうも物語は推理小説からメロドラマに変質してしまうのである。探偵が内部の人間と関係を持ったとたん、内部を外部から見る物語ではなく、内部を内部から見る物語になるのだ。外部から内部に移行した探偵は探偵能力を失い、内部の物語の一人物と化してしまう。「トレント最後の事件」で探偵が事件を解決できないのは、彼がいろいろな形であらかじめ事件の内部にまきこまれているからだ。
これに反してハードボイルドの探偵は、積極的に内部にコミットし、内部の物語の核へと突き進む。この核というのは大抵の場合フェム・フェタールと言われるものなのだが、探偵は彼女を特定し、かつ彼女が持っている力・魅力を無化してしまうのだ。彼女の存在が崩壊したとき、探偵は物語からある種の距離を取ることができるようになる。
コーエンのミステリは上記の二つのタイプの混合型である。「赤いアリバイ」をレビューしたときにも書いたが、探偵はある「予断」をもって事件に相対する。つまり「この男は無実だ」という予断である。彼はまだ事件の捜査を開始していないし、すべての人を疑うというのが捜査の鉄則なのに、コーエンの探偵ははじめから、ある意味、無根拠な信頼を内部の人間にたいして抱いてしまう。しかし内部の物語にどうしても解消し得ない矛盾があることに気づき、そこではじめて彼が前提としていた「予断」を疑うようになるのだ。
これは危険な探偵方法である。もしも矛盾が生じなければ「予断」が疑われることはないのだから。
さて、「愛には危険がともなうことも」は厳密には探偵小説ではないかもしれない。事件の捜査に当たるのはロサンジェルスの警察だからだ。厳密に言えば、Police procedural というジャンルになるのだろう。だが、語り手でもある巡査部長ダニーはコーエン的な探偵といっていい。彼は最後に見事な推理を展開し、真犯人を指摘する。それは名探偵の推理のように読者をはっとさせる。が、彼が標準的な名探偵と違うのは、彼が登場人物の一人、美しいある女性と恋に陥る点である。そのことによって事件を見る彼の目には盲点が生じるのだ。
恋に陥ることで彼には事件が見えなくなる。彼は「予断」を持ってしまうからだ。しかし彼の上司であるウォルシュ警視や全米の警察のネットワークが、隠された真実の一部をあばくことに成功する。それを聞いた瞬間、ダニーは気がつくのだ。彼がその命を守ろうと必死になっていた愛する女性、彼の隣に座り、その腰をしっかりと彼が抱いていた女性、彼女こそが真犯人なのだということに。
フェム・フェタールは「男にとっての欲望の対象」であり、「男たちのシンプトム(徴候)」である。彼女は魅力的に見えるけれども、その魅力は仮面に他ならない。ダニーは物語の内部に入りこみ、事件の当事者の欲望空間をなぞるように進んでいった。ある意味で彼は当事者と一体化したのである。しかし最後に彼は内部の世界のリビディナルな核を突き止め、その無効性(仮面にすぎないこと)を宣言するのである。
本編は名作とまではいわないが、しかしコーエンのミステリの中では白眉の出来を示している。ただ翻訳はちょっと難しいなあ。手がかりが英語の綴りにあるから。しかし英語ができるミステリ・ファンにはぜひ一読をお勧めしたい。
物語はこんなふうに始まる。カリフォルニアの高級リゾート地で殺人が起きた。ここにはコテージがいくつもあって、隣のコテージで開かれていたパーティーに参加していたある女性が、その最中に自分が借りているコテージに戻ってみると、男の死体があったのである。さっそく警察が呼ばれ、ウォルシュ警視と若い巡査部長のダニー(ダニーが本編の語り手である)が現場にかけつける。問題のコテージに入ると、確かに男の死体がある。しかし女性が発見したときとは違う部屋にいたのだ。
この女性は嘘をついたのか。それとも警察が来るまでのあいだに誰かがコテージに侵入し、死体を移動したのか。捜査は難航し、その間に第二、第三の殺人が行われる。
ネタバレしないように筋書きは途中でおさえたが、しかしこれから先でネタバレせざるをえない。「コーエン的なミステリ」を説明するにはそうするしかないのだ。
探偵小説の探偵は、普通、事件の外部に立っている。彼は冷静に、あるいは冷徹に事件を観察し、推理する。事件の外部に立つことによって、事件の内部にいる人々には見えないものが見える。内部の人には当然と思えることも、彼には当然ではない。その視差が推理を可能にする。わたしは谷崎潤一郎の「途上」という短編を、そうした内部と外部の差を典型的に示した作品だと考えている。
ところがこの探偵が内部の人間となんらかの関係を持ってしまうとどうなるか。二十世紀の初頭から三十年代くらいまでの作品をいろいろ読んで見たところ、どうも物語は推理小説からメロドラマに変質してしまうのである。探偵が内部の人間と関係を持ったとたん、内部を外部から見る物語ではなく、内部を内部から見る物語になるのだ。外部から内部に移行した探偵は探偵能力を失い、内部の物語の一人物と化してしまう。「トレント最後の事件」で探偵が事件を解決できないのは、彼がいろいろな形であらかじめ事件の内部にまきこまれているからだ。
これに反してハードボイルドの探偵は、積極的に内部にコミットし、内部の物語の核へと突き進む。この核というのは大抵の場合フェム・フェタールと言われるものなのだが、探偵は彼女を特定し、かつ彼女が持っている力・魅力を無化してしまうのだ。彼女の存在が崩壊したとき、探偵は物語からある種の距離を取ることができるようになる。
コーエンのミステリは上記の二つのタイプの混合型である。「赤いアリバイ」をレビューしたときにも書いたが、探偵はある「予断」をもって事件に相対する。つまり「この男は無実だ」という予断である。彼はまだ事件の捜査を開始していないし、すべての人を疑うというのが捜査の鉄則なのに、コーエンの探偵ははじめから、ある意味、無根拠な信頼を内部の人間にたいして抱いてしまう。しかし内部の物語にどうしても解消し得ない矛盾があることに気づき、そこではじめて彼が前提としていた「予断」を疑うようになるのだ。
これは危険な探偵方法である。もしも矛盾が生じなければ「予断」が疑われることはないのだから。
さて、「愛には危険がともなうことも」は厳密には探偵小説ではないかもしれない。事件の捜査に当たるのはロサンジェルスの警察だからだ。厳密に言えば、Police procedural というジャンルになるのだろう。だが、語り手でもある巡査部長ダニーはコーエン的な探偵といっていい。彼は最後に見事な推理を展開し、真犯人を指摘する。それは名探偵の推理のように読者をはっとさせる。が、彼が標準的な名探偵と違うのは、彼が登場人物の一人、美しいある女性と恋に陥る点である。そのことによって事件を見る彼の目には盲点が生じるのだ。
恋に陥ることで彼には事件が見えなくなる。彼は「予断」を持ってしまうからだ。しかし彼の上司であるウォルシュ警視や全米の警察のネットワークが、隠された真実の一部をあばくことに成功する。それを聞いた瞬間、ダニーは気がつくのだ。彼がその命を守ろうと必死になっていた愛する女性、彼の隣に座り、その腰をしっかりと彼が抱いていた女性、彼女こそが真犯人なのだということに。
フェム・フェタールは「男にとっての欲望の対象」であり、「男たちのシンプトム(徴候)」である。彼女は魅力的に見えるけれども、その魅力は仮面に他ならない。ダニーは物語の内部に入りこみ、事件の当事者の欲望空間をなぞるように進んでいった。ある意味で彼は当事者と一体化したのである。しかし最後に彼は内部の世界のリビディナルな核を突き止め、その無効性(仮面にすぎないこと)を宣言するのである。
本編は名作とまではいわないが、しかしコーエンのミステリの中では白眉の出来を示している。ただ翻訳はちょっと難しいなあ。手がかりが英語の綴りにあるから。しかし英語ができるミステリ・ファンにはぜひ一読をお勧めしたい。
Tuesday, August 21, 2018
日本に知的文化はない
高知県立大学が蔵書三万八千冊を焼却した。中には貴重な郷土本、絶版本がたくさんあったとされている。
なぜ他の図書館に寄贈しなかったのかという、ごくごく当然の疑問が一般人から多数寄せられている。
しかし日本はもともと知的な財産をないがしろにする国である。貴重な資料であっても保管場所がなくなればぽいと捨てて顧みない。重要な行政文書もどんどんなくなっている。あれは自分たちに都合の悪いことを隠す意図も大いにあるけれど、もともと日本人には知的な財産を保存するという観念がないからである。
大学は文化の拠点のようにいわれるけれども、日本の場合はセクハラ、パワハラの巣窟であり、権威主義をもり立てるだけの商業施設で、文化なんか生み出してはいない。世界における日本の大学のランクは、今後、ますます下がっていくだろう。
今の政権はまさに日本を象徴する。日本語が読めず、ゴルフばかりする首相、漫画しか読まない大臣。愚昧な発言を繰り返す議員。なぜ彼らが選ばれるかと言えば、教養主義に対する漠然とした反感が国民のあいだに広がっているからだろう。
そんな日本にも知を紡ぎ出そうとする努力する思想家がかろうじていたものだ。吉本隆明とか江藤淳とか丸山眞男とかだ。しかしその系譜も柄谷行人(まだ生きているけど)で途切れたよう見える。日本にあったなけなしの知の伝統も消滅寸前である。
日本は西洋の猿まねをしてきたが、化けの皮がはがれた、あるいはお里が知れた、というのが現状ではないだろうか。森鴎外の「金比羅」は現代日本への批判としても有効に読める。
なぜ他の図書館に寄贈しなかったのかという、ごくごく当然の疑問が一般人から多数寄せられている。
しかし日本はもともと知的な財産をないがしろにする国である。貴重な資料であっても保管場所がなくなればぽいと捨てて顧みない。重要な行政文書もどんどんなくなっている。あれは自分たちに都合の悪いことを隠す意図も大いにあるけれど、もともと日本人には知的な財産を保存するという観念がないからである。
大学は文化の拠点のようにいわれるけれども、日本の場合はセクハラ、パワハラの巣窟であり、権威主義をもり立てるだけの商業施設で、文化なんか生み出してはいない。世界における日本の大学のランクは、今後、ますます下がっていくだろう。
今の政権はまさに日本を象徴する。日本語が読めず、ゴルフばかりする首相、漫画しか読まない大臣。愚昧な発言を繰り返す議員。なぜ彼らが選ばれるかと言えば、教養主義に対する漠然とした反感が国民のあいだに広がっているからだろう。
そんな日本にも知を紡ぎ出そうとする努力する思想家がかろうじていたものだ。吉本隆明とか江藤淳とか丸山眞男とかだ。しかしその系譜も柄谷行人(まだ生きているけど)で途切れたよう見える。日本にあったなけなしの知の伝統も消滅寸前である。
日本は西洋の猿まねをしてきたが、化けの皮がはがれた、あるいはお里が知れた、というのが現状ではないだろうか。森鴎外の「金比羅」は現代日本への批判としても有効に読める。
Sunday, August 19, 2018
図書館を守れ
ザ・ガーディアンの記事に驚いた。
イギリスでは公共図書館が次々に閉鎖されたり、運営がボランティア任せになりつつある。どの州も財政的な問題が深刻化しているからである。
ノーサンプトンシャー州も二十一の図書館を閉鎖する計画を立てていた。
これに対して一人の女の子とその家族が裁判を起こし、州に計画の見直しを求めた。
高等法院から出た判決は……「州の計画決定過程は法にかなっていない」というものだった。もうちょっと詳しく言うと、図書館が閉鎖されたのちの、住民に対する法律的義務、物質的配慮が十分になされぬまま、計画が立てられている、と批判したのである。
裁判官であるイップ氏は「台所事情は充分にわかっているが、しかしそれでも州は法的に振る舞わなければならない」と言っている。
イギリスの図書館では本の貸し出しや子供たちへのサービスだけでなく、バスの定期券や障害者のブルー・バッジの発行など、いろいろな住民サービスを行っている。二十一も図書館がなくなったら、多くの住民が不便を感じるであろう事は疑いない。
しかしわたしが感心したのは裁判官のあきれるくらい良識的な考え方である。「州政府が財政的な問題によって動機づけられることは批判できない。しかし考えるべきことは財政だけではない。州政府は法的な義務を果たさなければならないのだ」
為政者には果たすべき法律的義務がある。
立憲主義を否定する政治家がうようよしている日本においては、こんな当たり前のことが新鮮に響くし、また司法が堂々とそれを根拠に裁定を下す姿は、うらやましくてならない。
もう一つ感心したのは、裁判を起こしたのが一人の少女とその家族だということだ。イギリスも日本も島国というが、個人主義ははるかに彼方の国のほうが根づいているようだ。しかも裁判所は為政者と市民のあいだの力関係ではなく、純粋に法律的観点から判断を下した。これまた当たり前のことだが、どこかの国では司法が権力に媚び、その当たり前が通用しないのである。
イギリスでは公共図書館が次々に閉鎖されたり、運営がボランティア任せになりつつある。どの州も財政的な問題が深刻化しているからである。
ノーサンプトンシャー州も二十一の図書館を閉鎖する計画を立てていた。
これに対して一人の女の子とその家族が裁判を起こし、州に計画の見直しを求めた。
高等法院から出た判決は……「州の計画決定過程は法にかなっていない」というものだった。もうちょっと詳しく言うと、図書館が閉鎖されたのちの、住民に対する法律的義務、物質的配慮が十分になされぬまま、計画が立てられている、と批判したのである。
裁判官であるイップ氏は「台所事情は充分にわかっているが、しかしそれでも州は法的に振る舞わなければならない」と言っている。
イギリスの図書館では本の貸し出しや子供たちへのサービスだけでなく、バスの定期券や障害者のブルー・バッジの発行など、いろいろな住民サービスを行っている。二十一も図書館がなくなったら、多くの住民が不便を感じるであろう事は疑いない。
しかしわたしが感心したのは裁判官のあきれるくらい良識的な考え方である。「州政府が財政的な問題によって動機づけられることは批判できない。しかし考えるべきことは財政だけではない。州政府は法的な義務を果たさなければならないのだ」
為政者には果たすべき法律的義務がある。
立憲主義を否定する政治家がうようよしている日本においては、こんな当たり前のことが新鮮に響くし、また司法が堂々とそれを根拠に裁定を下す姿は、うらやましくてならない。
もう一つ感心したのは、裁判を起こしたのが一人の少女とその家族だということだ。イギリスも日本も島国というが、個人主義ははるかに彼方の国のほうが根づいているようだ。しかも裁判所は為政者と市民のあいだの力関係ではなく、純粋に法律的観点から判断を下した。これまた当たり前のことだが、どこかの国では司法が権力に媚び、その当たり前が通用しないのである。
Friday, August 17, 2018
「愛にアリバイはなし」 Love Has No Alibi
昔、コーエンのパルプ小説にはまって、手当たり次第に読んでいた時期がある。フレデリック・ブラウンやリチャード・マーシュのような軽さや妙味があって、少しもあきなかった。先ごろ Hathi Trust のサイトを調べたら、まだ読んでいないコーエンの作品がデジタル化されて提供されていたので、ミステリ作品を選んで読んでみることにした。前回レビューした「赤いアリバイ」も Hathi Trust のサイトで見つけた。
今回読んだのは「愛にアリバイはなし」。一九四六年の作品だ。パルプ的な味わいは残しているが、これはかなり本格的なミステリである。しかもぞくぞくするようなストーリーテリングは、いつもとまったく変わらない。コーエンはとにかく、読者の興味をかき立てる筋の作り方に長けている。
主人公は若き建築家カーク。彼は独身だが、とびきり有名なダンサーで美人のダナと恋をしている。もちろん彼らは結婚したいのだが……ダナはすでにダンスのパートナーであるリカルドと結婚していたのだ。といっても二人の仲は悪く、現在は別居中である。さっさと離婚すればいいではないか、とわれわれは思うけれど、リカルドは最高のダンス・パートナーを失いたくないので、離婚に同意しないのである。
というわけで、物語はダナがダンスを披露する、ニューヨークの華やかなクラブを舞台に展開される。
映画で見るようなロマンチックなセッティングだが、建築家カークの銀行口座に、謎の人物から十万ドルが振り込まれるという奇怪な出来事が起き、ここから不吉な通奏低音が響きはじめる。
いったい誰が、何のためにこんな大金を彼の口座に振り込んだのか。しかし奇妙な事件はそれだけに留まらない。数日後、カークがアパートに戻ると、そこには見知らぬ女が死体となって横たわっていた。さらに彼は億万長者の娘から熱烈なアプローチを受け、ダナの嫉妬を買う。彼の友人である研修医は何者かによって銃で撃たれ、別の知り合いの女性はダナが踊っているクラブ内で射殺される。
テンポよくこうした事件が次々と起きて、最後にカークによって犯人が指摘され、奇怪な出来事の背後で何が生じていたのかが明らかにされる。
正直に言えば、カークが犯人に気づくときは、読者も犯人に気づくと思う。すくなくともわたしはすぐにわかった。しかしそれ以前に犯人を見抜くのは容易ではないだろう。それまではカークやダナと同様、別の人物が犯人であると思いこむはずだ。ところが物語の最後で意想外の人物が犯人であることを知る。
推理の部分はどうということはないけれど、このどんでん返しはあざやかで見事だ。わたし流の言い方をすると、カークとダナ(そして読者)はAという物語を想定しながら事件の推移を見守るわけだが、最後の瞬間にそれがひっくり返され、Bという物語が真相であることに気づく。ミステリは一種、物語批判の物語なのであり、本書はその特質を非常によく表現している。
今回読んだのは「愛にアリバイはなし」。一九四六年の作品だ。パルプ的な味わいは残しているが、これはかなり本格的なミステリである。しかもぞくぞくするようなストーリーテリングは、いつもとまったく変わらない。コーエンはとにかく、読者の興味をかき立てる筋の作り方に長けている。
主人公は若き建築家カーク。彼は独身だが、とびきり有名なダンサーで美人のダナと恋をしている。もちろん彼らは結婚したいのだが……ダナはすでにダンスのパートナーであるリカルドと結婚していたのだ。といっても二人の仲は悪く、現在は別居中である。さっさと離婚すればいいではないか、とわれわれは思うけれど、リカルドは最高のダンス・パートナーを失いたくないので、離婚に同意しないのである。
というわけで、物語はダナがダンスを披露する、ニューヨークの華やかなクラブを舞台に展開される。
映画で見るようなロマンチックなセッティングだが、建築家カークの銀行口座に、謎の人物から十万ドルが振り込まれるという奇怪な出来事が起き、ここから不吉な通奏低音が響きはじめる。
いったい誰が、何のためにこんな大金を彼の口座に振り込んだのか。しかし奇妙な事件はそれだけに留まらない。数日後、カークがアパートに戻ると、そこには見知らぬ女が死体となって横たわっていた。さらに彼は億万長者の娘から熱烈なアプローチを受け、ダナの嫉妬を買う。彼の友人である研修医は何者かによって銃で撃たれ、別の知り合いの女性はダナが踊っているクラブ内で射殺される。
テンポよくこうした事件が次々と起きて、最後にカークによって犯人が指摘され、奇怪な出来事の背後で何が生じていたのかが明らかにされる。
正直に言えば、カークが犯人に気づくときは、読者も犯人に気づくと思う。すくなくともわたしはすぐにわかった。しかしそれ以前に犯人を見抜くのは容易ではないだろう。それまではカークやダナと同様、別の人物が犯人であると思いこむはずだ。ところが物語の最後で意想外の人物が犯人であることを知る。
推理の部分はどうということはないけれど、このどんでん返しはあざやかで見事だ。わたし流の言い方をすると、カークとダナ(そして読者)はAという物語を想定しながら事件の推移を見守るわけだが、最後の瞬間にそれがひっくり返され、Bという物語が真相であることに気づく。ミステリは一種、物語批判の物語なのであり、本書はその特質を非常によく表現している。
Wednesday, August 15, 2018
なぜプロレスを見るのか
筋トレをはじめてからプロレスを見るようになった。筋トレの最中(たとえばスクワットの最中)にプロレスを見ると、結構がんばりがきくからである。一度相手を腹に乗せ、それからグイとばかりに後ろに反り返る宮原健斗のバックドロップ、大きなレスラーが両手を合わせ、力比べをする場面など、見ているこっちも力が入る。
映画を見ていた時期もあったが、筋トレは一時間程度でやめるので、途中までしか見れない。筋トレのあと、残りを見ればいいのだが、シャワーを浴びたりすると気分が変わってしまうことが多い。
わたしはボディビルダーのような逆三角形の体格より、プロレスラーのような体格を理想としている。とりわけ身長が近い青木篤志の体格にはあこがれる。あの腕と胸と太ももの分厚さはすごい。以前、中島洋平が青木のマスクを奪い、かぶったことがあったが、その写真を見て(中島には失礼だが)肉体の迫力の違いに驚いた。さすが全日本をリードする男である。
ホーム・ワークアウトをしている人で、プロレスを見ながらトレーニングをするという人は案外多いんじゃないかと思う。
映画を見ていた時期もあったが、筋トレは一時間程度でやめるので、途中までしか見れない。筋トレのあと、残りを見ればいいのだが、シャワーを浴びたりすると気分が変わってしまうことが多い。
わたしはボディビルダーのような逆三角形の体格より、プロレスラーのような体格を理想としている。とりわけ身長が近い青木篤志の体格にはあこがれる。あの腕と胸と太ももの分厚さはすごい。以前、中島洋平が青木のマスクを奪い、かぶったことがあったが、その写真を見て(中島には失礼だが)肉体の迫力の違いに驚いた。さすが全日本をリードする男である。
ホーム・ワークアウトをしている人で、プロレスを見ながらトレーニングをするという人は案外多いんじゃないかと思う。
Monday, August 13, 2018
アブローラーの意外な効果
今年の冬、トレーニングの最中に右の肘を痛めた。準備運動はしているけれど、寒いときは、それでも怪我をすることがある。この痛みがなかなか引かない。完全に治るのに、半年か一年はかかるのかな、とあきらめていた。
そこで腕立てのように右腕に力が入る種目はやらずにいた。必然、腹筋やスクワットにかける時間が多くなる。
腹筋運動だが、自宅である程度負荷のかかる運動をしようと思うと、たいてい背中を床につけることになる。鉄棒やスタンドがあればいいのだが、うちにそんなものはない。プランクは体幹を鍛えるのによいそうだが、わたしはほとんどやらない。効いているのか効いていないのか、よくわからないからだ。よくやるのはクランチである。
腹筋運動の時間が増えると、クランチ以外の種目もやりたくなった。できたら背中を床につけないでやるものはないか。そんなとき百円ショップでアブローラーを見つけた。値段は三百円だったけど。
先日買ったばかりなので、まだ姿勢とか要領がよくわかっていない。しかし意外な効果があった。
腕を伸ばしてローラーを前に押しやり、また引き戻すという動作は、肘を伸ばした状態の腕に強い負荷がかかる。上達すれば腹筋の力でやれるようになるのかもしれないが、今のところわたしはかなり腕の力も使っている。
するとどうだろう。右腕の肘の痛みが軽くなったのである。たまに右手で重いものを持ち、翌日腕の反応を見ていたが、痛みは増すだけで、軽くなることはなかった。アブローラーの場合は、肘を伸ばし、自分の体重を支えるという、いままでにない筋肉の負荷がかかるのだが、それが肘の痛みが半減した。
まだ痛みはすこし残っているが、症状ははるかに改善された。しかも時間が経つほどによくなっている。理由はさっぱりわからないが、とにかくありがたい。
そこで腕立てのように右腕に力が入る種目はやらずにいた。必然、腹筋やスクワットにかける時間が多くなる。
腹筋運動だが、自宅である程度負荷のかかる運動をしようと思うと、たいてい背中を床につけることになる。鉄棒やスタンドがあればいいのだが、うちにそんなものはない。プランクは体幹を鍛えるのによいそうだが、わたしはほとんどやらない。効いているのか効いていないのか、よくわからないからだ。よくやるのはクランチである。
腹筋運動の時間が増えると、クランチ以外の種目もやりたくなった。できたら背中を床につけないでやるものはないか。そんなとき百円ショップでアブローラーを見つけた。値段は三百円だったけど。
先日買ったばかりなので、まだ姿勢とか要領がよくわかっていない。しかし意外な効果があった。
腕を伸ばしてローラーを前に押しやり、また引き戻すという動作は、肘を伸ばした状態の腕に強い負荷がかかる。上達すれば腹筋の力でやれるようになるのかもしれないが、今のところわたしはかなり腕の力も使っている。
するとどうだろう。右腕の肘の痛みが軽くなったのである。たまに右手で重いものを持ち、翌日腕の反応を見ていたが、痛みは増すだけで、軽くなることはなかった。アブローラーの場合は、肘を伸ばし、自分の体重を支えるという、いままでにない筋肉の負荷がかかるのだが、それが肘の痛みが半減した。
まだ痛みはすこし残っているが、症状ははるかに改善された。しかも時間が経つほどによくなっている。理由はさっぱりわからないが、とにかくありがたい。
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英語読解のヒント(230)
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§9. 不定の意を強める irgend 「何か」(etwas, was)といえばよいところを、特に念を入れて「何でもよいからとにかく何か」といいたい時には irgend etwas, irgend was といいます。その他不定詞(ein, jemand,...
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ウィリアム・スローン(William Sloane)は1906年に生まれ、74年に亡くなるまで編集者として活躍したが、実は30年代に二冊だけ小説も書いている。これが非常に出来のよい作品で、なぜ日本語の訳が出ていないのか、不思議なくらいである。 一冊は37年に出た「夜を歩いて」...
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