エリザベス女王がロックダウン下で生活するイギリス国民にメッセージを出した。わたしはそれをBBCで聞いた。じつをいうと、わたしは彼女のクリスマス・メッセージを聞いて英語にのめりこんだ。気品のあるクイーンズ・イングリッシュに魅了されたのである。彼女がメッセージを出すのはクリスマスのときと国会が開かれるときぐらいだから、今回のメッセージは異例といっていいだろう。それはともかくエリザベス女王はメッセージのなかで医療従事者に感謝し、「弱いものを守るために」自粛生活を送る市民に感謝した。そして最後に "We will be with our friends again, we will be with our families again, we will meet again" と結んだ。
それを聞いたとき、なにか妙に聞き覚えがある言葉だなと思ったのだが、それがようやくわかった。ヴェラ・リンの We Will Meet Again という曲だ。これは1940年代、第二次世界大戦中にはやった歌である。わたしがこの歌を知ったのはキューブリック監督の「博士の異常な愛情」を通してだ。この傑作映画のいちばん最後に彼女の歌が流れる。それを思い出したとき、エリザベス女王が第二次世界大戦のころを思い出し、今の状況をそれにたとえているのだということがわかった。女王が第二次世界大戦中、はじめてスピーチをおこなったときのことを語った理由もよくわかった。コロナとの戦いは戦争なのだ。歴史を知る女王には、あのときと今とが折り重なって見えている。そして不自由をしいられるけれども、われわれはかならず勝って「ふたたび相まみえるだろう」という、どことなく悲壮で、どことなくセンチメンタルなメッセージを国民に発したのだ。国民のほうも、現在のイギリスが世界大戦に匹敵する危機に見舞われているという女王の認識を、印象深く受け取ったにちがいない。
ひるがえって日本は、これが戦争だということがわからないらしい。この戦争のストラテジーは人間の接触の縮減、罹患者の発見とその行動の追跡なのだが、政府はそのための施策、たとえば接触の縮減がもたらす経済的損害に対する補償とか、検査の拡充、人の動きの規制などといったことを、なにもしないというありさまである。戦争をしたがるこの国のリーダーは、じつは戦争の仕方を知らないのである。
Saturday, April 11, 2020
Thursday, April 9, 2020
全日本プロレス新木場無観客試合
無観客試合でも面白いプロレスは見られるのではないか.逆に無観客だからこそ独特の空間が生まれるのではないか。そんな期待は裏切られなかった。わたしが見た最初の無観客試合はプロレスリング・ノアの潮崎対藤田戦。これは観客がいたなら絶対にありえない試合だった。ゴングが鳴ってからまるまる三十分間、両者がにらみ合うだけだったのだから。あんまり二人がじっとしているので、身体が冷え切って動いたときに怪我をしないかと気になってならなかった。しかしとにかくこの試合は無観客試合の可能性を示したと言える。生放送で見ると、いつなにが起きるかわからないと、画面に釘付けになってしまった。試合後もファンのあいだではずいぶん話題になった。
さて四月六日の全日本の試合だが、こちらはまた独特の雰囲気が漂っていた。選手のレスリングに対する愛がぎゅっと詰め込まれたような興業だった。試合が次々と中止になり、身体の中にエネルギーが鬱積しているのだろう。そしてレスラーはやはりレスリングを通じてしか自己表現ができないと、あらためて感じたのだろう。レスリングへの情熱を全員がふたたび確認し合ったような、ちょっと感動的な試合だった。
最初の数試合は短時間で決着がついた。たまりにたまったエネルギーを爆発させあったので、実力が上と目される選手が格下からあっという間にスリーカウントを奪ったという格好だ。最後のメインイベントは、大迫力だった。諏訪魔・宮原・ゼウス 対 石川・ジェイク・青柳という面妖なチーム構成だったが、いずれ劣らぬ実力者ばかりで、お互い意地もあるし、時間を掛けて調整ができたからコンディションも抜群だ。延々六十分戦い、時間切れ引き分け。試合後は六人全員が並んで、画面の背後のファンたちに腕を上げてみせた。
ジェイクは「プロレスってみんなに希望とか、夢だったりとか、そういうのを提供する職業」と言ったけれど、それは「いま全日本プロレスにできること」と銘打たれたこの興業に参加した全選手の思いとおなじだろう。力道山が敗戦後の日本を熱狂させ、小さな明かりを灯してくれたが、そうしたプロレスの原点を全員が再確認した感じである。
彼らのような文化の継承者を政府はしっかり支援しなければならないのだが、およそ効果のない施策しか打ち出せない政府はさっさと退陣してほしい。コロナよりも今の政府のほうが人を殺している。
さて四月六日の全日本の試合だが、こちらはまた独特の雰囲気が漂っていた。選手のレスリングに対する愛がぎゅっと詰め込まれたような興業だった。試合が次々と中止になり、身体の中にエネルギーが鬱積しているのだろう。そしてレスラーはやはりレスリングを通じてしか自己表現ができないと、あらためて感じたのだろう。レスリングへの情熱を全員がふたたび確認し合ったような、ちょっと感動的な試合だった。
最初の数試合は短時間で決着がついた。たまりにたまったエネルギーを爆発させあったので、実力が上と目される選手が格下からあっという間にスリーカウントを奪ったという格好だ。最後のメインイベントは、大迫力だった。諏訪魔・宮原・ゼウス 対 石川・ジェイク・青柳という面妖なチーム構成だったが、いずれ劣らぬ実力者ばかりで、お互い意地もあるし、時間を掛けて調整ができたからコンディションも抜群だ。延々六十分戦い、時間切れ引き分け。試合後は六人全員が並んで、画面の背後のファンたちに腕を上げてみせた。
ジェイクは「プロレスってみんなに希望とか、夢だったりとか、そういうのを提供する職業」と言ったけれど、それは「いま全日本プロレスにできること」と銘打たれたこの興業に参加した全選手の思いとおなじだろう。力道山が敗戦後の日本を熱狂させ、小さな明かりを灯してくれたが、そうしたプロレスの原点を全員が再確認した感じである。
彼らのような文化の継承者を政府はしっかり支援しなければならないのだが、およそ効果のない施策しか打ち出せない政府はさっさと退陣してほしい。コロナよりも今の政府のほうが人を殺している。
Tuesday, April 7, 2020
利権と健康
危機に瀕したときにその人の本性が分かる、という俗説があるけれども、コロナ・ウイルスが猛威をふるう中、いろいろなことがはっきりと見えたのは悲しい「収穫」だった。ひとつはわれわれの健康に対する権利が利権によって制限されているという事実である。五輪延期が決まったとたん、罹患者の数の発表が急激に増えたこと、これは海外でも揶揄的に報道された。それまでも日本の発表する数字は少なすぎると疑われていたからだ。コロナに感染しているかどうかを調べるPCRテストが希望者に行われなかったのも、国立感染症研究所がデータを独占しようとして民間の機関には許可しなかったのだという。テストをしないことに対していろいろな「合理的説明」がなされたが、すべてはイデオロギーである。早期にコロナの封じ込めに成功した国、たとえば韓国や台湾では大規模で簡易な検査方法を用いて、患者の特定を急ぎ、その情報を共有した。
WHOですら利権団体である。日本から献金を受けると、日本のコロナに対する対応を賞賛したり、台湾がコロナの封じ込めに見事な手腕を発揮しても、中国に遠慮して彼らの成果を無視するのだ。香港ニュースに出演したWHOのアイルワード氏が台湾に関する質問を意図的に無視したことは世界的に大きく報じられた。これは大問題だ。武漢でコロナ・ウイルスが発見されたとき、WHOの対応が甘かったせいで、パンデミックに拡大したのではないかという指摘があるが、WHOが中国に遠慮しているという裏事情があったのだとしたら、なるほどそうした批判にはある程度の信憑性があるなと思う。しかしこれではWHOの意味がない。台湾がコロナ封じ込めのための知見を持っていてもWHOはそれを評価しないし、その他の国に伝えようとしない。たとえば台湾は中国からの人の流れを断固断ち切り、旅行者には早いうちから隔離を強制した。その結果、感染は他の国よりも抑えられ、死亡者もすくない。そのことをWHOが強調して世界に発信していたなら、もう少し状況は変化していただろう。
われわれはこうした利権の構造に安全や健康や自由や権利が、知らないうちに制限されているのではないかと、考えを巡らさなければならない。わたしがTPPに反対なのは、まさにそれがわれわれの自由の大切な一部を、企業に利権として売り渡すことになるからである。それは危機の時に甚大な損害となってわれわれにはねかえってくる。
WHOですら利権団体である。日本から献金を受けると、日本のコロナに対する対応を賞賛したり、台湾がコロナの封じ込めに見事な手腕を発揮しても、中国に遠慮して彼らの成果を無視するのだ。香港ニュースに出演したWHOのアイルワード氏が台湾に関する質問を意図的に無視したことは世界的に大きく報じられた。これは大問題だ。武漢でコロナ・ウイルスが発見されたとき、WHOの対応が甘かったせいで、パンデミックに拡大したのではないかという指摘があるが、WHOが中国に遠慮しているという裏事情があったのだとしたら、なるほどそうした批判にはある程度の信憑性があるなと思う。しかしこれではWHOの意味がない。台湾がコロナ封じ込めのための知見を持っていてもWHOはそれを評価しないし、その他の国に伝えようとしない。たとえば台湾は中国からの人の流れを断固断ち切り、旅行者には早いうちから隔離を強制した。その結果、感染は他の国よりも抑えられ、死亡者もすくない。そのことをWHOが強調して世界に発信していたなら、もう少し状況は変化していただろう。
われわれはこうした利権の構造に安全や健康や自由や権利が、知らないうちに制限されているのではないかと、考えを巡らさなければならない。わたしがTPPに反対なのは、まさにそれがわれわれの自由の大切な一部を、企業に利権として売り渡すことになるからである。それは危機の時に甚大な損害となってわれわれにはねかえってくる。
Sunday, April 5, 2020
トポロジカル・リーディング その2
ある人を通して別の人が語っている構造。AとBが奇妙な一体性(同時に異なる存在でもあるのだが)。これが隠された形で用いられている場合は、クライン管型の読解をしていかなければならない。しかしこの二重性が顕在的にテキストにあらわれている場合がある。その場合はクロスキャップ型の構造を持つという。
クロスキャップ型の例としてシェイクスピアの「冬物語」をあげることができる。細かい説明は省くが、二人の王リオンディーズとポリクシニーズは同一にして、同時に完全に他なる存在だ。彼らのパラドキシカルな関係性は劇の冒頭から強調されている。さらにリオンティーズの妻ハーマイオニーは両者を一つにつなぎつつ、かつ分断する作用をあらわしている。彼女は連続点にして切断点、両者をもっとも強力に繋ぐ瞬間に、両者を切り離す力を最大限に発揮する逆説的な力である。ハーマイオニーはクロスキャップの自己交差の交線を示している。
さらにAからBへの反転が一人の人間によって表現される場合がある。これはメビウスの帯型という構造になる。
たとえばわたしの翻訳した作品の中では「オードリー夫人の秘密」がそうだ。オードリー夫人はヴィクトリア朝の賢妻良母「家庭の天使」であり、同時に当時のジャーナリズムでおどろおどろしく報道された女殺人鬼でもある。彼女は当時の女性の徳の一方の極端と、他方の極端を同時に合わせ持っている。そして一方の極端から他方の極端へと頻繁に変貌する。
去年読んで感心した今日出海の「山中放浪」もメビウスの帯型の構造を持っていると思う。
じつのところクロスキャップ型とメビウスの帯型は判別が難しい。クロスキャップには Cut、つまり自己交差の交線が存在するが、メビウスの帯もその交線を含意しているからである。だからこれらの区別は「一応」の区別というべきだろう。
「ジキルとハイド」、「ドリアン・グレイの肖像」、ウォルポールが書いた「殺す者と殺される者」、ドッペルゲンガーを扱った作品群はメビウスの帯型かクロスキャップ型に属するものが多いのではないか。ディズレイリの「シビル」における「二つの国家」もメビウスの帯を構成していると思う。連続性と断続性がパラドキシカルに絡み合っているから。またミステリに於いては犯人と間違われる者がいるが、ああいう存在と犯人との関係は推理小説がパラドクスに接近していることを示すものではないか。
クロスキャップ型の例としてシェイクスピアの「冬物語」をあげることができる。細かい説明は省くが、二人の王リオンディーズとポリクシニーズは同一にして、同時に完全に他なる存在だ。彼らのパラドキシカルな関係性は劇の冒頭から強調されている。さらにリオンティーズの妻ハーマイオニーは両者を一つにつなぎつつ、かつ分断する作用をあらわしている。彼女は連続点にして切断点、両者をもっとも強力に繋ぐ瞬間に、両者を切り離す力を最大限に発揮する逆説的な力である。ハーマイオニーはクロスキャップの自己交差の交線を示している。
さらにAからBへの反転が一人の人間によって表現される場合がある。これはメビウスの帯型という構造になる。
たとえばわたしの翻訳した作品の中では「オードリー夫人の秘密」がそうだ。オードリー夫人はヴィクトリア朝の賢妻良母「家庭の天使」であり、同時に当時のジャーナリズムでおどろおどろしく報道された女殺人鬼でもある。彼女は当時の女性の徳の一方の極端と、他方の極端を同時に合わせ持っている。そして一方の極端から他方の極端へと頻繁に変貌する。
去年読んで感心した今日出海の「山中放浪」もメビウスの帯型の構造を持っていると思う。
じつのところクロスキャップ型とメビウスの帯型は判別が難しい。クロスキャップには Cut、つまり自己交差の交線が存在するが、メビウスの帯もその交線を含意しているからである。だからこれらの区別は「一応」の区別というべきだろう。
「ジキルとハイド」、「ドリアン・グレイの肖像」、ウォルポールが書いた「殺す者と殺される者」、ドッペルゲンガーを扱った作品群はメビウスの帯型かクロスキャップ型に属するものが多いのではないか。ディズレイリの「シビル」における「二つの国家」もメビウスの帯を構成していると思う。連続性と断続性がパラドキシカルに絡み合っているから。またミステリに於いては犯人と間違われる者がいるが、ああいう存在と犯人との関係は推理小説がパラドクスに接近していることを示すものではないか。
Friday, April 3, 2020
トポロジカル・リーディング
トポロジカル・リーディングとは、今わたしが考えている読解の方法である。ホラー映画「ドールズ」と「わが名はジョナサン・スクリブナー」という小説を解釈したとき、物語構造の類似に気づいて考え始めた。これを用いると物語の様相が見事に反転する。「ドールズ」は、一見すると、父と継母の暴力に対する、幼い女の子の復讐の物語のように見えるが、それがわたしの読解では、自分を裏切った夫や、夫を自分から奪っていった女への恨みをはらす、最初の母親のサディスティックな願望の物語となる。「わが名はジョナサン・スクリブナー」は、語り手のレクサムが自分の雇い主である不思議な男スクリブナーについて語った物語のように見えるが、わたしの読解ではスクリブナーこそがレクサムについて書いていることになる。
わたしはこの読解は重要な意味を持つと思う。映画批評ではよく精神分析学が応用されるのだが、それらはわたしの見る限り、物語の表層にフロイトやラカンの理論を当てはめているだけのものだ。彼らは読解をしていない。読解のしかたを知らない。読解に成功すれば、その読解がすでに精神分析学的なものであると理解されるだろう。
わたしは自分の読解を(たった二つだけなのだが)形式化してみようと思った。そして多少なりとも文学や哲学や理論的なものに親しんでいる人なら、この読解が用いられるようにしたいと思っている。そこで次のように特徴をまとめてみた。
1 作中の主要人物を見定める。
これはわかりやすい。主人公、語り手にまず注目すればいい。「ドールズ」では女の子のジュディ、「ジョナサン・スクリブナー」では語り手のレクサムが主要人物だ。
2 「見えない登場人物」に着目する。
「見えない人物」とは、英語では unseen character とか invisible character とか云われる。物語の舞台にはあらわれないが、その存在が読者に感得されうる人物、あるいは舞台にあらわれる人々によって言及される人物である。わたしは marginal character とか supplementary character と呼んでもいいだろうと思っている。
このような人物は特定するのが難しいようだが、次の点に「一応」注意して欲しい。
2.1 この読解が可能な作品は「主要人物」(A)から「見えない人物」(B)へと向かう、(A→B)の方向性を持っている。
これは二作だけしか例を見つけていないので間違っているかもしれない。しかし見つかった二例の作品はいずれも最後において「見えない人物」が登場し、あるいは「見えない人物」のいるところへと向かう。これは偶然かも知れないが、わたしには意味のあることのように思える。
3 「見えない人物」(B)が「主要人物」(A)を通して語っている構造を見抜く。
「ドールズ」においては、Aの欲望がBの欲望であることに気づけば、BがAを通して語っていることが判明する。「ジョナサン・スクリブナー」においては、Bの正体が作者であることを見抜けば、この構造がわかる。物語が持つ錯視性(アナモーフォシス)に気づくにはある種の慣れが必要だが、数をこなせばそう難しくはない。ここがわかれば、われわれは物語を裏返し、もうひとつの物語(光景)へとたどり着くことが出来る。
4 Bが物語の一要素、しかも marginal で supplementary な要素であるにもかかわらず、物語そのものの枠組みを構成していることを見抜く。
これは3によって物語の裏面を構成することができれば、必然的にわかることである。物語内部の一要素が、じつは物語を成立させているフレームワークそのものであることが判明するはずだ。supplementary な要素が枠組みに反転するこの読み方はデリダが示した読解とまったく同じである。3と4がトポロジカル・リーディングの要になるが、この部分をまとめるとこうなる。「わたしが語るとき、問うべき問題は、誰が語っているのか、そしてどこから」
以下、この読解の特徴について気づいた点をあげておく。
5 トポロジカル・リーディングは同一律の成立しない領域を扱う。
AとBは異なるにもかかわらず、重なり合う。「AはBである」と「AはBでない」という両方の命題が同時に成立する。
6 トポロジカル・リーディングはメビウスの帯やクライン管の構造と類似性を持っている。
裏と表が区別できないメビウスの帯、内部がそのまま連続的に外部となるクライン管。これらとわたしの読解の類似は言うまでもないだろう。映画であれ文学であれ、テキストの内部では奇怪な現象が起きている。それを思考するにはユークリッド幾何学によって規定されるような空間を考えていてはだめだ。
7 トポロジカル・リーディングは古典的な推理小説の構造と類似性を持つ。
古典的なミステリにおいては、もっとも犯人とは思えない人物が、犯罪を構成していたことを解き明かされる。トポロジカル・リーディングは、不在の存在、マージナルな存在が、物語を構成していたことを解き明かす。ちょっと裏話をすると、わたしに3の考え方を教えてくれたのはシリル・ヘアの「英国的殺人」である。
8 Bは充たされない欲望をかかえている。
「ドールズ」を例に取ると、離婚された母親、すなわちBは自分の現状に不満を抱えている。その不満を穴埋めするものとして夢、つまり「ドールズ」という物語を生み出すのである。「ジョナサン・スクリブナー」の場合は自己実現の手段として「作者」は自分が考えるどのようなキャリアにも満足できない。おそらくメタレベルにある種の亀裂が生じているという事態も、単なる偶然ではない。このタイプの解釈が可能な物語に必然的につきまとう現象だと思う。
9 Bが人間ではなく、物であったり、動物であったり、観念であったり、さらには signifier である場合もあるかもしれない。
これはわたしのこれから先の研究課題だ。signifier が人間を通して語る? そう、わたしはこういう例を見つけられるとかなり確信している。フロイトの症例を読むとそうとしか思えない。
10 「ドールズ」や「ジョナサン・スクリブナー」はクライン管型といっていい構造を持っている。他にもメビウスの帯型やクロスキャップ型など、さまざまな奇妙な構造があるはずである。一つの作品の中に二つのクライン管があることだって考えられる。
たとえば「オードリー夫人の秘密」で解説に附けた解釈などはメビウスの帯型ではないかと思う。あるいはこのブログで紹介した今日出海の「山中放浪」もこのメビウスの帯タイプの構造を持っているはずだ。しかもこのメビウスの帯にはあちらこちら穴があいているらしい。非常に面白い。
わたしはこの読解は重要な意味を持つと思う。映画批評ではよく精神分析学が応用されるのだが、それらはわたしの見る限り、物語の表層にフロイトやラカンの理論を当てはめているだけのものだ。彼らは読解をしていない。読解のしかたを知らない。読解に成功すれば、その読解がすでに精神分析学的なものであると理解されるだろう。
わたしは自分の読解を(たった二つだけなのだが)形式化してみようと思った。そして多少なりとも文学や哲学や理論的なものに親しんでいる人なら、この読解が用いられるようにしたいと思っている。そこで次のように特徴をまとめてみた。
1 作中の主要人物を見定める。
これはわかりやすい。主人公、語り手にまず注目すればいい。「ドールズ」では女の子のジュディ、「ジョナサン・スクリブナー」では語り手のレクサムが主要人物だ。
2 「見えない登場人物」に着目する。
「見えない人物」とは、英語では unseen character とか invisible character とか云われる。物語の舞台にはあらわれないが、その存在が読者に感得されうる人物、あるいは舞台にあらわれる人々によって言及される人物である。わたしは marginal character とか supplementary character と呼んでもいいだろうと思っている。
このような人物は特定するのが難しいようだが、次の点に「一応」注意して欲しい。
2.1 この読解が可能な作品は「主要人物」(A)から「見えない人物」(B)へと向かう、(A→B)の方向性を持っている。
これは二作だけしか例を見つけていないので間違っているかもしれない。しかし見つかった二例の作品はいずれも最後において「見えない人物」が登場し、あるいは「見えない人物」のいるところへと向かう。これは偶然かも知れないが、わたしには意味のあることのように思える。
3 「見えない人物」(B)が「主要人物」(A)を通して語っている構造を見抜く。
「ドールズ」においては、Aの欲望がBの欲望であることに気づけば、BがAを通して語っていることが判明する。「ジョナサン・スクリブナー」においては、Bの正体が作者であることを見抜けば、この構造がわかる。物語が持つ錯視性(アナモーフォシス)に気づくにはある種の慣れが必要だが、数をこなせばそう難しくはない。ここがわかれば、われわれは物語を裏返し、もうひとつの物語(光景)へとたどり着くことが出来る。
4 Bが物語の一要素、しかも marginal で supplementary な要素であるにもかかわらず、物語そのものの枠組みを構成していることを見抜く。
これは3によって物語の裏面を構成することができれば、必然的にわかることである。物語内部の一要素が、じつは物語を成立させているフレームワークそのものであることが判明するはずだ。supplementary な要素が枠組みに反転するこの読み方はデリダが示した読解とまったく同じである。3と4がトポロジカル・リーディングの要になるが、この部分をまとめるとこうなる。「わたしが語るとき、問うべき問題は、誰が語っているのか、そしてどこから」
以下、この読解の特徴について気づいた点をあげておく。
5 トポロジカル・リーディングは同一律の成立しない領域を扱う。
AとBは異なるにもかかわらず、重なり合う。「AはBである」と「AはBでない」という両方の命題が同時に成立する。
6 トポロジカル・リーディングはメビウスの帯やクライン管の構造と類似性を持っている。

7 トポロジカル・リーディングは古典的な推理小説の構造と類似性を持つ。
古典的なミステリにおいては、もっとも犯人とは思えない人物が、犯罪を構成していたことを解き明かされる。トポロジカル・リーディングは、不在の存在、マージナルな存在が、物語を構成していたことを解き明かす。ちょっと裏話をすると、わたしに3の考え方を教えてくれたのはシリル・ヘアの「英国的殺人」である。
8 Bは充たされない欲望をかかえている。
「ドールズ」を例に取ると、離婚された母親、すなわちBは自分の現状に不満を抱えている。その不満を穴埋めするものとして夢、つまり「ドールズ」という物語を生み出すのである。「ジョナサン・スクリブナー」の場合は自己実現の手段として「作者」は自分が考えるどのようなキャリアにも満足できない。おそらくメタレベルにある種の亀裂が生じているという事態も、単なる偶然ではない。このタイプの解釈が可能な物語に必然的につきまとう現象だと思う。
9 Bが人間ではなく、物であったり、動物であったり、観念であったり、さらには signifier である場合もあるかもしれない。
これはわたしのこれから先の研究課題だ。signifier が人間を通して語る? そう、わたしはこういう例を見つけられるとかなり確信している。フロイトの症例を読むとそうとしか思えない。
10 「ドールズ」や「ジョナサン・スクリブナー」はクライン管型といっていい構造を持っている。他にもメビウスの帯型やクロスキャップ型など、さまざまな奇妙な構造があるはずである。一つの作品の中に二つのクライン管があることだって考えられる。
たとえば「オードリー夫人の秘密」で解説に附けた解釈などはメビウスの帯型ではないかと思う。あるいはこのブログで紹介した今日出海の「山中放浪」もこのメビウスの帯タイプの構造を持っているはずだ。しかもこのメビウスの帯にはあちらこちら穴があいているらしい。非常に面白い。
Thursday, April 2, 2020
Wednesday, April 1, 2020
基準独文和訳法
権田保之助著
有朋堂発行
「基準独文和訳法」より
問題5(p. 45)
Die moderne Zeitung ist eine typische Erscheinung des kapitalistischen Zeitalters. Alle mit ihr verknüpften Erscheinungen haben im Interesse des Unternehmers (Verlegers) den Daseinsgrund, an dem sie haften, mag sich auch noch so viel dagegen sagen lassen.
研究事項
1)die moderne Zeitung の訳は?
2)Erscheinung には「現象」といふ訳の外に、「出版」の訳もある。此処では何れが正しいか?
3)im Interesse einer Person (einer Sache)には、「或人(或事)の為めに」「或人(或事)の利益の為めに」といふ意味があるが、此処の im Interesse はさういふ意味か?
4)an dem sie haften の中にある代名詞はどの名詞を代理してゐて、且つこの副文章は何か?
5)mag sie auch...sagen lassen といふ副文章の説明をせよ。
解釈要項
1)modern といふ語は「近代の」「近世の」の義を表はすので、die moderne Zeitung は「近世新聞紙」が適訳。之を「今日の新聞紙」とか、「現今の新聞紙」とかと訳しても間違ではないにしても、術語的表現としては不十分である。
2)Erscheinung は此所では「現象」の義である。事が新聞紙に関するので、これを「出版」と訳しなどしては誤である。
3)此の im Interesse は „im Interesse einer Person den Daseinsgrund haben“「或人の利害関係の中に存在理由を有する」といふ熟語の中の im Interesse であるから「或人の為めに」の im Interesse ではない。
4)an dem sie haften の dem は Daseinsgrund を指し、sie は alle mit ihr verknüpften Erscheinungen を受けてゐる。然るに dem を Unternehmer にかけたり、sie を Zeitung に取つたりしては誤である。
5)mag sich auch noch so viel dagegen sagen lassen は認容文章で、「尚ほ非常に多くのことが、仮令それに反対して言はれ得るにしても」の意味である。
訳文
近世新聞紙は資本主義時代の一典型的現象である。それと結合せる一切の現象は、仮令尚ほ多くの異論はあり得るにしても、起業家(発行者)の利害関係に、それ等の依つて立つ存在理由が存するのである。
有朋堂発行
「基準独文和訳法」より
問題5(p. 45)
Die moderne Zeitung ist eine typische Erscheinung des kapitalistischen Zeitalters. Alle mit ihr verknüpften Erscheinungen haben im Interesse des Unternehmers (Verlegers) den Daseinsgrund, an dem sie haften, mag sich auch noch so viel dagegen sagen lassen.
研究事項
1)die moderne Zeitung の訳は?
2)Erscheinung には「現象」といふ訳の外に、「出版」の訳もある。此処では何れが正しいか?
3)im Interesse einer Person (einer Sache)には、「或人(或事)の為めに」「或人(或事)の利益の為めに」といふ意味があるが、此処の im Interesse はさういふ意味か?
4)an dem sie haften の中にある代名詞はどの名詞を代理してゐて、且つこの副文章は何か?
5)mag sie auch...sagen lassen といふ副文章の説明をせよ。
解釈要項
1)modern といふ語は「近代の」「近世の」の義を表はすので、die moderne Zeitung は「近世新聞紙」が適訳。之を「今日の新聞紙」とか、「現今の新聞紙」とかと訳しても間違ではないにしても、術語的表現としては不十分である。
2)Erscheinung は此所では「現象」の義である。事が新聞紙に関するので、これを「出版」と訳しなどしては誤である。
3)此の im Interesse は „im Interesse einer Person den Daseinsgrund haben“「或人の利害関係の中に存在理由を有する」といふ熟語の中の im Interesse であるから「或人の為めに」の im Interesse ではない。
4)an dem sie haften の dem は Daseinsgrund を指し、sie は alle mit ihr verknüpften Erscheinungen を受けてゐる。然るに dem を Unternehmer にかけたり、sie を Zeitung に取つたりしては誤である。
5)mag sich auch noch so viel dagegen sagen lassen は認容文章で、「尚ほ非常に多くのことが、仮令それに反対して言はれ得るにしても」の意味である。
訳文
近世新聞紙は資本主義時代の一典型的現象である。それと結合せる一切の現象は、仮令尚ほ多くの異論はあり得るにしても、起業家(発行者)の利害関係に、それ等の依つて立つ存在理由が存するのである。
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