アイデンティティ・ポリティックスの問題点を明確に指摘してくれたのは哲学者のスラヴォイ・ジジェクだった。わたしはそのとき以来、ジジェクの大ファンになった。
彼はアイデンティティ・ポリティックスのカテゴリー化を、社会を細かく裁断することだと考える。日系アメリカ人で、シングル・マザーで、レズビアンである人が問題を抱えていたなら、その問題は人種や性的傾向などによって限定されたある特殊なカテゴリー内での問題と見なされる。
しかし昔はどうだっただろう。たとえば黒人の差別は、黒人というカテゴリー内の問題ではなく、社会全体の問題となった。特殊な範疇の人間の問題が社会全体にひびを生じさせたのである。そこにこそ民主主義があった。それが今では、特殊な範疇の問題に矮小化されてしまう。
これは今ある社会を保全するための政策だ、とジジェクは言う。たしかにその通りだ。社会全体を脅かしかねない問題を、極小の被害で食い止めようとするシステムなのだから。
わたしはジジェクの議論を読んではじめて腹の底から納得がいった。わたしの中でもやもやしていたものが明瞭な形を取ることができた。
アメリカでは授業の準備が忙しすぎてあまり読書の時間が取れなかったが、ジジェクだけは真剣に目を通すようにした。
Thursday, November 29, 2018
Tuesday, November 27, 2018
アイデンティティ・ポリティックスの問題(1)
1990年代にアメリカの大学の講師になったとき、その年度新規採用になった教師向けにオリエンテーションがあった。われわれは司会に「みずからをアイデンティファイせよ。そこが出発点だ」と言われて、ひとりひとり自己紹介することになったのだが、わたしは司会の言葉にひどくひっかかるものを感じた。
「アイデンティファイせよ。そこが出発点だ」アイデンティファイというのは、自分がどのような民族的・人種的・性的グループに属するか、それを示せということである。なるほど、これがアメリカのアイデンティティ・ポリティックスか、とわたしは思った。同時に司会がこの政策を疑いもなく受け入れ、それを他人にも押しつける姿に、強い反感を感じた。さらにアメリカのこの政策には根本的な間違いがあるのじゃないかと思った。
アイデンティティ・ポリティックスは一種の問題解決法である。市民の誰かが困難に逢着するとする。その場合、地域の官僚組織は、その市民が日系アメリカ人であり、シングルマザーであり、レズビアンであるといったカテゴリーによって分類し、その細かな分類ごとに対処法を考える。
これは一見有効そうに見える。非常に特殊な複合カテゴリーにも一通りの対応が用意されているからだ。しかし有効ではあってもなにか基本的な見落としがあるのではないか。わたしは「アイデンティファイせよ」と無理矢理背丈をアメリカの基準に合わせることを求められ、本能的に反発を感じた。
新規採用になった教師の一人は、自分はスエーデンの国籍を持っているが、父親はロシア人で母親はスエーデン人とフランス人のハーフであり、父方のお祖父さんは……といったように、非常に複雑なみずからの出自を語った。きっと彼もアメリカ流のカテゴリー分けに反発したのだろう。そして、はたしてわたしのようなカテゴリーをアメリカは想定しているのかな、と皮肉めいた疑問を投げかけようとしたのではないか。しかしわたしは直感的にそのような批判はうまくいかないと思った。なるほどその教師がいうようなカテゴリーをアメリカは想定していなかったかもしれない。しかし指摘されればすぐ彼らはそれを用意するだろう。敵の土俵で戦う限り、敵はすぐに対応策を見つけ出す。敵の土俵を形づくっている土台に対して有効な批判を見出さなければならない。わたしはそれがあると感じた。しかしなかなかそれが見えてこなかった。
(つづく)
「アイデンティファイせよ。そこが出発点だ」アイデンティファイというのは、自分がどのような民族的・人種的・性的グループに属するか、それを示せということである。なるほど、これがアメリカのアイデンティティ・ポリティックスか、とわたしは思った。同時に司会がこの政策を疑いもなく受け入れ、それを他人にも押しつける姿に、強い反感を感じた。さらにアメリカのこの政策には根本的な間違いがあるのじゃないかと思った。
アイデンティティ・ポリティックスは一種の問題解決法である。市民の誰かが困難に逢着するとする。その場合、地域の官僚組織は、その市民が日系アメリカ人であり、シングルマザーであり、レズビアンであるといったカテゴリーによって分類し、その細かな分類ごとに対処法を考える。
これは一見有効そうに見える。非常に特殊な複合カテゴリーにも一通りの対応が用意されているからだ。しかし有効ではあってもなにか基本的な見落としがあるのではないか。わたしは「アイデンティファイせよ」と無理矢理背丈をアメリカの基準に合わせることを求められ、本能的に反発を感じた。
新規採用になった教師の一人は、自分はスエーデンの国籍を持っているが、父親はロシア人で母親はスエーデン人とフランス人のハーフであり、父方のお祖父さんは……といったように、非常に複雑なみずからの出自を語った。きっと彼もアメリカ流のカテゴリー分けに反発したのだろう。そして、はたしてわたしのようなカテゴリーをアメリカは想定しているのかな、と皮肉めいた疑問を投げかけようとしたのではないか。しかしわたしは直感的にそのような批判はうまくいかないと思った。なるほどその教師がいうようなカテゴリーをアメリカは想定していなかったかもしれない。しかし指摘されればすぐ彼らはそれを用意するだろう。敵の土俵で戦う限り、敵はすぐに対応策を見つけ出す。敵の土俵を形づくっている土台に対して有効な批判を見出さなければならない。わたしはそれがあると感じた。しかしなかなかそれが見えてこなかった。
(つづく)
Sunday, November 25, 2018
「わが骨、わがフルート」発売のお知らせ
エドガー・ミッテルホルツァーのゴースト・ストーリー「わが骨、わがフルート」をアマゾンから出すことになった。
ミッテルホルツァーは英語でカリブ海文学を書き始めた最初のひとりである。死後、ずいぶん長いこと忘れられた存在だったが、ここ十年ほどのあいだにいくつかの作品が復刊され、そのなかでも「わが骨、わがフルート」は特に人気が高い。
呪いのかかった古文書の謎を解くためネヴィンソン一家とミルトンという若者がジャングルの奥地へ行き、そこで不思議な現象に遭遇する話である。ホラーではないから、そんなに怖いことはないのだが、ジャングルの溢れんばかりの色彩と匂い、そしてその奥に秘められた謎めいた闇が魅力的に描写されている。
欧米ではなぜかクリスマスのシーズンに幽霊譚を読む風習があるので、静まりかえった夜中にちょっとだけ怖い物語を読むのもいいのではないだろうか。ジャングルのなかで展開する物語なので、ほんのり身体が温まるかもしれない。
文学的なホラーが読みたいというのであれば、おなじくミッテルホルツァーの「エルトンズブロディ」を手にとって欲しい。これもアマゾンから拙訳が出ている。
ミッテルホルツァーは英語でカリブ海文学を書き始めた最初のひとりである。死後、ずいぶん長いこと忘れられた存在だったが、ここ十年ほどのあいだにいくつかの作品が復刊され、そのなかでも「わが骨、わがフルート」は特に人気が高い。
呪いのかかった古文書の謎を解くためネヴィンソン一家とミルトンという若者がジャングルの奥地へ行き、そこで不思議な現象に遭遇する話である。ホラーではないから、そんなに怖いことはないのだが、ジャングルの溢れんばかりの色彩と匂い、そしてその奥に秘められた謎めいた闇が魅力的に描写されている。
欧米ではなぜかクリスマスのシーズンに幽霊譚を読む風習があるので、静まりかえった夜中にちょっとだけ怖い物語を読むのもいいのではないだろうか。ジャングルのなかで展開する物語なので、ほんのり身体が温まるかもしれない。
文学的なホラーが読みたいというのであれば、おなじくミッテルホルツァーの「エルトンズブロディ」を手にとって欲しい。これもアマゾンから拙訳が出ている。
Friday, November 23, 2018
プロレスを「読む」
プロレスの試合を見るときは音を消してしまう。その理由はアナウンサーがうるさいから。
選手がぶつかり合ったり、倒れたりするときの音が聞こえないので、いまひとつ迫力に欠けるのだが、アナウンサーの余計な声がない分、集中して観戦することができる。
わたしは選手の動きを見てあれこれ考えるのが好きなのだが、アナウンサーの声が聞こえていると、そっちに気を取られ、考えることができないのである。
プロレスの試合にはいろいろな駈け引きがある。レスラーは無闇矢鱈と戦っているのではないのだ。相手より自分を強く見せたり、相手をいらだたせたりする、いろいろなテクニックを駆使して試合を進めて行くのだ。わたしはそういう動きを一つ一つ確認していくのが好きなのである。なぜこの選手はリング外に出たのだろう、とか、なぜ彼は相手と組み合うのを拒否したのだろう、とか、いつもより攻めのテンポがゆっくりしているが、どういう作戦を立てているのだろう、とか、わたしはいつも考えている。
これはプロレスに限った話ではない。文学や映画や将棋に対してもおなじような態度を取っている。文学作品を読むときは、とにかくその作品を何度も読み、何度も考え直し、自分の意見を確立しようとする。その後、他の有力な批評家の意見を聞いたりすることもあるけれど、まずは無心になって作品と徹底的に向き合う。
映画を見るときは、画面から与えられる情報を整理しながら、この作品の問題点はどこにあるのだろうと、ずっと考えつづけている。だから映画を見終わって爽快な気分になることはない。いつもくたくたになって映画館を出る。だからだろう、映画は滅多に見ない。
将棋の実況中継を見るときは、棋譜のみを見る。プロが解説していることもあるが、そういう番組は見ない。棋譜のみを見て、自分で手の意味や、次の一手を考える。プロの解説は、自分なりの見解を出した後に聞くと、参考になる。
要するにわたしは「読み解く」という作業が好きなのだ。その作業を邪魔されるのがいやなのだ。だから無音でプロレスを見るのである。
選手がぶつかり合ったり、倒れたりするときの音が聞こえないので、いまひとつ迫力に欠けるのだが、アナウンサーの余計な声がない分、集中して観戦することができる。
わたしは選手の動きを見てあれこれ考えるのが好きなのだが、アナウンサーの声が聞こえていると、そっちに気を取られ、考えることができないのである。
プロレスの試合にはいろいろな駈け引きがある。レスラーは無闇矢鱈と戦っているのではないのだ。相手より自分を強く見せたり、相手をいらだたせたりする、いろいろなテクニックを駆使して試合を進めて行くのだ。わたしはそういう動きを一つ一つ確認していくのが好きなのである。なぜこの選手はリング外に出たのだろう、とか、なぜ彼は相手と組み合うのを拒否したのだろう、とか、いつもより攻めのテンポがゆっくりしているが、どういう作戦を立てているのだろう、とか、わたしはいつも考えている。
これはプロレスに限った話ではない。文学や映画や将棋に対してもおなじような態度を取っている。文学作品を読むときは、とにかくその作品を何度も読み、何度も考え直し、自分の意見を確立しようとする。その後、他の有力な批評家の意見を聞いたりすることもあるけれど、まずは無心になって作品と徹底的に向き合う。
映画を見るときは、画面から与えられる情報を整理しながら、この作品の問題点はどこにあるのだろうと、ずっと考えつづけている。だから映画を見終わって爽快な気分になることはない。いつもくたくたになって映画館を出る。だからだろう、映画は滅多に見ない。
将棋の実況中継を見るときは、棋譜のみを見る。プロが解説していることもあるが、そういう番組は見ない。棋譜のみを見て、自分で手の意味や、次の一手を考える。プロの解説は、自分なりの見解を出した後に聞くと、参考になる。
要するにわたしは「読み解く」という作業が好きなのだ。その作業を邪魔されるのがいやなのだ。だから無音でプロレスを見るのである。
Wednesday, November 21, 2018
「黒髭の男」 The Man with the Dark Beard
アニー・ヘインズは1865年に生まれ、十冊ほどミステリを書き残して1929年に亡くなった。本作は1928年に発表されたもの。彼女はファーニヴァル警部のシリーズとストッダード警部のシリーズを書いているが、本作は後者の第一作にあたる。
筋は非常に単純だ。バスティドという医者が書斎で銃殺される。ストッダード警部が調査を始めると、怪しげな状況が次々と明らかになる。まず医者の助手であるウィルトンという男。彼は医者の娘と恋仲にあり、殺人が起きた日にバスティドに結婚したい旨を告げていた。しかし医者はそれに猛反対したのだった。
次にバスティドの机の上に置いてあった奇妙なメモ。それには「黒髭の男」と書いてある。バスティドは犯人を指摘するためにそんなメモを残したのだろうか。
さらに女中のメアリ。彼女は事件後、見張りに就いていた警官をだまして家を出、行方をくらましてしまった。
またバスティドの親友であるモリス医師。彼は髭を生やしていたのだが、事件後なぜかきれいにそれを剃ってしまう。
そしてバスティドが殺された書斎の状況。窓にはカーテンがかかっていて、外からのぞき見のできないようになっていたのに、なぜか事件後、カーテンが一部開いていたことが判明する。
ストッダード警部の懸命な捜査にもかかわらず、事件はなかなか解決されない。そんな中、バスティドの秘書をしていた若い女性が、事件後結婚したウィルトンに殺されるという事件が起きる。新聞はウィルトンが恨みからバスティドを殺害し、遺産目当てに元秘書を殺したのではないかと書き立てた。
しかしストッダード警部はウィルトンの無罪を信じ、捜査を続ける。
正直に言って、ミステリとしてそれほど面白い作品ではない。ストッダード警部が手がかりを追って捜査すると、自然に事件の真相が見えてくるという物語である。べつに彼が見事な推理を展開し、読者をうならせるというお話ではない。ただし当時の風俗を知る上では興味深いと言えるだろう。たとえば「髭」だ。昔は日本でもそうだが、立派な紳士はみな堂々たる髭を生やしていたものだ。(三島由紀夫の「偉大な姉妹」という短編にもそのことは書かれている)しかし欧米ではおそらく二十年代、三十年代のころから、その考えに変化があらわれたのだろう。歯に衣着せずものを言う、ラヴィニアというオールド・ミスは髭を、それこそ毛嫌いしている。二十年代といえばアメリカではフラッパーが登場し、ヴィクトリア朝の堅苦しい道徳観念から人々が解放されつつあった時代だが、髭に対する美的感覚も変化していたわけである。
筋は非常に単純だ。バスティドという医者が書斎で銃殺される。ストッダード警部が調査を始めると、怪しげな状況が次々と明らかになる。まず医者の助手であるウィルトンという男。彼は医者の娘と恋仲にあり、殺人が起きた日にバスティドに結婚したい旨を告げていた。しかし医者はそれに猛反対したのだった。
次にバスティドの机の上に置いてあった奇妙なメモ。それには「黒髭の男」と書いてある。バスティドは犯人を指摘するためにそんなメモを残したのだろうか。
さらに女中のメアリ。彼女は事件後、見張りに就いていた警官をだまして家を出、行方をくらましてしまった。
またバスティドの親友であるモリス医師。彼は髭を生やしていたのだが、事件後なぜかきれいにそれを剃ってしまう。
そしてバスティドが殺された書斎の状況。窓にはカーテンがかかっていて、外からのぞき見のできないようになっていたのに、なぜか事件後、カーテンが一部開いていたことが判明する。
ストッダード警部の懸命な捜査にもかかわらず、事件はなかなか解決されない。そんな中、バスティドの秘書をしていた若い女性が、事件後結婚したウィルトンに殺されるという事件が起きる。新聞はウィルトンが恨みからバスティドを殺害し、遺産目当てに元秘書を殺したのではないかと書き立てた。
しかしストッダード警部はウィルトンの無罪を信じ、捜査を続ける。
正直に言って、ミステリとしてそれほど面白い作品ではない。ストッダード警部が手がかりを追って捜査すると、自然に事件の真相が見えてくるという物語である。べつに彼が見事な推理を展開し、読者をうならせるというお話ではない。ただし当時の風俗を知る上では興味深いと言えるだろう。たとえば「髭」だ。昔は日本でもそうだが、立派な紳士はみな堂々たる髭を生やしていたものだ。(三島由紀夫の「偉大な姉妹」という短編にもそのことは書かれている)しかし欧米ではおそらく二十年代、三十年代のころから、その考えに変化があらわれたのだろう。歯に衣着せずものを言う、ラヴィニアというオールド・ミスは髭を、それこそ毛嫌いしている。二十年代といえばアメリカではフラッパーが登場し、ヴィクトリア朝の堅苦しい道徳観念から人々が解放されつつあった時代だが、髭に対する美的感覚も変化していたわけである。
Monday, November 19, 2018
文学という慰め
大学時代、わたしはある種の知的・精神的混乱に陥り、欝になったことがある。すべてが灰色に染まり、なぜ生きているのかわからないような状態、ゾンビが心を持っているとしたら、あのようなものだろうという感じの状態になってしまった。病院の精神科というところにもいったが、役には立たなかった。
そこでわたしを救ってくれたのは、なんと丸谷才一のエッセイ集だった。彼はそれを雑文と称していたと思う。しかし雑な書き方どころか、出だしから終わりまで考え抜かれた見事な構成で、しかもエスプリもきいている。知的でいて、しかも遊び心があふれているのだ。わたしはその本を本屋で手に取り、一ページを読んだだけで、これこそ自分が必要としているものだと思った。実際、丸谷を読むことで精神的混乱は収まり、さらにそこからわたしの知的な活動が本格的にはじまったのである。丸谷の文章の書き方を徹底的に研究し、自分の文章の模範とした。
高校時代にも気持ちが落ち込んだことがあった。なにに悩んでいたのかは、もう覚えていないが、そのときわたしを奮い立たせてくれたのは中野好夫が訳した「デイヴィッド・コパフィールド」だった。あれを読んでわたしは一気に気分が高揚し、将来、自分もこんな本が訳せる翻訳家になろうと思った。
ガーディアン紙に Just how helpful is reading for depression という記事を見つけて読んだが、読みながら上に書いたようなことを思いだした。本を抗鬱剤のように使うというわけではないが、しかしまったくの偶然から本が人に希望を与えることはあるだろう。わたしはそれで二回助けられたし、その他にも数え切れないほど本からいろいろな刺激を受けてきた。もしも悩みごとを抱えているなら、一度大きな本屋に行っていろいろな小説をちらちらと眺めてみてはどうだろう。悩みごとを解決してはくれないまでも、それに立ち向かう勇気を与える本に出会うかもしれない。文学というのはたいてい悩んでいる人間について書かれたものなのだから。
そこでわたしを救ってくれたのは、なんと丸谷才一のエッセイ集だった。彼はそれを雑文と称していたと思う。しかし雑な書き方どころか、出だしから終わりまで考え抜かれた見事な構成で、しかもエスプリもきいている。知的でいて、しかも遊び心があふれているのだ。わたしはその本を本屋で手に取り、一ページを読んだだけで、これこそ自分が必要としているものだと思った。実際、丸谷を読むことで精神的混乱は収まり、さらにそこからわたしの知的な活動が本格的にはじまったのである。丸谷の文章の書き方を徹底的に研究し、自分の文章の模範とした。
高校時代にも気持ちが落ち込んだことがあった。なにに悩んでいたのかは、もう覚えていないが、そのときわたしを奮い立たせてくれたのは中野好夫が訳した「デイヴィッド・コパフィールド」だった。あれを読んでわたしは一気に気分が高揚し、将来、自分もこんな本が訳せる翻訳家になろうと思った。
ガーディアン紙に Just how helpful is reading for depression という記事を見つけて読んだが、読みながら上に書いたようなことを思いだした。本を抗鬱剤のように使うというわけではないが、しかしまったくの偶然から本が人に希望を与えることはあるだろう。わたしはそれで二回助けられたし、その他にも数え切れないほど本からいろいろな刺激を受けてきた。もしも悩みごとを抱えているなら、一度大きな本屋に行っていろいろな小説をちらちらと眺めてみてはどうだろう。悩みごとを解決してはくれないまでも、それに立ち向かう勇気を与える本に出会うかもしれない。文学というのはたいてい悩んでいる人間について書かれたものなのだから。
Sunday, November 18, 2018
世界最強タッグ決定リーグ戦開始
ちょっと遅くなったが十一月十三日、後楽園で開かれた全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ四試合について書いておこう。
わたしは全日本プロレスのホームページに出ているわずかな情報を見て、いろいろと想像を膨らませているファンなので、実際の試合は見ていない。しかし試合結果を見るだけでも、この日の興業の楽しさが伝わってくる。
まずタッグ・リーグの始まる日ということで、参加全選手がリングにあがって観客に顔見せをしたようだが、その際、なにが原因なのかわからないけれども、乱闘が起きたようだ。わたしは選手が怪我をするような無用な暴力は嫌いだが、すぐに収束するような、こうした争いごとは悪くない。なぜかお祭りの雰囲気を高めるからである。お祭りの非日常性は、暴力や秩序の転覆と密接につながりを持っている。
さて、実際の試合、四試合について思ったことを書いていこう。
野村・青柳組はパロウ・オディンソン組に敗北。四分十秒で片づけられてしまった。恐るべき外国人チームである。野村・青柳組はこんなふうに外のチームとたくさん勝負すれば、次のステップに登ることができると思う。
ゼウス・ボディガー組は大森・征矢組に敗北。大森・征矢組が勝つか負けるかは征矢の活躍いかんにかかっていると思う。彼がどれだけ大森をアシストできるか、どれだけ試合のペースを自分たちに引き寄せるかが鍵になる。逆に言えば、征矢の動きが封じられたら勝ち目はなくなる。
秋山・関本組は真霜・KAI 組に勝った。秋山と関本はお互いに戦いのスタイルを知っているし、息を合わせてやっていくだけの器量も持っている。しかし真霜とKAI はどうなのだろう。ふたりのリズムが合っているかどうか、一度じっくり試合を見てみたいものだ。
諏訪魔・石川組は宮原・ヨシタツ組に勝った。宮原が出る試合はどれも長い。この試合も二十四分十三秒で決着がついた。しかし試合が長くても抜群のスタミナで宮原は戦えるが、ヨシタツはどうなのだろう。やや短めの試合時間で決着するよう、組み立てを工夫したほうが宮原・ヨシタツ組には勝機があるのではないか。
わたしは全日本プロレスのホームページに出ているわずかな情報を見て、いろいろと想像を膨らませているファンなので、実際の試合は見ていない。しかし試合結果を見るだけでも、この日の興業の楽しさが伝わってくる。
まずタッグ・リーグの始まる日ということで、参加全選手がリングにあがって観客に顔見せをしたようだが、その際、なにが原因なのかわからないけれども、乱闘が起きたようだ。わたしは選手が怪我をするような無用な暴力は嫌いだが、すぐに収束するような、こうした争いごとは悪くない。なぜかお祭りの雰囲気を高めるからである。お祭りの非日常性は、暴力や秩序の転覆と密接につながりを持っている。
さて、実際の試合、四試合について思ったことを書いていこう。
野村・青柳組はパロウ・オディンソン組に敗北。四分十秒で片づけられてしまった。恐るべき外国人チームである。野村・青柳組はこんなふうに外のチームとたくさん勝負すれば、次のステップに登ることができると思う。
ゼウス・ボディガー組は大森・征矢組に敗北。大森・征矢組が勝つか負けるかは征矢の活躍いかんにかかっていると思う。彼がどれだけ大森をアシストできるか、どれだけ試合のペースを自分たちに引き寄せるかが鍵になる。逆に言えば、征矢の動きが封じられたら勝ち目はなくなる。
秋山・関本組は真霜・KAI 組に勝った。秋山と関本はお互いに戦いのスタイルを知っているし、息を合わせてやっていくだけの器量も持っている。しかし真霜とKAI はどうなのだろう。ふたりのリズムが合っているかどうか、一度じっくり試合を見てみたいものだ。
諏訪魔・石川組は宮原・ヨシタツ組に勝った。宮原が出る試合はどれも長い。この試合も二十四分十三秒で決着がついた。しかし試合が長くても抜群のスタミナで宮原は戦えるが、ヨシタツはどうなのだろう。やや短めの試合時間で決着するよう、組み立てを工夫したほうが宮原・ヨシタツ組には勝機があるのではないか。
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英語読解のヒント(184)
184. no matter を使った譲歩 基本表現と解説 No matter how trifling the matter may be, don't leave it out. 「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how ...
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アリソン・フラッドがガーディアン紙に「古本 文学的剽窃という薄暗い世界」というタイトルで記事を出していた。 最近ガーディアン紙上で盗作問題が連続して取り上げられたので、それをまとめたような内容になっている。それを読んで思ったことを書きつけておく。 わたしは学術論文でもないかぎり、...
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ウィリアム・スローン(William Sloane)は1906年に生まれ、74年に亡くなるまで編集者として活躍したが、実は30年代に二冊だけ小説も書いている。これが非常に出来のよい作品で、なぜ日本語の訳が出ていないのか、不思議なくらいである。 一冊は37年に出た「夜を歩いて」...
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