Friday, August 29, 2025

ジョン・ラッセル・ファーン「栄光の輝きに照らされて」

 


原題は Reflected Glory。他人がつかんだ栄光だけれども、その人と関係のある人が、まるで自分の栄光であるかのように感じる、という意味だ。「親の七光り」という日本語が示す事態と、よく似ていると云っていい。

女流作家のエルザは、ふとしたきっかけから画家のクライブと知り合い、肖像画を描いてもらうことになる。彼はロイヤルアカデミーの会員で、その絵で成功すれば画壇における地位を固めることができるはずだった。そして彼が新進の大物画家と認められれば、モデルのエルザも大いにその名声の余沢(つまり reflected glory)にあずかるはずだった。それを夢見て彼女はクライブと婚約さえする。

ところが、好事魔多し。クライブは手に大けがをし、二度と絵が描けなくなる。とたんにエルザは彼に対して冷たくなって婚約を解消、あまつさえロンドンを出て、自分の家がある田舎に帰ってしまう。そしてなぜかクライブはそのときからふっつりと姿を消すのだ。

クライブはエルザに会いにでかけたらしいことを突き止めた警察が彼女を詰問すると、なんと彼女は「わたしが彼を殺した」と自白した。しかし警察に協力する心理学者のキャッスル博士は、彼女は犯人ではないと考える……。

この作品はエリザベス・ホールディングのように「異常心理」を扱っている。わたしはそういう作品が好きなので、期待をもって読んだのだが、残念ながらよくはなかった。フロイトは正常を解き明かす鍵は異常のなかにあると考えるから面白い。つまり正常/異常という区別をフロイトは突き崩すのである。ところがファーンは正常と異常を峻別し、二項対立の構図の中でものごとを考えている。そして本作を、異常から正常へと「治癒」する物語に仕立て上げてしまっている。これではダメなのだ。フロイトを継承したラカンは、正常と異常を峻別するアメリカ流の心理学を絶えず批判したが、小説読みからしてもこの二項対立の図式の中で書かれた作品はつまらない。もしもわたしがこのような作品を読解の対象にするとしたら、むしろ二項対立が崩れている瞬間をその作品の中に見出そうとするだろう。つまり脱構築的な読解を試みるだろう。

ただファーンの作品としてはめずらしく文章に緊張感がただよっている。彼としては力を込めて書いたのではないだろうか。

Tuesday, August 26, 2025

トッド・マガウアン「ラカン入門」


原題は The Cambridge Introduction to Jacques Lacan 。出版されたばかりの本だ。

作者のマガウアンはラカンの理論を用いて資本主義の分析をしたりしている理論家で、YouTube の番組も持っている。動画ではいつも野球帽だかなにかを後ろ前にかぶって登場する気さくな先生である。本書は大学の学部生向けに書かれたごくごくわかりやすい本になっている。最初から読んでいけばラカンについておおよそ理解できると思う。哲学や文学や社会学の基礎的知識があれば難しいところはどこにもない。

第一章「コンテクスト」はラカンの理論の位置づけをこころみている。精神分析になにをつけ加えたのか、フロイトをどう発展させたのか、西洋哲学にどう対峙しているのか、などの点が概略的に説明されている。

第二章「生涯」はラカンの生い立ちを年代的に追って紹介している。ラカンは考え方がしだいに変化していった、というか、力点の置き方が変わっていった人なので、時系列的に理論を整理するのはどうしても必要になる。

第三章「受容」はラカンの理論がどう受けとめられてきたかを解説している。ここはわたしもたいへん勉強になった。いちおうアンテナを立てて、重要な研究が出たら、少なくともレビューくらいは読むようにしているが、やはり素人だから漏れがたくさんある。それをこの章はたっぷりと補ってくれた。たとえば2021年にはシェルドン・ジョージという人が「トラウマと人種」という本を出しているそうだ。その内容は、人種差別は象徴的構造から生まれるのではなく、象徴的構造ではとらえられない現実界の領域から生まれている、それゆえ法律や教育的努力によっては人種差別を根絶できない、とするものらしい。この議論は今の日本にも適用可能だということが直感的にわかるので、今年中に読んでみようと思った。

第四章「概念」はラカン理論に登場するカギとなる概念(象徴的秩序、想像界、レアル、欲望、享楽、等々)を紹介している。この部分が本書の目玉といっていいだろう。最初に感想を言ってしまうと、非常によくできている。ラカンの「対象a」などという概念はまったく独特のもので、従来からある観念を別の言葉で焼き直すなどといったものではなく、それこそまったく新しくラカンが練り上げたものだが、この章を頭から順番に読んでいけば、大まかなところはちゃんとわかるだろう。また近年、イデオロギー分析においてラカンの議論が大きな役割を果たしているが、マガウアンはその点についても配慮しながら書いていると思う。たとえばこんな一節。

象徴秩序は主体に自分を位置づける虚構を差し出す。この虚構は現実のありようとは関係なくあらわれる。ある象徴的虚構が他の象徴的虚構にまさるのは、それが外の世界とよりよく呼応しているからではない。その虚構に取り込まれた者の精神状態により適合しているからである。

日本でも排外主義者が顕著になってきたが、彼らがまき散らす象徴的虚構は、現実と異なっている。だからデマと言われるのだが、しかし彼らがそれを信じ、自分を位置づける虚構として受け入れるのは、それが外的世界とよりよく呼応しているからではない。彼らがかかえる精神状態により適合しているからだ。だから事実との乖離を指摘するのはもちろん大事なのだが、それだけでは彼等の眼をさまさせることはできないのである。こんな具合にマガウアンはただ説明するのではなく、現在の世界的政治状況においてラカンの概念がどのような意義を持つのかという点もしっかり押さえながら書いている。

そして第五章はほんの数ページからなる「結論」である。

ラカン研究をわかりやすく総括した最新の本として、本書は推奨に値する。わかりやすさというのは問題もはらんでいるのだけれど、マガウアンはそれを理解しつつ、しかし知の前進のため、あるいは後代への知の継承のためには、ある種のまとめが必要なのだと、割り切ってやっている気配がある。なるほどそれはそれで一つの考え方だ。

マガウアンは YouTube のチャンネルでも本書に関した話をしているので、興味のある方はごらんいただきたい。(こちら


Saturday, August 23, 2025

アレンカ・ズパンチッチ「否認」


原題は Disavowal で一応「否認」と訳してみた。これは精神分析の用語で今どういう訳語が当てられているのか、よく知らない。よく似た言葉に「否定」があるが、これとは違う。まず両者の違いから説明すると……。

否定はトラウマ的な事象に対して「それではない」と真っ向から抑圧的に打ち消すことを言う。これに対して「否認」はトラウマ的な事象に対して「その事象についてはわかっている。しかしそれでも……」と真っ向から打ち消すのではなく、いわばそらすようにして否定することを言う。たとえば気候危機に対して「気候危機などない」と反応するのが否定であり、「気候危機がどういうものかはわかっている。しかし経済発展が大切だ」というのが「否認」である。いずれも気候危機から目をそらす点では同じだが、否認には気候危機がいかに深刻かということを説いても、「いや、それはわかっている。しかし……」と反論されるところが大きな違いだ。精神分析では pervert がこの否認を用いることでよく知られ、また pervert は治療がもっとも困難な病と言われている。

否認の構造はフェティシズムとも関係してくる。ある科学者にまつわるこんな逸話がある。彼は玄関の戸に馬蹄をぶら下げていた。これは悪魔よけのおまじないである。あるとき科学者の友人が言った。「きみは科学者だろう。どうして迷信を信じるのだ?」すると科学者が言った。「もちろん迷信など信じてはいない。しかしこのおまじないは信じていない人にもきくらしいからね」ちょっとややこしい説明になるが、要するに科学者は迷信を信じている。しかしそれを「迷信だということはわかっている。しかし……」という論法で否認するわけである。科学者は迷信である馬蹄の力など信じていない、しかしそれでも馬蹄を飾っている。どこかで彼は信じているのだ。妙な言い方になるかもしれないが、馬蹄が彼のかわりに迷信的な力を信じているといってもいいだろう。このような奇妙なモノ、これがフェティッシュな対象である。

もう一つ例を挙げよう。美男美女の若いカップルがいて、うらやましいことにお互いを深く愛し合っていた。ところが奥さんが乳がんでコロリと死んでしまった。旦那さんは悲しみにかきくれるかと思いきや、案外平気で、奥さんが亡くなる直前の様子なども落ち着いて友人たちに語ることができた。ただし……ここが重要なのだが……そのとき彼は、奥さんが大切にしていたペットのハムスターをいつも撫でていたのである。このハムスターが死ぬと、旦那さんは完全に狂乱状態に陥り、自殺してしまった。精神分析の医者ならすぐわかるが、ハムスターは「妻が死んでいない」という信念をあらわすフェティッシュだったのだ。だからハムスターが生きている限りは、旦那さんは「妻が死んだことは知っている。しかしハムスターが生きている限り、彼女は死んでいない」と考え、平気で奥さんの死についても語ることができた。しかしハムスターが死ぬと「妻は死んでいない」という信念も崩壊し、彼は狂乱状態に陥ったのである。

フェティッシュは奇妙な現象である。科学者は迷信を信じているのだろうか、信じていないのだろうか。彼は信じていないと友人に言うが、フェティッシュなモノが彼のかわりに信じている。しかしモノは彼ではない。科学者は信じていると同時に信じていないとも言える。ハムスターの例もまったく同様である。

わたしはなにか非常に特殊な現象について話していると思われるかもしれないが、否認は広く社会に行き渡っている。スマホに必須の材料の一つは、コンゴの鉱山における児童労働によって得られているが、あなたにその事実を伝え、スマホの利用をやめるかと問うたとしよう。あなたはどう答えるか。「それは知っている。しかしスマホなしではもう暮らせない」と言うのではないか。これこそ否認である。いまある経済的枠組みから脱出できないことを否認の形で認めているのだ。またわたしはマリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」を翻訳したが、その後書きに記したように、この本のテーマはまさしく否認である。あるいは政治的言説に耳をすませれば、「そんなことはよくわかっている。しかし……」という言い回しがしょっちゅう聞きとれるだろう。

またアンケートなどで「……を信用するか」とか「……を信じるか」などという設問には意味がない。人は信じていないかもしれないが、フェティッシュが信じているかもしれないからだ。「信」は心の内奥の構造だと思ってはいけない。否認において信はその人の外部に存在している。

本書ではこの否認のメカニズムに対して詳しい考察を加えている。なぜ否認が問題なのか。作者のズパンチッチによれば、それが資本主義のきわめて冷酷な現実を覆い隠すために使われているからである。とりわけ最近の陰謀論的言説においては、トラウマ的なものが二重に否認されていると作者は指摘する。我々の社会の問題点が二重に覆い隠されているということだ。

オクターヴ・マノーニ、ロベルト・プファーラーに引き続いてアレンカ・ズパンチッチが明快で刺激的な否認論を書いてくれた。知的な興味を持つ人々に心から推薦する良書である。

Wednesday, August 20, 2025

今月の注目作



Fadepage からジョン・クーパー・ポーイスの「ウルフ・ソレント」が出るようだ。ポーイスの代表作の一つである。日本語訳も国書刊行会から2001年に出ているようだ。大著なので二巻本で訳されている。ポーイスには反文明的というか、神秘主義的なところがあって、国書刊行会から翻訳・出版されるのはむべなるかなという感じだ。

この物語は学校の教師をしていたウルフ・ソレントが、授業中に学生たちの前でつい文明の厭わしさについて本音を吐露してしまい、それがもとで教職を辞し、故郷のラムズガードに帰るところからはじまる。ウルフの内省が長々と語られる沈鬱な感じの小説で、万人受けするとは思えないが、しかし人間はときに思索的になるもので、そういうときに読むと案外面白い。


リチャード・オールディントン(Richard Aldington)の「英雄の死」(Death of a Hero) がプロジェクト・グーテンバークから出ている。作者が1929年に発表した作品で、戦争小説のなかでもとりわけすぐれたものとして知られている。ウィキペディアによると作者(1892-1962)は詩人でもあり、イマジズムという象徴詩の運動にかかわっていた。ちなみに彼の結婚相手はイマジズム運動の代表的詩人 H.D.である。

「英雄の死」で作者はヴィクトリア朝の欺瞞性を徹底的に批判している。物語のしょっぱなで主人公の戦死が報告され、ついで時間をさかのぼって彼の両親や祖父母の話がはじまり、主人公の幼年期、青年期、従軍してからの様子が語られる。よく第一次世界大戦の前には牧歌的な、無垢の世界が存在していたが、戦争によってそれは破壊された、などという人がいるが(フィリップ・ラーキンもそんな詩を書いていた気がする)、オールディントンはそんなものは幻想だ、最初から欺瞞しかなかったではないか、と怒りをぶつけるようにこの作品を書いている。

有名な作品だけに日本語訳も出ているようだ。新田潤という人が今日の問題社というところから1941年に「英雄の死」というタイトルで翻訳を出している。こんな反戦小説をよく1941年に出したものだと感心する。たぶん伏せ字が入っているのではないだろうか。

Sunday, August 17, 2025

Elementary German Series (8)

8. Die Zahl (Die Ordnungszahl, 序数)

The first heißt1 auf deutsch „der erste.“ The third heißt auf deutsch „der dritte.“ Zum Beispiel: der erste Oktober, der dritte Oktober, der erste Dezember, der dritte Dezember und so weiter.

1. heißen ~と呼ばれている, ~という名前である; ~という意味である; ~ということである.

Von zwei bis neunzehn hängt man te an die Grundzahl und bekommt2 so die Ordnungszahl: erste, zweite, dritte, vierte, fünfte, sechste, siebte (oder siebente), achte, neunte, zehnte, elfte, zwölfte, dreizehnte, vierzehnte, fünfzehnte, sechzehnte, siebzehnte, achtzehnte, neunzehnte.

2. bekommen 得る, もらう, 手に入れる.

Von zwanzig an hängt man ste an die Grundzahl und bekommt so die Ordnungszahl. Zum Beispiel: zwanzigste, einundzwanzigste, zweiundzwanzigste, dreiundzwanzigste, vierundzwanzigste, fünfundzwanzigste und so weiter; dreißigste, vierzigste, fünfzigste und so weiter; hundertste, tausendste, millionste und so weiter.

Thursday, August 14, 2025

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(11)

§11. Ihr seid alle freche Lügner!.

君たちはみんな厚顔無恥な嘘吐きだ!

 alle (みんな)、beide (二人とも)、alle beide (二人とも)は副詞的に用います。alle freche Lügner (すべての厚顔な嘘吐き)と誤読してはいけません。もしそうならば alle frechen Lügner と変化すべきはずです(§12)。

 alle の代わりに insgesamt, allesamt, alle zusammen, samt und sonders などというと「どいつもこいつも」の意になります。Ihr seid (ein) jeder ein frecher Lügner ともいいます。

Monday, August 11, 2025

英語読解のヒント(183)

183. 複合関係副詞 / 複合関係形容詞を使った譲歩 (2)

基本表現と解説
  • However hard you may work, you cannot finish it in a day.

「どんなに骨折ってやっても一日で終えることはできない」。この譲歩節は次のように言い換えることもできる。

  • No matter how hard you may work, ....
  • Work as you may, ....
  • Work as hard as you will, ....
  • Even if you work ever so hard, ....

例文1

The range of human knowledge has increased so enormously, that no brain can grapple with it; and the man who would know one thing well must have the courage to be ignorant of a thousand other things, however attractive or inviting.

William Mathews, Getting on in the World

人間の知識の領域はとほうもなく拡大し、そのすべてに取り組むことは誰にもできない。一つのことをよく知ろうとする者は、ほかの千のことどもに無知となる勇気を持たなければならない。それらがどんなに魅力的で心を奪うものであっても。

例文2

However he may have suffered in his last cruise, he is always ready to join a new expedition; and the more adventurous its nature, the more attractive is it to his vagrant spirit.

Washington Irving, Astoria

前回の旅行でどれほどたいへんな目に遇おうとも、彼はいつもあらたな遠征に喜んで加わった。その遠征が危険なものであればあるほど、放浪を好む彼には魅力的に見えるのだ。

例文3

...experience has proved that discoveries in science, however remote from the interests of every-day life they may at first appear, ultimately confer unforeseen and incalculable benefits on mankind.

Robert Routledge, Discoveries and Inventions of the Nineteenth Century

……科学上の発見は、一見日常生活とは関係なさそうに見えても、最終的には人類に思いもかけない、無数の恩恵を与えるものだ。

Saturday, August 9, 2025

英語読解のヒント(182)

182. 複合関係副詞 / 複合関係形容詞を使った譲歩 (1)

基本表現と解説
  • Whatever the result may be, he has done his very best.

「結果はどうあれ、彼は全力をつくした」。この譲歩節は次のように言い換えることもできる。

  • No matter what the result may be, ....
  • Be the result what it will, ....
  • Let the result be what it will, ....

例文1

"Have I not told you I am haunted? Wherever I go those footsteps follow me."

J. E. Muddock, Stories Weird and Wonderful

「言わなかったかい? おれは幽霊に取り憑かれているんだ。どこに行ってもあの足音がついてくる」

例文2

Wheresoever you place woman, sir — in whatsoever position or estate — she is an ornament to that place she occupies, and a treasure to the world.

Mark Twain, from a toast delivered 11 January 1868 to a banquet held by the Washington Correspondents' Club

ご婦人はどんなところに置きましても、どんな地位、どんな身分に据えましても、その場所を飾る花であります、世界の宝であります。

例文3

The founders of a new colony, whatever Utopia of human virtue and happiness they might originally project, have invariably recognized it among their earliest practical necessities to allot a portion of the virgin soil as a cemetery, and another portion as the site of a prison.

Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter

新植民地の創設者は、いかなる人間的美徳や幸福のユートピアを当初計画していたにしろ、なによりもまず処女地の一部を墓地にし、べつの一部を牢獄にあてがうことは常に実際的な必要であると認めてきた。

Tuesday, August 5, 2025

英語読解のヒント(181)

181. 命令法の形をした譲歩 (2)

基本表現と解説
  • Cudgel my brains as I may, I cannot see how it is to be done.

「どんなに考えてみても、どうすればできるか、わからない」。命令法の動詞のあとに「as + 主語 + 助動詞」を伴う形を示す。

例文1

Order and shout as they might, things remained precisely as they were.

R. Nisbet Bain, Russian Fairy Tales

いかに命令し、いかに叫んでも、事態はいままでと何も変わらなかった。

例文2

Occasionally there still came flashes, but search as we would, we cuold see no trace of either of the wizards.

Henry Rider Haggard, Allan's Wife

ときどき稲妻がひらめいたが、しかしいくら探しても魔法使いはどちらも消え失せ、影も形もなかった。

例文3

"The instant that I left 'the devil's seat,' however, the circular rift vanished; nor could I get a glimpse of it afterwards, turn as I would."

Edgar Allan Poe, "The Gold-Bug"

「ところが『悪魔の腰掛』を離れたとたん、あの丸い切れ目は消えてしまった。そのあとはどこから見てもちらりとも見えない」

Sunday, August 3, 2025

英語読解のヒント(180)

180. 命令法の形をした譲歩 (1)

基本表現と解説
  • Be he prince or beggar, I cannot forgive him.
  • Let him be prince or beggar, I cannot forgive him.

「王様にせよ乞食にせよ、ああいう人間は許せない」。let をはじめに置く形のほうが時代的には新しい。

例文1

Let him be ever so rich, if he asks your daughter in marriage, refuse her to him. He will undoubtedly take more care of his umbrella than of his wife.

Max O'Rell, Rambles in Womanland

そんな男は、どんなに金持ちだろうと、娘をくれと言ってきたら断るがよい。彼はきっと妻より傘のほうを大事にするだろうから。

例文2

Look up the street or down the street, this way or that way, we saw only America!

Mark Twain, The Innocents Abroad

街路のどちら側を見ても、こっちを見てもあっちを見ても、見えるものはただアメリカばかりだった。

 ウクライナのオデッサがアメリカの街とそっくりでトウェインが驚いたというエピソードから。

例文3

He reproached himself for the thought; yet, do what he would, he could not drive it away.

Charlotte M. Braeme, Wife in Name Only

彼はそんなことを考えた自分を責めたが、しかしなにをしようとその考えを追い払えなかった。

ジョン・ラッセル・ファーン「栄光の輝きに照らされて」

  原題は Reflected Glory。他人がつかんだ栄光だけれども、その人と関係のある人が、まるで自分の栄光であるかのように感じる、という意味だ。「親の七光り」という日本語が示す事態と、よく似ていると云っていい。 女流作家のエルザは、ふとしたきっかけから画家のクライブと知り...