言わずとしれたマーガレット・ミラーの傑作(1956年の作)。最近 Vanish in an Instant がプシュキン・ヴァーティゴ社から復刊されたので、なんとなくミラーがまた読みたくなった。
この作品は確か日本語の翻訳も出ていたから知っている人も多いと思う。非常に精神分析的な味わいがある。地口や言い間違いがどれも意味深で、犯人は二重人格である。フロイトが紹介する逸話や、症例談を読んでいるような気になる。
物語は金持ちの若い女性ヘレン・クラヴォにかかってきた一本の電話からはじまる。相手はイブリン・メリックという名を名乗るが、ヘレンはその名前に聞き覚えがない。すると相手は次第にヘレンに薄気味悪いことをいいはじめるのだ。「あなたの顔が水晶玉に映っているわ。とても明るく、くっきり見える。でもなにかが変。ああ、わかった。あなたは事故に遭ったのよ。身体がばらばらになっている。額はぱっくり裂けている。口からは血が出ている。どこもかしこも血まみれだわ……」
危険を感じたヘレンは母親の知り合いのブローカー、ブラックシアという男にこの電話の相手を探してくれと頼む。
ブラックシアはすぐにこの女がヘレンの学校友達で、ヘレンの兄と結婚し、すぐさま別れた女性であることを知る。はじめて電話を受けて彼女を思い出せなかったヘレンは、イブリン・メリックの記憶を抑圧していたのである。
さらにイブリン・メリックは二重人格者であることがわかる。善良なイブリンと、悪意に充ちたイブリンの二人がいるのだ。後者は気に入らない人々に電話をし、不安を植えつけたり家庭生活を破壊しようとする。それだけではない。邪悪なイブリンはついに殺人を犯し、ヘレンを誘拐する。ブラックシアはヘレンを助けようと、イブリンを探すのだが……最後にはじつにあざやかなひねりが待っている。
マーガレット・ミラーは、メアリ・ロバーツ・ラインハートやエリザベス・サンケイ・ホールディングなどと並んで心理的なスリラーを書くのがうまい。本作はその中でも最高作といっていいだろう。正直、今回読み返して文章に甘さがあるように思えたが、多重人格の不気味さは非常によく出ている。また全編に漂う閉ざされた感覚、外部に開かれていない、この閉鎖感はなにに由来するのだろうと思った。今までは精神分析的な側面に興味を惹かれていたが、今回は作品が書かれた社会的な背景にも関心が向かった。残念ながら彼女の伝記は出ていないようだが、彼女の夫ロス・マクドナルドについては誰かが伝記を出していたはずだ。調べて読んで見ようと思っている。
Sunday, November 11, 2018
Friday, November 9, 2018
Fadepage
ネット上でパブリック・ドメインの本を探そうとするなら、まず Gutenberg を調べるGutenberg は蔵書数、テキストのクオリティーともに、世界一の電子図書館である。
ただし Gutenberg は国ごとに著作権法が違うため、Gutenberg Canada とか Gutenberg Australia とかに別れている。わたしはどういう「新刊」が出たが、ほぼ毎日見て廻っている。
ほかにも Wikisource、Manybooks と電子書籍を発行しているいろいろなサイトがある。そのなかでもやや知名度は低いが、注目すべきサイトが Fadepage だ。
おそらくここは Gutenberg Canada の関係者が発足させたのだろう。Fadepage から出た本が、ほとんど同時に Gutenberg Canada からも出されることがあるから。それに著者の死後五十年間を著作権による保護期間と見なしているから。
組織の詳しいことは知らないが、ここの蔵書はすばらしい。たとえばオーウェルが1938年に出した「カタロニア讃歌」があり、オーストラリアのミステリ作家アーサー・アップフィールドの作品があり、ドロシー・リチャードソンが書いたモダニズム文学の大長編 Pilgrimage が全巻読める。(Pilgrimage の最初の六巻ぐらいは Gutenberg からも読めるのだが、後半の巻は出版年の関係で Fadepage でないと読めない)シャーリー・ジャックソンのホラーの名作「ヒル・ハウスの亡霊」もあるし、ちょっと珍しいところではジャン・ヴァルティンの「夜を越えて」Out of the Night も手に入る。(ヴァルティンは嘘つきのように見なされているが、この作品はめちゃくちゃ面白い。訳してみたいのだが、でも歴史の参考書も大量に読まなければならないと思うと二の足を踏む)
とにかく宝箱みたいなサイトだ。暇なときに丁寧に蔵書を調べると、思わぬ発見をする。チャールズ・ウィリアムズ(哲学的な怪奇小説を書いた男)がドラマも書いていたことは、わたしはこのサイトを通してはじめて知ったし、マニング・コールズの愉快なスパイ小説に出会ったのもこのサイトのおかげである。
秋の夜長に読む本を探すなら、まずはこのサイトを訪れるべきである。
ただし Gutenberg は国ごとに著作権法が違うため、Gutenberg Canada とか Gutenberg Australia とかに別れている。わたしはどういう「新刊」が出たが、ほぼ毎日見て廻っている。
ほかにも Wikisource、Manybooks と電子書籍を発行しているいろいろなサイトがある。そのなかでもやや知名度は低いが、注目すべきサイトが Fadepage だ。
おそらくここは Gutenberg Canada の関係者が発足させたのだろう。Fadepage から出た本が、ほとんど同時に Gutenberg Canada からも出されることがあるから。それに著者の死後五十年間を著作権による保護期間と見なしているから。
組織の詳しいことは知らないが、ここの蔵書はすばらしい。たとえばオーウェルが1938年に出した「カタロニア讃歌」があり、オーストラリアのミステリ作家アーサー・アップフィールドの作品があり、ドロシー・リチャードソンが書いたモダニズム文学の大長編 Pilgrimage が全巻読める。(Pilgrimage の最初の六巻ぐらいは Gutenberg からも読めるのだが、後半の巻は出版年の関係で Fadepage でないと読めない)シャーリー・ジャックソンのホラーの名作「ヒル・ハウスの亡霊」もあるし、ちょっと珍しいところではジャン・ヴァルティンの「夜を越えて」Out of the Night も手に入る。(ヴァルティンは嘘つきのように見なされているが、この作品はめちゃくちゃ面白い。訳してみたいのだが、でも歴史の参考書も大量に読まなければならないと思うと二の足を踏む)
とにかく宝箱みたいなサイトだ。暇なときに丁寧に蔵書を調べると、思わぬ発見をする。チャールズ・ウィリアムズ(哲学的な怪奇小説を書いた男)がドラマも書いていたことは、わたしはこのサイトを通してはじめて知ったし、マニング・コールズの愉快なスパイ小説に出会ったのもこのサイトのおかげである。
秋の夜長に読む本を探すなら、まずはこのサイトを訪れるべきである。
Wednesday, November 7, 2018
ドン・デリーロ
ガーディアン紙に Don DeLillo on Trump's America: 'I'm not sure the country is recoverable' というタイトルの記事が出ていた。ドン・デリーロが現代のアメリカ、とりわけトランプ大統領以後のアメリカがどうなるかをテーマにした小説を書いていること、戯曲を書いたときの経験談、映画のこと、八十一歳を過ぎてもまだ書きつづける理由など、いろいろなことを話している。
その中でおやっと思ったのは、彼が白黒映画の大ファンだと告白している部分だ。彼は最近ニューヨーク・フィルム・フェスティバルでパヴェウ・パヴリコフスキ監督の「冷戦」という映画を見たらしい。「とてもよかった。白黒映画で見事な出来だった。わたしは白黒映画の大ファンなんだ。奇妙なことだが、この前『人類の子供たち』を見直してがっかりしたんだ。白黒映画だと思っていたんでね。力強い作品ではあるんだが、白黒映画だったらもっと力強さが増しただろう」
これを読んでまず思ったのは、「冷戦」をなんとしても見なくては、ということだった。以前にも書いたが、わたしも白黒映画のファンなのである。映画は白黒からカラーに移ったとき、貴重な何かを失った。そう感じるひとりだ。
さらにデリーロが「人類の子供たち」も白黒映画だと思い込んでいた、というところも興味深い。「冷戦」はそれこそ冷戦期の物語、カラー映画が始まる前の時期の物語だろうから、白黒で撮影されるのは時代を感じさせていいのかもしれない。しかし「人類の子供たち」はSFであり、未来を描いている。それでもデリーロは白黒映画のほうがよかったと言っているのだ。
これは単に白黒映画の可能性といった問題だけでは片付かない。作品が、それ自身、別様の表現をされたおのれの姿を想起させるという現象。このことは今までにもときどき不思議に感じていた問題だが、これからは意識して考えるようにしたい。旧字/新字の問題がいつの間にか白黒映画/カラー映画の問題と関連し、さらにベンヤミンの翻訳論みたいな問題とつながっていることが見えてきた。面白い。
その中でおやっと思ったのは、彼が白黒映画の大ファンだと告白している部分だ。彼は最近ニューヨーク・フィルム・フェスティバルでパヴェウ・パヴリコフスキ監督の「冷戦」という映画を見たらしい。「とてもよかった。白黒映画で見事な出来だった。わたしは白黒映画の大ファンなんだ。奇妙なことだが、この前『人類の子供たち』を見直してがっかりしたんだ。白黒映画だと思っていたんでね。力強い作品ではあるんだが、白黒映画だったらもっと力強さが増しただろう」
これを読んでまず思ったのは、「冷戦」をなんとしても見なくては、ということだった。以前にも書いたが、わたしも白黒映画のファンなのである。映画は白黒からカラーに移ったとき、貴重な何かを失った。そう感じるひとりだ。
さらにデリーロが「人類の子供たち」も白黒映画だと思い込んでいた、というところも興味深い。「冷戦」はそれこそ冷戦期の物語、カラー映画が始まる前の時期の物語だろうから、白黒で撮影されるのは時代を感じさせていいのかもしれない。しかし「人類の子供たち」はSFであり、未来を描いている。それでもデリーロは白黒映画のほうがよかったと言っているのだ。
これは単に白黒映画の可能性といった問題だけでは片付かない。作品が、それ自身、別様の表現をされたおのれの姿を想起させるという現象。このことは今までにもときどき不思議に感じていた問題だが、これからは意識して考えるようにしたい。旧字/新字の問題がいつの間にか白黒映画/カラー映画の問題と関連し、さらにベンヤミンの翻訳論みたいな問題とつながっていることが見えてきた。面白い。
Monday, November 5, 2018
奴隷国家
とあるサイトのツイート欄を見ていたら「外国人技能実習生は現代の奴隷制」とコメントしている人がいた。
ちょっと待て。
安倍政権は当初から日本を奴隷の国にするつもりで政策を進めてきたではないか。つまり、大企業にとってもっとも使い勝手のよい労働者の国にしようとしてきたではないか。憲法改正により国民から権利を奪い、労働条件をさらに過酷なものにしようとしているではないか。奴隷なのは外国人技能実習生だけではない。
日本人よりも賃金の低い外国人実習生が大量に流入してきたら、日本人の賃金も必然的に下がる。そのことは日刊ゲンダイも報じていた。「外国人技能実習生は現代の奴隷制」というのは事実だが、奴隷であるのはわれわれも同じである。
ちょっと待て。
安倍政権は当初から日本を奴隷の国にするつもりで政策を進めてきたではないか。つまり、大企業にとってもっとも使い勝手のよい労働者の国にしようとしてきたではないか。憲法改正により国民から権利を奪い、労働条件をさらに過酷なものにしようとしているではないか。奴隷なのは外国人技能実習生だけではない。
日本人よりも賃金の低い外国人実習生が大量に流入してきたら、日本人の賃金も必然的に下がる。そのことは日刊ゲンダイも報じていた。「外国人技能実習生は現代の奴隷制」というのは事実だが、奴隷であるのはわれわれも同じである。
Saturday, November 3, 2018
「悪夢」 Nightmare
リン・ブロックが1932年にディテクティヴ・クラブから出した本。
はっきり言って読むのがつらい本だった。物語にドラマチックな起伏がない。緩急もなければ、強弱もない。ひたすら数名の人々の心理や日常が細かく列挙されていくだけだ。読むほうとしては大量に提示される情報の、どこに注目すればいいのかがわからない。
おそらくこれは作者が意図的に選んだ書き方なのだろう。彼はサイモン・ウォリーがさまざまな悲劇に見舞われ、ついに殺人を決意し、それを実行する過程をひたすら心理と生活の細かな描写によって描こうとした。好意的に見ればこれは従来の犯罪小説、センセーション・ノベルに対するアンチテーゼである。センセーション・ノベルは偶然を多用する、不自然なまでにドラマチックな物語だ。リン・ブロックはそのドラマ性を否定した書き方を試みたのである。いや、ドラマ性どころか物語性まで否定したような書き方で、その退屈さ加減はどこかフランスのヌーボー・ロマンを彷彿とさせるようなところすらある。
物語は売れない劇作家サイモン・ウォリーとその妻を中心に展開する。サイモンは幸運にも駆け出しの劇作家として二作ほどヒットを飛ばすのだが、戦争から帰り結婚してからは、やることなすことすべてうまく行かない。転々と引っ越しを重ね、ようやく落ち着いて執筆に専念できる環境ができたかと思うと、隣人とけんかをし、さんざん嫌がらせを受けて、また引っ越しせざるを得なくなる。そして手に刺さったとげが原因となって、引っ越しした先で妻は死んでしまう。
サイモンはもともとすこし精神不安定なのだが、妻の死をきっかけに、けんかをした昔の隣人に復讐しようと決意する。彼らのせいで引っ越しなどしなければ、妻は怪我をすることもなかったし、死ぬこともなかったと考えたのだ。彼は隣人の家族や女中を一人ずつ殺害していく。
犯罪小説として決して出来はよくないが、しかしリン・ブロックがどういう意図でこのような書き方を選択したのかは興味がある。この作品はたんなる失敗作ではない。従来の小説形式への反発、あるいは新しい叙述形式への模索から書かれたことは明白だからだ。
はっきり言って読むのがつらい本だった。物語にドラマチックな起伏がない。緩急もなければ、強弱もない。ひたすら数名の人々の心理や日常が細かく列挙されていくだけだ。読むほうとしては大量に提示される情報の、どこに注目すればいいのかがわからない。
おそらくこれは作者が意図的に選んだ書き方なのだろう。彼はサイモン・ウォリーがさまざまな悲劇に見舞われ、ついに殺人を決意し、それを実行する過程をひたすら心理と生活の細かな描写によって描こうとした。好意的に見ればこれは従来の犯罪小説、センセーション・ノベルに対するアンチテーゼである。センセーション・ノベルは偶然を多用する、不自然なまでにドラマチックな物語だ。リン・ブロックはそのドラマ性を否定した書き方を試みたのである。いや、ドラマ性どころか物語性まで否定したような書き方で、その退屈さ加減はどこかフランスのヌーボー・ロマンを彷彿とさせるようなところすらある。
物語は売れない劇作家サイモン・ウォリーとその妻を中心に展開する。サイモンは幸運にも駆け出しの劇作家として二作ほどヒットを飛ばすのだが、戦争から帰り結婚してからは、やることなすことすべてうまく行かない。転々と引っ越しを重ね、ようやく落ち着いて執筆に専念できる環境ができたかと思うと、隣人とけんかをし、さんざん嫌がらせを受けて、また引っ越しせざるを得なくなる。そして手に刺さったとげが原因となって、引っ越しした先で妻は死んでしまう。
サイモンはもともとすこし精神不安定なのだが、妻の死をきっかけに、けんかをした昔の隣人に復讐しようと決意する。彼らのせいで引っ越しなどしなければ、妻は怪我をすることもなかったし、死ぬこともなかったと考えたのだ。彼は隣人の家族や女中を一人ずつ殺害していく。
犯罪小説として決して出来はよくないが、しかしリン・ブロックがどういう意図でこのような書き方を選択したのかは興味がある。この作品はたんなる失敗作ではない。従来の小説形式への反発、あるいは新しい叙述形式への模索から書かれたことは明白だからだ。
Thursday, November 1, 2018
新字体と旧字体
中国人の友人が、自分は中国で今使われている字体よりも、台湾で使われている旧字体のほうが好きだ、といっていた。旧字体のほうが美的感覚に優れているというのである。
わたしが本を読むとき、もともと旧字体で書かれたものは、できるだけ新字体に直していない本を選んで読む。たとえば三島由紀夫なども漢字は旧字体を用いているが、あれが新字体に直されているとなんともおかしな印象を与えることになる。
三島由紀夫には独特の美学があって、それは措辞だけでなく、漢字の選択にも及んでいる。彼が考えるところの精神性をあらわすために、俗な表記をできるだけ避けているのだが、彼の文章を新字体を使って表記し直すと、新字体のわかりやすさが、彼が排除しようとしていた要素をふたたび字面の次元に持ち込んでしまうのだ。
昨日、わたしは白黒映画とカラー映画の違いについて考えたいと言った。白黒映画にあった緊張感が、カラー映画の中では失われてしまった。それはなぜなのか、久しぶりに考えて見たいと思ったのである。そして考えているうちに、似たような経験を別の分野でしていることに思い当たった。それが今話した新字体と旧字体の差である。
新字体に表記を変更された作品を読むことによって、わたしは旧字体で書かれた作品からなにかが失われたことに気がついた。ちょうどカラー映画を見ることによって、白黒映画の緊張感に気づいたように。メディアは違うものの(映像と文字)、いずれも視覚的要素が作品の本質と深く結びついていることを示していると思う。この二つを折り合わせながらもうすこし考えを深めることができそだ。
わたしが本を読むとき、もともと旧字体で書かれたものは、できるだけ新字体に直していない本を選んで読む。たとえば三島由紀夫なども漢字は旧字体を用いているが、あれが新字体に直されているとなんともおかしな印象を与えることになる。
三島由紀夫には独特の美学があって、それは措辞だけでなく、漢字の選択にも及んでいる。彼が考えるところの精神性をあらわすために、俗な表記をできるだけ避けているのだが、彼の文章を新字体を使って表記し直すと、新字体のわかりやすさが、彼が排除しようとしていた要素をふたたび字面の次元に持ち込んでしまうのだ。
昨日、わたしは白黒映画とカラー映画の違いについて考えたいと言った。白黒映画にあった緊張感が、カラー映画の中では失われてしまった。それはなぜなのか、久しぶりに考えて見たいと思ったのである。そして考えているうちに、似たような経験を別の分野でしていることに思い当たった。それが今話した新字体と旧字体の差である。
新字体に表記を変更された作品を読むことによって、わたしは旧字体で書かれた作品からなにかが失われたことに気がついた。ちょうどカラー映画を見ることによって、白黒映画の緊張感に気づいたように。メディアは違うものの(映像と文字)、いずれも視覚的要素が作品の本質と深く結びついていることを示していると思う。この二つを折り合わせながらもうすこし考えを深めることができそだ。
半世紀ぶりに日の目を見た映画
BBCのニュースで五十年前の短編映画が再発見されたと報じられた。
二十分ほどの短い作品で、ポーの「告げ口心臓」を映像化したものらしい。
製作会社であるアデルフィ・フィルムはこの短編映画を永年探し続けてきたが見つからず、ほとんどあきらめかけていたところ、16ミリ映画の蒐集家であるジェフ・ウエルズさんが、自分が所有している旨を連絡してきたらしい。
スタンリー・ベイカーの演技が素晴らしいらしいので、是非みたいものだ。British Film Institute のウエッブサイトではハロウィンに合わせて二週間ほどこのフィルムを無料公開しているようだが、もっぱら英国向けのようで、日本からアクセスしても見ることができない。残念だ。
白黒映画はカラーに較べて面白くないという人が多いが、そういう人はほとんど白黒映画を見ていない。わたしはアメリカにいたとき、大学の図書館にある映画を二年ほどかけて、時代順に丁寧に見ていったことがある。そのとき衝撃だったのは、白黒映画が築きあげ、持っていた画面の緊張感が、カラー映画になった途端に乱れ、失われたということである。それは強烈な印象となってわたしの中に残っているが、しかしなぜそう感じたのかは、いまだによくわからない。
1953年に制作された映画が再発見されたという今回のニュースを聞いて、わたしもふと昔の不思議な印象を思い出した。映画のほうは見られないけれど、ハロウィンのあいだは、わたしが抱いた印象の謎について考えて見たいと思う。
二十分ほどの短い作品で、ポーの「告げ口心臓」を映像化したものらしい。
製作会社であるアデルフィ・フィルムはこの短編映画を永年探し続けてきたが見つからず、ほとんどあきらめかけていたところ、16ミリ映画の蒐集家であるジェフ・ウエルズさんが、自分が所有している旨を連絡してきたらしい。
スタンリー・ベイカーの演技が素晴らしいらしいので、是非みたいものだ。British Film Institute のウエッブサイトではハロウィンに合わせて二週間ほどこのフィルムを無料公開しているようだが、もっぱら英国向けのようで、日本からアクセスしても見ることができない。残念だ。
白黒映画はカラーに較べて面白くないという人が多いが、そういう人はほとんど白黒映画を見ていない。わたしはアメリカにいたとき、大学の図書館にある映画を二年ほどかけて、時代順に丁寧に見ていったことがある。そのとき衝撃だったのは、白黒映画が築きあげ、持っていた画面の緊張感が、カラー映画になった途端に乱れ、失われたということである。それは強烈な印象となってわたしの中に残っているが、しかしなぜそう感じたのかは、いまだによくわからない。
1953年に制作された映画が再発見されたという今回のニュースを聞いて、わたしもふと昔の不思議な印象を思い出した。映画のほうは見られないけれど、ハロウィンのあいだは、わたしが抱いた印象の謎について考えて見たいと思う。
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英語読解のヒント(184)
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アリソン・フラッドがガーディアン紙に「古本 文学的剽窃という薄暗い世界」というタイトルで記事を出していた。 最近ガーディアン紙上で盗作問題が連続して取り上げられたので、それをまとめたような内容になっている。それを読んで思ったことを書きつけておく。 わたしは学術論文でもないかぎり、...
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