Thursday, December 13, 2018

信の構造(1)

今年の九月の初め頃だろうか、フィリップ・プルマンがガーディアン紙に、理性では解消しきれない人間の非合理的信念(迷信)について語っていた。

よくある議論なのだが、しかしそれを読みながら、迷信はフロイドの失策行為とよく似ていると思った。

失策行為、たとえば言い間違いは、疲労や肉体的錯誤によって起きた、意図しない行為として無視される。しかしフロイドはそれを無意識と関連づけた。これは画期的な考え方だった。

魔術的なものに対する信念も、誤った態度、教育のない人間の考えとして理性は退ける。しかしフロイドが失策行為を無意識と関連づけ、システマチックな精神分析の手法を考えだしたように、迷信もあらたな人間理解の糸口になりはしないだろうか。

プルマンはガーディアン紙に寄稿した文章の中でニールス・ボーアの面白い逸話を紹介している。

ボーアは実験室のドアに馬蹄をぶらさげていた。馬蹄は彼が育ったあたりでは魔除けとして使われていた。彼は知人に「迷信を信じているのか」と問われ、こう応えた。「信じちゃいないが、このお守りは信じていない人にも効果があるそうだからね」

この逸話をひいてプルマンは「魔除けとか、天使の名を刻んだ指輪とか、魔方陣の描かれたまじない札とか、そういうものを擁護することは不可能だし、同時に理性的な観点から攻撃することも馬鹿げている。理性はそういうものを理解するには間違った道具だ。迷信を理性的に理解しようとすることは、木でできたものを磁石で吸い付けようとするようなものだ」

これはニールス・ボーアの逸話に対するもっとも一般的な解釈の仕方である。

ここに同じ逸話をこよなく愛する哲学者がいて、その名をスラヴォイ・ジジェクという。彼はその著作や講演の中で何度この話を引用しただろうか。

彼の解釈の仕方はプルマンとちょっと違う。今までのどんな解釈とも違うかもしれない。しかしわたしには決定的に重要な解釈に思える。

ジジェクはこう考える。なるほどボーアは迷信を信じていない。しかし馬蹄が「彼の代わりに」信じているのだ。

いったいどういうことだろうか。

ジジェクが挙げている別の例を見るとわかりやすかもしれない。チベットには祈祷用の回し車というものがある。手に持てる小さなもので、車輪にはお祈りの文句が書きこまれている。それを機械的に一回回転させると、人はお祈りを一回唱えたことになるのだ。なんなら風車をつけてひとりでに回るようにしてもいい。車輪は人の代わりに延々お祈りを唱えてくれる。車輪が回っているあいだ、人は宗教的なことを考えなくてもいい。車輪が彼の代わりに信仰してくれているのだから。

このような信のあり方は未開の文明だけではなく、現代にも見つかる。わたしが十九世紀から二十世紀初頭にかけてもっともポピュラーな作家だったマリー・コレーリの「悪魔の悲しみ」を翻訳したのは、この作品が「信の転移」ともいうべき状況を見事にとらえているからだった。

(つづく)

Tuesday, December 11, 2018

新人選手

最近、全日本プロレスのサイトでは、試合後のコメントやさまざまな行事を収録したビデオを更新していない。あれがあると選手の様子がわかって楽しかったのだが、おそらくテレビ放送を見る人が増えているのだろう、すべてのリソースがそちらに回ってしまった感じである。それで全日本プロレスの収入が増えているなら結構なことだ。

さて、気がついたら新人の選手が次々と三人も現れているようだ。大森北斗選手は写真で見る限りまだ幼い顔をしているが、なにしろわたしの住んでいるところからすぐ近くの江別市の出身である。応援しないわけにはいかない。新人だからなかなか勝てないだろうけど、もっと身体を大きくして活躍して欲しい。

さらに来年のお正月には青柳亮生選手と田村男児選手がデビューすることになっている。青柳選手は青柳優馬選手の兄弟なのだろうか。出身地も同じだし、顔も身体つきもなんとなく似ている。昔はファンク兄弟とか百田兄弟が全日本で活躍していたが、久しぶりに兄弟タッグが見られるのだろうか。

田村選手は、写真で見ると、なかなかいい面構えをしている。向う意気が強そうで、こういう選手が全日本のジュニアにはもうすこし増えてほしいと思う。岡田佑介選手がエヴォルーション入りし、闘志を剥き出しにするようになったときは頼もしく思った。田村選手は諏訪魔選手を目標にしているようだが、ふてぶてしい顔つきだけは諏訪魔に負けていない。大いにあばれてほしいと思う。

Monday, December 10, 2018

図書館は死にかけている

イギリスの図書館が次々と閉鎖されているというニュースを見るにつけ、おなじ事態が日本でもそのうち始まるだろうと暗い気持ちになってしまう。(日本は世界のトレンドから十年~二十年くらい遅れているから)

しかし日本の図書館は本当に生きているか。もう半分死にかけているのではないか。わたしは最近そう思いはじめた。

理由はみっつ。ひとつは利用者の減少。ふたつ目はアマゾンの品揃えの拡充による相対的な図書館の価値低下。みっつ目は図書館自体が知の集積地としての活動を充分に果たしていないこと。

ひとつ目とふたつ目の理由は自明だが、みっつ目はどういうことか。

まず第一に図書館員の本にたいする知識の低下。要するに本を読んでいない。和漢洋にわたる広範な知識がない。とりわけ古典となると絶望的である。ある図書館の館長は鉢かづき姫の話すら知らなかった。洋書の購入は洋販のいいなりである。図書館が見識を持って購入する本を決めているわけではない。

第二に、図書館で開催される行事の内容があまりにも凡庸なものばかり(しかも誰の興味も惹かないようなものばかり)である。凡庸なものが多くてもかまわないのだが、テレビでやっているようなお座敷芸的知識の紹介ではない、先鋭的な知が一切拒否されている。それは常識をひっくり返す危険な知であって、それだけに一般受けはしない。しかし知の尖端とはそういうものなのだ。自然科学においても人文科学においても。そういうものに触れる機会を図書館はなぜつくらないのか。わたしは図書館が無党派性を主張しながら、じつは党派性をすでに有しているのではないかと危惧する。

第三に、図書館の発信力がおそろしく弱い。メディアを通じて図書館の魅力、読書の魅力をなぜ訴えないのか。欧米ではビッグ・リードのような行事が行われているが、なぜ日本の図書館はそうしたものを企画しないのか。また欧米の図書館では、独自に、さまざまなテーマに沿って(性や人種や労働、などなど)注目すべき書籍のリストを出しているが、なぜその程度の活動もしないのか。

図書館がたんなる知の集積地であったなら、もうすでに役目は失っている。アマゾンのほうがはるかに巨大な集積地だからだ。もう数年したら Internet Archive だってその蔵書数を増やし、世界の図書館と呼ばれるようになるだろう。図書館が生き延びるとしたら、その知を咀嚼したり、整理しなおして、つまり巧みに調理していかにもおいしそうに市民に提供できなければならない。それができない日本の図書館はもう半分死にかけているとわたしは思う。

Friday, December 7, 2018

腕立て伏せ

腕立て伏せは最もよく知られた自重トレーニングだが、その効能のすばらしさはあまり理解されていないような気がする。

わたしの大胸筋は腕立て伏せによって鍛えられたといってもいい。腕立ては普段もするけれど、とくに胸を鍛えたいと思ったときは一時間くらいかけてやる。だいたい600回くらい行う。あまり疲れないように30回の腕立てを20回繰り返すのである。最後のほうはかなり疲れるので、20回の腕立てを数回繰り返してノルマを達成することも多い。

わたしはプッシュアップバーをもっていないので、かわりに辞書を手の下に置く。ちょっとだけすべるし、高さもやや低いが、胸の筋肉には充分にきく。はじめてこれでやったときは数日間、胸に筋肉痛が残った。

Wednesday, December 5, 2018

大胸筋

外を歩いているときなど、ときどき無意識のうちに自分の胸をとんとんと叩くことがある。大胸筋が大きくなり出した頃から身に着いた癖である。

大胸筋が発達するのはうれしいものだ。腕が太いのは力をあらわし、足が太いのは頑健さを示すが、胸の分厚さは「頼りがい」を感じさせる。この「頼りがい」は他人が見て感じるだけでなく、自分にとってもそうなのである。自分が自分に頼りがいを感じる、それが自信というものだろう。

わたしが胸をとんとんと叩くのは、身体の変化を確認し自己満足にひたるというより、不安を鎮めるためのような気がする。自分にはこの大胸筋がある、怖れることはない。そう自分に言い聞かせているような気がする。

実は最近、風邪をひいてしばらく寝込んでしまった。今の風邪はわたしが子供の頃に経験した風邪とは違い、症状の出方が微妙に違うし、なかなか自然治癒しない。数年前にかかった風邪は、熱が収まっても咳だけが残り、しかもそれが数カ月間つづいた。風邪は意外と怖い病気である。

わたしは薬を飲んで横になりながら、ぽんぽんと胸を叩いた。これだけ身体を鍛えているのだから、抵抗力はあるはずだ、心配することはない、と思いながら。

幸いにして寝込んだのは一日だけで、そのあと二日くらいで完全に回復した。今日からはまた普通にトレーニングを開始するつもりでいる。

Monday, December 3, 2018

ブック・クリニック

以前「文学の慰め」ということを書いた。困難な時に陥ったとき、苦しくてつぶれてしまいそうな自分を慰め、力を与えてくれる本が書店や図書館にあるかもしれない。だから藁にもすがりたい想いを抱いている方は、一度そうした場所を訪ねてはどうだろうか、といったことを書いた。書店も図書館も知が集積されている場所だ。自分の中にある混乱を鎮め、整理し、道を示してくれるものがきっとあるはずなのだ。

人生に挫折したとき、あるいは困難にぶつかったとき、こんな本を読んでみてはいかがですかと、本を紹介すること。それを英語ではブック・クリニックなどという。辞書に載るような固定された表現ではないけれど、たまに見かけるし、語感も悪くない。いつものようにガーディアン紙を見ていたら、両親が離婚したときにどんな本を読んだらよいのか、参考になる本が挙げられていた。ホリーさんというイギリスの十七歳の女の子への問いに答える形で記事は書かれている。

Stag's Leap by Sharon Olds
Hideous Kinky by Esther Freud
Eat Pray Love by Elizabeth Gilbert
Madame Doubtfire by Anne Fine
Tha Parent Trap by Erich Kastner
I Capture the Castle by Dodie Smith

挙がっていたのはこんな本である。十七歳ということで新しめの本が多いが、ケストナーのようなモダン・クラシックもまじっている。なかなかいいリストになっていると思う。ただし絶対に読むな、という本も一冊挙げられている。それは

What Masie Knew by Henry James

ううむ。どういうことだ? これは密かに(反面教師的な意味で)、読め、と言っているのかな。

Saturday, December 1, 2018

「ペテン」 Skuldoggery(1967)

タイトルの正しいつづりは skulduggery。しかし本作では犬が重要な役割を果たし、登場人物の一人がしゃれのつもりで skuldoggery という言葉を造った。それがそのままタイトルになっている。

作者のフレッチャー・フローラ(Fletcher Flora)は1914年に生まれ、1968年に亡くなっている。つまり来年彼はパブリック・ドメイン入りすることになっている。アメリカはカンサス州の生まれで、パルプ小説を書いたことで知られている。日本では短編はいくつか紹介されているが、長篇はまだ知られていない。わたしも彼の作品は今回がはじめてなのだが、意外にいいのでびっくりした。

最初にちょっと面白いことを書くと、今の時点で英語のウィキペディアにフレッチャー・フローラの項目はない。ところがフランス語版のウィキペディアには彼の紹介が載っている。これはアメリカとフランスにおける彼の評価の違いをあらわしていると思う。フレッチャー・フローラはフランス人好みの作家なのだ。

どこがフランス人好みなのかというと、まずユーモアがある。オスカー・ワイルド風のひねったものの言い方がすばらしくうまいのだ。第二にノワール風の味わいがある。ノワール風の、なんていうのだろう、大人の雰囲気をただよわせた、渋い作品はフランスでは人気がある。高倉健が主演した日本映画「新幹線大爆破」なんて映画もノワール風の映画だったが、確かあの作品も日本でよりフランスで人気が出たはずである。

ノワールの雰囲気をただよわせたユーモア小説なんて、わたしにはたまらなく興味深いが、今のアメリカ人にはどうも受けないようだ。表現が直截でアクションに充ちていないと彼らの集中力は途切れてしまうらしい。

物語は「祖父」の死から始まる。殺されたのではない。自然死である。巨額の遺産を残したはずなので、その子供たちや孫である相続人たちはにこにこ顔で葬儀に参列する。

ところが遺書が発表された途端、その顔色が変わる。遺産はすべて「祖父」のペットであるチワワに与えられることになっていたのだ。「祖父」の召使い夫婦がチワワの後見人だ。

しかし、もしもチワワが子供も残さず死んだなら、その遺産は相続人たちに分配される。チワワが子供をつくったなら、遺産は小犬たちのために使われる。「祖父」の子供たちや孫たちは、さっそくチワワ殺害をもくろむ。

わたしはこれだけでニヤニヤ笑いが止まらなくなった。遺産目当てに人を殺す話は腐るほどあるが、チワワを無きものにしようとするなんて話ははじめてだ。これは楽しい。こういう話を「馬鹿臭い」という人は、文学の贅沢な味わい方を知らないのである。しかも結末では見事にある「謎」が解明される。パルプらしいチープな謎だが、悪くはない。

登場人物はいずれもエキセントリック。語りも会話もひねりのきいた見事なもので、こんなに愉快な作家をいままで見逃していたとは不覚である。ほかの作品も読んでいちばんできのよいものを訳そうかと思っている。

英語読解のヒント(184)

184. no matter を使った譲歩 基本表現と解説 No matter how trifling the matter may be, don't leave it out. 「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how ...