クリストファー・セント・ジョン・スプリッグは1907年にロンドンに生まれ、七冊のミステリを書き、さらにクリストファー・コードウェルの名前でマルクス主義理論に関する評論をあらわしもした。彼はスペイン内乱の際に国際旅団として従軍し1937年に命をなくした。
わたしは以前「日焼けした顔の死体」という彼の作品を読んだことがある。出来がよいとはいえないが、面白く読めた。最近、彼のミステリが復刊され、ミステリ・ファンのあいだではちょっとした人気を呼んでいるので、わたしももう一冊読んでみることにした。なにしろあの「幻想と現実」の作者である。彼がミステリ作家としてどれくらいの実力だったのか、気になって当然ではないか。
飛行士の養成所でインストラクターの一人が事故死する。単独で飛行していたところ、きりもみ状態になり、そのまま墜落したのだ。彼は計器に頭をぶつけ即死したものと考えられた。
ところがこの養成所で免許を取りに来ていた牧師さんが、死後硬直をおこしていない死体に気づき、死亡時刻に疑問を抱く。調査の結果、彼は頭を銃で撃たれて死んだことが判明する。
このあとは二人の刑事がイギリスとフランスで調査を進め、飛行士の死の背後には国際的な麻薬組織が存在することをつきとめる。どうやら飛行士はこの組織の秘密を握り、脅しをかけながら金を手に入れようとしたらしい。それが逆に殺されてしまったのだ。
話はこんな具合に展開するのだが、エンターテイメントとしては上々の出来というのがわたしの感想である。死体と死後硬直の謎は読者を惹きつけてはなさないだけの魅力がある。それでいて充分な手がかりが与えられているから、じっくり考えれば読者は物語よりも早く真相にたどり着くことができる。そういう書き方も爽快感を与えていい。
もう一つの謎は麻薬組織の大ボスは誰かという点だが、これがわかる人はなかなかいないのではないか。偽の手がかりがふんだんにばらまかれているため、わたしもこれはわからなかった。しかし、ミステリに関していえば、「してやられた!」「うまくだまされた」という感を強くするとき、それはよい作品に出会えたことを意味するだろう。
本書は「日焼けした顔の死体」よりはるかにすぐれた作品である。イギリスのミステリ黄金期を支えた一作としてもっと知られてもいいだろう。ついでにいうと、この作者は This My Hand という犯罪者の心理を描いた小説も書いている。リンダ・カッツとビル・カッツが著した Writer's Choice によるとこれは隠れた名作らしい。早くどこかから再刊されないものか。
Friday, January 11, 2019
Wednesday, January 9, 2019
ハリウッド女優と日本語
ハリウッドの俳優で日本語が話せるのはスティーブン・セガールだけではない。「レベッカ」のジョーン・フォンテーン、「女相続人」のオリヴィア・ド・ハヴィランド、この二人の姉妹も上手だった。
アメリカにいたときたまたまジョーン・フォンテーンの自伝 No Bed of Roses を読み、知ったことである。この本は今 Internet Archive で読むことができる。
とくにジョーン・フォンテーンは高校時代を日本で過ごしていたから日本語がよくできた。彼女がアメリカに帰って最初にした女優活動は、確かラジオドラマへの出演だったと思う。主役の女の子が日系アメリカ人で日本語と英語の両方ができる必要があったのだが、ジョーンはこれは自分にうってつけの役だと思い応募したのだそうだ。
オリヴィアとジョーンのハリウッドでの活躍と確執はわたしが語るまでもないだろう。いずれもアカデミー賞を二回取った名女優なのだが、姉のオリヴィアはジョーンを毛嫌いし、アカデミー賞を受賞した姉を祝福しようとした妹から氷のように冷たくつんと顔を背けた写真はあまりにも有名である。
オリヴィアは高校時代から演劇・映画で活躍し、一家の稼ぎ頭だったのだ。(また演技力も当時の女優の中では一番だったと思う。ただしそれは舞台用の古いタイプの演技であって、新しいタイプの演技が求められるようになった三十年代、四十年代に入ると彼女は人気を失った)
ところがアカデミー賞の受賞も結婚も子供ができるのも妹に先を越され、彼女は面目を潰されたとかんかんだったのである。
しかし後年、ジョーンが健康を損ない、また夫の仲がうまくいかなくなったとき、オリヴィアが彼女の看護役として付き添ったことがある。ちょうどオリヴィアも夫婦関係に問題を抱えていたので、妹に同情したのだろう。
そのときだった。
オリヴィアはジョーンをベッドに寝かしつけると、そばに寄り添い日本語で歌をうたいはじめたのだ。それは彼らが幼少の頃、日本人の乳母に聞かされた、なつかしい日本語の歌だった。「ねんねん ころりよ おころりよ」五木の子守歌である。
Internet Archive に載っている No Bed of Roses ではきちんとしたローマ字に表記になっているが、わたしが読んだ版ではたしか「ねんねん」が Ning Ning をあらわされていたような気がする。それで何の歌だろうとしばらく頭をひねった思い出があるのだ。
アメリカの友人にこの二人の大女優と日本語の関係を示す逸話を話すと、「すごいトリヴィアだね」と感心していた。
アメリカにいたときたまたまジョーン・フォンテーンの自伝 No Bed of Roses を読み、知ったことである。この本は今 Internet Archive で読むことができる。
とくにジョーン・フォンテーンは高校時代を日本で過ごしていたから日本語がよくできた。彼女がアメリカに帰って最初にした女優活動は、確かラジオドラマへの出演だったと思う。主役の女の子が日系アメリカ人で日本語と英語の両方ができる必要があったのだが、ジョーンはこれは自分にうってつけの役だと思い応募したのだそうだ。
オリヴィアとジョーンのハリウッドでの活躍と確執はわたしが語るまでもないだろう。いずれもアカデミー賞を二回取った名女優なのだが、姉のオリヴィアはジョーンを毛嫌いし、アカデミー賞を受賞した姉を祝福しようとした妹から氷のように冷たくつんと顔を背けた写真はあまりにも有名である。
オリヴィアは高校時代から演劇・映画で活躍し、一家の稼ぎ頭だったのだ。(また演技力も当時の女優の中では一番だったと思う。ただしそれは舞台用の古いタイプの演技であって、新しいタイプの演技が求められるようになった三十年代、四十年代に入ると彼女は人気を失った)
ところがアカデミー賞の受賞も結婚も子供ができるのも妹に先を越され、彼女は面目を潰されたとかんかんだったのである。
しかし後年、ジョーンが健康を損ない、また夫の仲がうまくいかなくなったとき、オリヴィアが彼女の看護役として付き添ったことがある。ちょうどオリヴィアも夫婦関係に問題を抱えていたので、妹に同情したのだろう。
そのときだった。
オリヴィアはジョーンをベッドに寝かしつけると、そばに寄り添い日本語で歌をうたいはじめたのだ。それは彼らが幼少の頃、日本人の乳母に聞かされた、なつかしい日本語の歌だった。「ねんねん ころりよ おころりよ」五木の子守歌である。
Internet Archive に載っている No Bed of Roses ではきちんとしたローマ字に表記になっているが、わたしが読んだ版ではたしか「ねんねん」が Ning Ning をあらわされていたような気がする。それで何の歌だろうとしばらく頭をひねった思い出があるのだ。
アメリカの友人にこの二人の大女優と日本語の関係を示す逸話を話すと、「すごいトリヴィアだね」と感心していた。
Monday, January 7, 2019
「意外な物語」
ガーディアン紙に Tales of the unexpected: 10 literary classics you may not have read という記事が出ていた。驚くような話、しかもあなたが読んだことがないであろう古典文学、わたしにとってはまさしく興味津々のリストである。
以下の十作品が挙げられていた。
Petronius, The Satyricon, cAD64
Lady Sarashina, As I Crossed a Bridge of Dreams, 11th century
Sivadasa, The Five-and-Twenty Tales of the Genie, c13th century
Marguerite de Navarre, The Heptameron, 1558
Margaret Cavendish, The Blazing World, 1666
Jan Potocki, The Manuscript Found in Saragossa, 1805-15
ETA Hoffmann, The Life and Opinions of the Tomcat Murr, 1820-2
Comte de Lautreamont, Maldoror, 1868
Emilia Pardo Bazan, The House of Ulloa, 1886
MP Shiel, The Purple Cloud, 1901
「サティリコン」はわたしも素晴らしい作品だと思う。映画にもなっていたが、あれを見てから原作を読むとイメージが膨らみやすいかもしれない。「更級日記」が二つ目に挙げられているのは日本人としてうれしいし、この記事の書き手ヘンリー・エリオットの読書の幅広さに驚かされる。あの異様な情念は確かに世界的に見ても類例を見ないと思う。堀辰雄が「更級日記」の現代語バージョンを書いていて、これも悪くない。実を言うと、わたしは「菜穂子」なんかよりそっちのほうが印象に残っている。
ホフマンの小説は「牡猫ムルの人生観」というやつだが、もう内容はすっかり忘れた。「砂男」はいろいろな本で言及されているので、そのたびに思いだし記憶に残っているが、「ムル」のほうはまるで覚えていない。しかし覚えていない作品のほうが無意識に沈殿していて、いつのまにか意識に大きな影響を与えていることがある。「マルドロールの歌」も大学時代に読んだ。記事の脇にペンギン・クラシックスの表紙が出ていて、いまでもあの図柄を使っているのかとなつかしかった。怪奇をうたった作品ではあるが、あまりわたしの好みではない。ロマンチックな想像力から生まれた怪奇にはさほど惹かれないのだ。それよりも明晰な理性から生まれたポーのような怪奇のほうが面白い。
最後のシールの作品「紫色の雲」は訳そうかどうか迷っている。彼の Children of the Wind という作品もなかなかの出来だし、プリンス・ザレスキー以外にもすぐれた作品を書いていることはもっと知られるべきだと思う。「紫色の雲」は語り手が北極を探検している間に紫色の雲が世界を覆い、人がいなくなってしまうという話である。語り手は誰もいない各地域を彷徨い歩くのだが、これが案外読み手をわくわくさせるのだ。
以上を除いた残りの五冊はまだ読んでいない。できたら年末にでも目を通したいと思っていたが、次に翻訳する本の関係で今は第二次世界大戦を描いた作品を大量に読みあさっており暇がなかった。残念。
以下の十作品が挙げられていた。
Petronius, The Satyricon, cAD64
Lady Sarashina, As I Crossed a Bridge of Dreams, 11th century
Sivadasa, The Five-and-Twenty Tales of the Genie, c13th century
Marguerite de Navarre, The Heptameron, 1558
Margaret Cavendish, The Blazing World, 1666
Jan Potocki, The Manuscript Found in Saragossa, 1805-15
ETA Hoffmann, The Life and Opinions of the Tomcat Murr, 1820-2
Comte de Lautreamont, Maldoror, 1868
Emilia Pardo Bazan, The House of Ulloa, 1886
MP Shiel, The Purple Cloud, 1901
「サティリコン」はわたしも素晴らしい作品だと思う。映画にもなっていたが、あれを見てから原作を読むとイメージが膨らみやすいかもしれない。「更級日記」が二つ目に挙げられているのは日本人としてうれしいし、この記事の書き手ヘンリー・エリオットの読書の幅広さに驚かされる。あの異様な情念は確かに世界的に見ても類例を見ないと思う。堀辰雄が「更級日記」の現代語バージョンを書いていて、これも悪くない。実を言うと、わたしは「菜穂子」なんかよりそっちのほうが印象に残っている。
ホフマンの小説は「牡猫ムルの人生観」というやつだが、もう内容はすっかり忘れた。「砂男」はいろいろな本で言及されているので、そのたびに思いだし記憶に残っているが、「ムル」のほうはまるで覚えていない。しかし覚えていない作品のほうが無意識に沈殿していて、いつのまにか意識に大きな影響を与えていることがある。「マルドロールの歌」も大学時代に読んだ。記事の脇にペンギン・クラシックスの表紙が出ていて、いまでもあの図柄を使っているのかとなつかしかった。怪奇をうたった作品ではあるが、あまりわたしの好みではない。ロマンチックな想像力から生まれた怪奇にはさほど惹かれないのだ。それよりも明晰な理性から生まれたポーのような怪奇のほうが面白い。
最後のシールの作品「紫色の雲」は訳そうかどうか迷っている。彼の Children of the Wind という作品もなかなかの出来だし、プリンス・ザレスキー以外にもすぐれた作品を書いていることはもっと知られるべきだと思う。「紫色の雲」は語り手が北極を探検している間に紫色の雲が世界を覆い、人がいなくなってしまうという話である。語り手は誰もいない各地域を彷徨い歩くのだが、これが案外読み手をわくわくさせるのだ。
以上を除いた残りの五冊はまだ読んでいない。できたら年末にでも目を通したいと思っていたが、次に翻訳する本の関係で今は第二次世界大戦を描いた作品を大量に読みあさっており暇がなかった。残念。
Saturday, January 5, 2019
石川修司の全日入団
石川修司が全日本プロレスの所属選手となった。一月二日の晩に全日のホームページを調べたら、所属選手一覧の中に石川修司がちゃんと入っていた。その下の「主な参戦選手」にも石川修司の名前と写真が出ていたのはご愛敬。若手も増えたし、だいぶにぎやかになってきた。
全日のいいところはフリーの選手や他団体の選手を積極的に自分たちのリングに招くことだ。主力選手達も外部の選手とチームを組んでうまくやっている。先のチャンピオン・カーニバルで秋山は関本と組んだし、宮原はヨシタツと、諏訪魔は石川とタッグチームを組んでいる。どの組み合わせも独特のカラーを創り出していて面白い。
また大きな大会になると、火野や崔、真霜や KAI といった在野の強豪を招くから、一種独特の凄みが出る。去年のチャンピオン・カーニバルで大型外人二人を呼んだのも大成功だったと思う。
国内だけでなく国外にも開かれたリング、それが全日の魅力である。そういう交流が所属選手を増やし、全日を大きくしつつある。石川は日本で最強のレスラーの一人だ。所属選手になったことを機にさらに大きく飛躍してもらいたい。
全日のいいところはフリーの選手や他団体の選手を積極的に自分たちのリングに招くことだ。主力選手達も外部の選手とチームを組んでうまくやっている。先のチャンピオン・カーニバルで秋山は関本と組んだし、宮原はヨシタツと、諏訪魔は石川とタッグチームを組んでいる。どの組み合わせも独特のカラーを創り出していて面白い。
また大きな大会になると、火野や崔、真霜や KAI といった在野の強豪を招くから、一種独特の凄みが出る。去年のチャンピオン・カーニバルで大型外人二人を呼んだのも大成功だったと思う。
国内だけでなく国外にも開かれたリング、それが全日の魅力である。そういう交流が所属選手を増やし、全日を大きくしつつある。石川は日本で最強のレスラーの一人だ。所属選手になったことを機にさらに大きく飛躍してもらいたい。
Thursday, January 3, 2019
精神分析の今を知るために(1)
今哲学の世界でもっとも強力な議論を展開しているのはラカン派と言われる人々である。その内容をまとめることは、わたしにはとてもできないけれど、わりとわかりやすい断片的言説をこのブログで紹介してみてはどうだろうと思いついた。たくさんの断片を提示するうちに、もしかしたら読者の頭の中で点が線をつくり、線が面に広がるかもしれない。
わたしが今読んでいるアレンカ・ズパンチッチの「性とはなにか」からまず引用していく。
ひとつ注意して欲しいが、わたしはこの本のエッセンスを示すために引用するのではない。ラカン派の考え方がわかりやすく表出されている部分を抜き出すだけである。
==========
ルイ・アルチュセールがそのすばらしいエッセイ「マルクスとフロイトについて」で議論しているように、マルクス主義と精神分析に共通している点、それはおのおのが理論化しようとしている「対立」の「まっただ中」にそれらが位置していることである。マルクス主義も精神分析も、それら自身が、それらが対立的で相反していると認識する現実の一部なのである。そのような場合、科学的客観性は中立な立場となり得ない。それは存在する対立、あるいは現実にある搾取を覆い隠すものでしかないのだ。どのような社会的対立においても、「中立的」な立場はいつも、必然的に、支配階級の立場である。それが「中立的」と見えるのは、それがすでに支配的イデオロギーとなっていて、常に自明性を帯びて見えるからである。このような場合、客観性の範疇は中立ではなく、理論がその状況内においてどれだけ特殊な、個別的立場を取りうるかという、その能力である。この意味で客観性は「偏ること」「党派性を持ちうること」と結びついている。アルチュセールはこう言っている。対立的な現実をあつかう場合(マルクス主義も精神分析も対立的現実を扱う)、人はあらゆる場所に立ってあらゆるものを見るわけにはいかない。ある立場はこの対立を覆い隠し、ある立場は対立を剥き出しにする。対立的現実の本質をつかもうとするなら、まさにこの対立の中にある、ある特定の立場に立たなければならない。(前文より)
わたしが今読んでいるアレンカ・ズパンチッチの「性とはなにか」からまず引用していく。
ひとつ注意して欲しいが、わたしはこの本のエッセンスを示すために引用するのではない。ラカン派の考え方がわかりやすく表出されている部分を抜き出すだけである。
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ルイ・アルチュセールがそのすばらしいエッセイ「マルクスとフロイトについて」で議論しているように、マルクス主義と精神分析に共通している点、それはおのおのが理論化しようとしている「対立」の「まっただ中」にそれらが位置していることである。マルクス主義も精神分析も、それら自身が、それらが対立的で相反していると認識する現実の一部なのである。そのような場合、科学的客観性は中立な立場となり得ない。それは存在する対立、あるいは現実にある搾取を覆い隠すものでしかないのだ。どのような社会的対立においても、「中立的」な立場はいつも、必然的に、支配階級の立場である。それが「中立的」と見えるのは、それがすでに支配的イデオロギーとなっていて、常に自明性を帯びて見えるからである。このような場合、客観性の範疇は中立ではなく、理論がその状況内においてどれだけ特殊な、個別的立場を取りうるかという、その能力である。この意味で客観性は「偏ること」「党派性を持ちうること」と結びついている。アルチュセールはこう言っている。対立的な現実をあつかう場合(マルクス主義も精神分析も対立的現実を扱う)、人はあらゆる場所に立ってあらゆるものを見るわけにはいかない。ある立場はこの対立を覆い隠し、ある立場は対立を剥き出しにする。対立的現実の本質をつかもうとするなら、まさにこの対立の中にある、ある特定の立場に立たなければならない。(前文より)
Wednesday, January 2, 2019
主体という概念
ラカンがいう主体の概念をわかりやすく説明するとこうなる。
われわれは社会の中で複雑な関係を維持しながら生きている。たとえば、わたしは翻訳家であり、子供の父であり、妻の夫であり、とある大学の卒業生であり、その大学のとあるクラブのOBであり、国民健康保険に入っており、銀行にお金を預けており、各種の商業的契約を結んでおり、……。こうした社会的関係の束としてわたしはある。
では、「わたし」からこの社会的関係の束をすこしずつなくしていってみよう。タマネギの皮をむくようなものだ。すると最後になにが残るだろうか。なにも残らない? いや、ラカンは「なにか」が残ると考える。
それは関係として表現しえない「なにか」だ。それは社会に属していない。なぜなら社会的関係を一切持たないから。
これがラカンのいう「主体」である。
われわれは普通、主体を関係の束としてイメージしている。しかしラカンはそのまったく逆を「主体」と呼んでいるのだ。
この「主体」は社会的関係の中に入ることで消去される。社会的関係が「主体」にアイデンティティーを与えることになるのだ。
しかし「主体」に留まろうとするケースもある。それがヒステリックである。つまり「あなたはわたしがしかじかなる社会的関係の項であるという。しかしそれはなぜなのか」と問う人は社会体制に対してヒステリックに反応している。しかし知識人の立場というのはこのヒステリックな立場、「主体」の立場にほかならない。そこに立ってこそ社会を批判することができる。人種差別やLGBTの問題に関わる人々も同様の立場に立っている。
逆にいまある社会体制によって規定される自分の立場に満足し、べったりとそこから動こうとしない人をラカンは pervert 「倒錯者」と呼んだ。
われわれは社会の中で複雑な関係を維持しながら生きている。たとえば、わたしは翻訳家であり、子供の父であり、妻の夫であり、とある大学の卒業生であり、その大学のとあるクラブのOBであり、国民健康保険に入っており、銀行にお金を預けており、各種の商業的契約を結んでおり、……。こうした社会的関係の束としてわたしはある。
では、「わたし」からこの社会的関係の束をすこしずつなくしていってみよう。タマネギの皮をむくようなものだ。すると最後になにが残るだろうか。なにも残らない? いや、ラカンは「なにか」が残ると考える。
それは関係として表現しえない「なにか」だ。それは社会に属していない。なぜなら社会的関係を一切持たないから。
これがラカンのいう「主体」である。
われわれは普通、主体を関係の束としてイメージしている。しかしラカンはそのまったく逆を「主体」と呼んでいるのだ。
この「主体」は社会的関係の中に入ることで消去される。社会的関係が「主体」にアイデンティティーを与えることになるのだ。
しかし「主体」に留まろうとするケースもある。それがヒステリックである。つまり「あなたはわたしがしかじかなる社会的関係の項であるという。しかしそれはなぜなのか」と問う人は社会体制に対してヒステリックに反応している。しかし知識人の立場というのはこのヒステリックな立場、「主体」の立場にほかならない。そこに立ってこそ社会を批判することができる。人種差別やLGBTの問題に関わる人々も同様の立場に立っている。
逆にいまある社会体制によって規定される自分の立場に満足し、べったりとそこから動こうとしない人をラカンは pervert 「倒錯者」と呼んだ。
Tuesday, January 1, 2019
TAJIRI 対 力
YOUTUBE に GAORA TV チャンピオンシップをかけた TAJIRI と力選手の試合が出ていたので、見てみた。わたしはプロレスの試合は実況アナウンサーの声が嫌いで(単にうるさいという理由であって、個人的に声の質が嫌いとか言葉遣いが厭ということではない)いつも音声を消して見る。だから力選手のことは全日本のツイッターでささやかれていたこと以外はなにも知らない。
動きを見る限り、力選手はまだ新人の部類のようだ。チョップを打つとき、腰が入っていないため、ペチと音を立てそうな弱々しい打撃になってしまっている。動きもまだぎこちなく、怪我をしないか心配になった。
面白かったのは TAJIRI が場外で鉄柱を背にして立っているところへ、助走をつけてチョップを打ちにいったところ。一度失敗し、手を鉄柱に打ち付けたのだが、そのあと TAJIRI がもう一度鉄柱を背に立ったところ、力選手はまたもや助走をつけてチョップを打ちにいき、見事に鉄柱をたたいてしまった。こういうところがレスラーらしくて楽しい。いや、頭が悪いというのではない。奇妙な意地みたいなものがあって、それが合理性を無視した行動に走らせるのである。力選手はチョップに異常なこだわりがあるのだろう。たしか彼は空手チョップで有名な力道山の子孫だそうだ。
TAJIRI 選手は新人を相手に魅せる試合をしようといろいろ工夫を凝らしていた。ここが TAJIRI 選手のいいところだ。笑いを取ったり、相手の得意技を引き出したり、巧妙に場を盛り上げる試合の仕方を知っている。最後は「チョップを打つならもっと腕を鍛えろ」といわんばかりに肘関節をきめて王座防衛。フリーの選手だが、いまでは全日本になくてはならない一人である。
動きを見る限り、力選手はまだ新人の部類のようだ。チョップを打つとき、腰が入っていないため、ペチと音を立てそうな弱々しい打撃になってしまっている。動きもまだぎこちなく、怪我をしないか心配になった。
面白かったのは TAJIRI が場外で鉄柱を背にして立っているところへ、助走をつけてチョップを打ちにいったところ。一度失敗し、手を鉄柱に打ち付けたのだが、そのあと TAJIRI がもう一度鉄柱を背に立ったところ、力選手はまたもや助走をつけてチョップを打ちにいき、見事に鉄柱をたたいてしまった。こういうところがレスラーらしくて楽しい。いや、頭が悪いというのではない。奇妙な意地みたいなものがあって、それが合理性を無視した行動に走らせるのである。力選手はチョップに異常なこだわりがあるのだろう。たしか彼は空手チョップで有名な力道山の子孫だそうだ。
TAJIRI 選手は新人を相手に魅せる試合をしようといろいろ工夫を凝らしていた。ここが TAJIRI 選手のいいところだ。笑いを取ったり、相手の得意技を引き出したり、巧妙に場を盛り上げる試合の仕方を知っている。最後は「チョップを打つならもっと腕を鍛えろ」といわんばかりに肘関節をきめて王座防衛。フリーの選手だが、いまでは全日本になくてはならない一人である。
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英語読解のヒント(184)
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