ビー・ウィルソン(Bee Wison)という人がガーディアンに現代の食物事情に関してやや長めの記事を出していた。彼は最近 The Way We Eat Now 本を出したばかりで、その要旨をざっとまとめたような内容である。(Good enough to eat? The toxic truth about modern food)
記事はまず葡萄の話からはじまる。われわれは今われわれが食べている葡萄も、よく絵画で見かける葡萄もおなじものだと思っているけれど、じつは両者の懸隔は大きい。第一に、今の葡萄はほとんどが種がない。第二に今の葡萄はやたらと甘い。第三に今の葡萄は季節の別なく手に入る。
栄養面で違いがあるのかというと、現代人の嗜好に合わせて造られた葡萄には、植物性栄養素(phytonutrients)というものが少ないのだそうである。
人々の生活が豊かになっても、食べ物の栄養の豊かさは減少している。
ここがビー・ウィルソンが指摘する問題点の一つだ。
考えて見ると林檎だって、昔とはずいぶん変わった。昔の林檎は猛烈にすっぱいものが多かった。青林檎と聞くと口もとに皺がよるくらいすっぱかったものだ。甘い林檎は高級種だったのだが、それがいつの間にかすべての林檎が甘くなった。
なぜこんなに甘くなったのかというと、やっぱりそのほうが売れるからだろう。品種改良の結果栄養がどうなろうが、売れたほうが勝ちという考え方があるのだろう。するとビー・ウィルソンの指摘する問題の根底には、資本主義体制への批判があると考えられる。
実際彼はこんなことを書いている。2015年、たばこの影響で命をなくした人は約七百万人、アルコールの影響で命をなくした人は二百七十五万人、野菜や木の実やシーフードの欠如、あるいは加工肉や砂糖の多い飲料を取りすぎて命をなくした人は一千二百万人いる。
ところが現代においてはジャンク・フードを売って儲けている企業にたいしてよりも、ジャンク・フードを食べる人間が批判される。ある調査によると、世界の政治家の90%は、肥満の原因は意志の弱さにあると考えているらしい。
しかしビー・ウィルソンが言うように、1960年以降急にわれわれの意志が弱くなったとは思えない。変化したのは市場のほう、カロリーばかり高くて栄養価の少ない食品を大量に出回らせた市場のほうだろう。
この記事には中国の食事情についても言及がある。わたしも中国に数年間住んでいたので興味深く読んだ。
中国人がスナックを食べるようになったのは2004年だそうだ。それ以前は食事と食事のあいだに食べる物といったらお茶か白湯だった。ところが収入が増加しはじめるとスナックを食べる習慣が定着し、現在ではロンドンの人々と同じようなものを、たとえば、スターバックスなどで食べているという。
わたしがいたのは寧波の田舎町で、家のまわりには畑が広がっていたけれど、農民たちはスナックがわりに向日葵の種や、サトウキビをかじって栄養を補給していた。お茶か白湯だけ、ということはなかった。しかし男も女も脂肪の少ない、ひきしまった身体をしていて、いわゆるデブに出会うことは一度もなかった。
ところが上海に行くと、事情はまったく異なった。あそこは2000年頃、猛烈な発展途上にあり、人々の収入も多かった。そして子供たちは洋風のスナックを食べていた。その結果、彼らの身体はぱんぱんに張り切り、あちこちで肥満児を、あきらかに病的な肥満児を見かけたものだ。
今は、2000年当時には沿岸地域のみにあった富裕さが、内陸にも波及していったということだろうか。そして経済的に豊かになったが、栄養的には貧しくなったということだろうか。中国のような環境では、先進国では数十年かかって進行したことが、数年で起きてしまうことがある。
記事の末尾のほうにはこんなことが書いてある。第二次大戦の配給制度が終わって以後、農業は人々に充分な食料を供給することに専念してきたが、最近は量ではなく質に対する認識が高まってきているという。とくにイギリスにおいては、Brexit とのからみでこれが大きな問題として浮上してきている。
アムステルダムでは子供の肥満を防ぐためにドラスチックな手段を取り、2012年から三年間で肥満を12%減らすことに成功したそうだ。子供たちにジャンク・フードを食べさせないという方針を徹底してつらぬいたのである。誕生日にすら甘い物を食べることを禁じたらしい。
こんなことをしたら、一般の人からも批判が噴出し、企業から抗議の声があがるだろう。しかしビー・ウィルソンは健康的な食のためにも変革が必要だと訴える。たしかに1960年以後の三十年間で食が変化したのであれば、おなじように三十年で健康的な食への変革が可能でないとは言えない。
Thursday, August 15, 2019
Tuesday, August 13, 2019
精神分析の今を知るために(7)
ヒステリーの問いとは、「なぜ私はあなたが私がそうであるといっているものなのか」である。つまり、主人によって私に押しつけられた象徴的同一性を私は問うのである。私は「私の中の私自身以上」のもの、小文字の対象aの名において抵抗する。ここにラカンの反アルチュセール的な要素の根本がある。$としての主体は、呼びかけ、イデオロギー的な召喚における再認の結果〔効果〕ではない。それ〔主体〕はむしろ、呼びかけによって私に与えられた同一性を疑問に付す身振りそのものを表しているのである。
(スラヴォイ・ジジェク「否定的なもののもとへの滞留」田崎秀明訳から)
(スラヴォイ・ジジェク「否定的なもののもとへの滞留」田崎秀明訳から)
Saturday, August 10, 2019
COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS
早稲田大學敎授 深澤裕次郎著
應用英文解釋法
東京英文週報社發行
(p. 50-51)
範例
In another five minutes they swam across the river.
もう五分のうちに彼等は河を橫ぎつて泳いだ。
解説
上文の如く Singular Noun に冠す可き another を five minutes の如き Plural Noun に附したるは five minutes を以て一個の Noun of Multitude の如く見たるが故なり。
用例
1. In another five minutes I was there.
H. R. Haggard
もう、五分して私は其處に達した。
2. In another two minutes we were all three sucking the pulppy fruit.
H. R. Haggard
もう、二分の中に我々三人は皆其柔かい果實を吸うて居た。
3. I reflected that in another two seconds it would have fallen on me.
H. R. Haggard
もう、二秒たつたらそれは私の上に倒れたで有らうと考へた。
4. In another few seconds my shelter world be torn away, and I should be done for.
H. R. Haggard
もう二三秒の中に私の隱れ家は引きむしられ、而て私はやられて了ふで有らう。
5. My mother and sister had spoken so many last words, and had begged me to wait another five minutes so many times, that it was nearly midnight when the servant locked the gardengate behind me.
W. Collins
母と妹は別れに臨んで色々の事を云ひ、もう五分もう五分と何遍となく引き留めたので下女が私の出たあとを閉めた時には夜半頃であつた。
應用英文解釋法
東京英文週報社發行
(p. 50-51)
範例
In another five minutes they swam across the river.
もう五分のうちに彼等は河を橫ぎつて泳いだ。
解説
上文の如く Singular Noun に冠す可き another を five minutes の如き Plural Noun に附したるは five minutes を以て一個の Noun of Multitude の如く見たるが故なり。
用例
1. In another five minutes I was there.
H. R. Haggard
もう、五分して私は其處に達した。
2. In another two minutes we were all three sucking the pulppy fruit.
H. R. Haggard
もう、二分の中に我々三人は皆其柔かい果實を吸うて居た。
3. I reflected that in another two seconds it would have fallen on me.
H. R. Haggard
もう、二秒たつたらそれは私の上に倒れたで有らうと考へた。
4. In another few seconds my shelter world be torn away, and I should be done for.
H. R. Haggard
もう二三秒の中に私の隱れ家は引きむしられ、而て私はやられて了ふで有らう。
5. My mother and sister had spoken so many last words, and had begged me to wait another five minutes so many times, that it was nearly midnight when the servant locked the gardengate behind me.
W. Collins
母と妹は別れに臨んで色々の事を云ひ、もう五分もう五分と何遍となく引き留めたので下女が私の出たあとを閉めた時には夜半頃であつた。
Wednesday, August 7, 2019
コンピュータと翻訳
首藤瓜於という人が「脳男」という作品を書いている。このタイトルは「電脳男」とでもしたほうがわかりやすい。自分では何もせず、他人から命令を与えられてはじめて動くという人間が主人公である。まるでコマンドを打ち込まれてはじめて仕事をするコンピュータみたいなものだ。それがあるとき自律的に行動することをおぼえ、凶悪犯を殺害していくのである。
コンピュータが進化していつか意識を持つようになるのではないか、などと考える人がいるが、そうした一般的想像力に依拠した、他愛のない物語である。
コンピュータが人間から職を奪うと言われ、実際に会計士とかは被害にあっているようだが、こういう単純作業はできても翻訳のような作業はコンピュータには無理である。スラヴォイ・ジジェクがこんなことを言っていた。砂糖・ミルク抜きのコーヒーとブラックコーヒーは、実体としては同じものであるにもかかわらず、人間はちがうものとして認識することがある。たとえばこんなジョークがある。ある客がカフェで「砂糖抜きのコーヒーをくれ」と言う。それに対してウエイターは「旦那、うちに砂糖はないんだ。ミルクはあるから、ミルクなしのコーヒーならできますぜ」問題はコンピュータにこうした違いがわかるかということである。ジジェクは何人もの専門家に聞いたが、曖昧な返答しか帰ってこなかったと言う。
翻訳に於いてはこのような「差」をきちんと表出できるかどうかが大切なのだ。わたしは作品を読み込んでそのテーマについて考える。そしてわたしが見出した解釈にそって訳文を決定していく。どういう名詞を使い、形容詞を使うか、それはわたしの作品にたいする解釈次第で変わってくるのである。そのような行為がコンピュータにできるとはとても考えられない。
ちなみにわたしが翻訳書の後書きで積極的に作品の解釈について語るのは、その本を訳す際の方針となった考え方を明示するためである。
コンピュータが進化していつか意識を持つようになるのではないか、などと考える人がいるが、そうした一般的想像力に依拠した、他愛のない物語である。
コンピュータが人間から職を奪うと言われ、実際に会計士とかは被害にあっているようだが、こういう単純作業はできても翻訳のような作業はコンピュータには無理である。スラヴォイ・ジジェクがこんなことを言っていた。砂糖・ミルク抜きのコーヒーとブラックコーヒーは、実体としては同じものであるにもかかわらず、人間はちがうものとして認識することがある。たとえばこんなジョークがある。ある客がカフェで「砂糖抜きのコーヒーをくれ」と言う。それに対してウエイターは「旦那、うちに砂糖はないんだ。ミルクはあるから、ミルクなしのコーヒーならできますぜ」問題はコンピュータにこうした違いがわかるかということである。ジジェクは何人もの専門家に聞いたが、曖昧な返答しか帰ってこなかったと言う。
翻訳に於いてはこのような「差」をきちんと表出できるかどうかが大切なのだ。わたしは作品を読み込んでそのテーマについて考える。そしてわたしが見出した解釈にそって訳文を決定していく。どういう名詞を使い、形容詞を使うか、それはわたしの作品にたいする解釈次第で変わってくるのである。そのような行為がコンピュータにできるとはとても考えられない。
ちなみにわたしが翻訳書の後書きで積極的に作品の解釈について語るのは、その本を訳す際の方針となった考え方を明示するためである。
Tuesday, August 6, 2019
読書のためのノイズキャンセリング
ソニーのノイズキャンセリング機能がついたヘッドフォンを愛用している。ノイズキャンセリングというのは、まあ、外界の音を遮断する機能といっていい。わたしが使っている製品のこの機能はおそろしく強力だ。部屋の中でヘッドフォンをつけると、完全な静寂が訪れる。そのせいで音楽を聴くときなど、音量を絞らないと耳を傷めるくらいである。安いヘッドフォンだとどうしても外界の音を拾ってしまい、その分、音量が大きくなるようだ。
今日はわたしの窓の正面に見える公園で、盆踊り大会が行われているのだが、いつもの年なら大きなレコード音楽に閉口するわたしも、今日は全く苦にならない。ノイズキャンセリングを使うと太鼓の音が遠くでかすかになっているくらいにしか聞こえないのである。さらに音楽とか、自然音とかを流せば、外界の音は完全に消える。
人ごみの中でこのヘッドフォンを使うとどうかというと、低い声や、ざわめきは聞こえないが、どうやら甲高い音や声は完全にはシャットアウトできないようだ。女性のアナウンスの声とか、子供たちの嬌声は聞こえてくる。しかし大人が普通に話しているときの声などはカットしてくれる。音楽を流せば、たぶん、外界の音はほとんどわからなくなるだろう。
わたしがこの高いヘッドフォンを買ったのは、翻訳の作業や読書をするとき、余計な外部の音を遮断し、集中したかったからである。その目的には十分こたえる製品で、満足度は非常に高い。眼鏡をかけているせいで装着したとき違和感があるのではないかと思ったが、柔らかいパッドを使用ていて数時間かけていても気にならない。もっとも今は夏なので、ヘッドフォンは耳がむれるような気がするが、これは仕方がない。
今日はわたしの窓の正面に見える公園で、盆踊り大会が行われているのだが、いつもの年なら大きなレコード音楽に閉口するわたしも、今日は全く苦にならない。ノイズキャンセリングを使うと太鼓の音が遠くでかすかになっているくらいにしか聞こえないのである。さらに音楽とか、自然音とかを流せば、外界の音は完全に消える。
人ごみの中でこのヘッドフォンを使うとどうかというと、低い声や、ざわめきは聞こえないが、どうやら甲高い音や声は完全にはシャットアウトできないようだ。女性のアナウンスの声とか、子供たちの嬌声は聞こえてくる。しかし大人が普通に話しているときの声などはカットしてくれる。音楽を流せば、たぶん、外界の音はほとんどわからなくなるだろう。
わたしがこの高いヘッドフォンを買ったのは、翻訳の作業や読書をするとき、余計な外部の音を遮断し、集中したかったからである。その目的には十分こたえる製品で、満足度は非常に高い。眼鏡をかけているせいで装着したとき違和感があるのではないかと思ったが、柔らかいパッドを使用ていて数時間かけていても気にならない。もっとも今は夏なので、ヘッドフォンは耳がむれるような気がするが、これは仕方がない。
Sunday, August 4, 2019
「プライオリー邸」ドロシー・フイップル作
今年読んだ本の中では出色の出来だった。ドロシー・フイップルはジェイン・オースティンの直系の作家で、上流階級の恋愛や結婚をめぐるゴシップ性の強い物語を書かせたら、右に出る者は……そうはいないと思う。
本作はプライオリー邸に住む貴族一家の没落の過程を描いている。やもめの主人が結婚し、娘二人が嫁ぎ、使用人たちがトラブルを起こし……と、じつにさまざまな人々の人生模様が巧みに語られる。五百ページを超える大作だが、わかりやすくて心地のいい語り口に身を任せると、あっという間に半分近くも読んでしまう。
とりわけ感心するのは、登場人物がそれぞれ粒だった性格を持っていることだ。プライオリー邸の主は金銭感覚のないクリケット狂いで、いかにも没落貴族の中にはこんな人がいそうな気がする。彼と結婚したアンシアが、子供ができてからは存在感を増し、じつに堂々たる女主人となるさまも見事に描き込まれている。いちばん感心したのは、ヌーボーリッチであるとある実業家の母親の、こんな描写だ。彼女はロールスロイスから降りる時、おしりから先に外に出る癖があるというのだ。これを読んだとき、彼女の老齢、自動車が一般化した時代性、実業家の息子を持ったが故の、彼女の人生の変遷、などなどいろいろなことを想像させられ、感慨深かった。
ドロシー・フイップルは今でも十分読むに値する。これだけ自然に、興味深く、語りをつづけられる作家はなかなかいない。もちろんその自然さがある種の犠牲の上に成り立っているにしても。
本作はプライオリー邸に住む貴族一家の没落の過程を描いている。やもめの主人が結婚し、娘二人が嫁ぎ、使用人たちがトラブルを起こし……と、じつにさまざまな人々の人生模様が巧みに語られる。五百ページを超える大作だが、わかりやすくて心地のいい語り口に身を任せると、あっという間に半分近くも読んでしまう。
とりわけ感心するのは、登場人物がそれぞれ粒だった性格を持っていることだ。プライオリー邸の主は金銭感覚のないクリケット狂いで、いかにも没落貴族の中にはこんな人がいそうな気がする。彼と結婚したアンシアが、子供ができてからは存在感を増し、じつに堂々たる女主人となるさまも見事に描き込まれている。いちばん感心したのは、ヌーボーリッチであるとある実業家の母親の、こんな描写だ。彼女はロールスロイスから降りる時、おしりから先に外に出る癖があるというのだ。これを読んだとき、彼女の老齢、自動車が一般化した時代性、実業家の息子を持ったが故の、彼女の人生の変遷、などなどいろいろなことを想像させられ、感慨深かった。
ドロシー・フイップルは今でも十分読むに値する。これだけ自然に、興味深く、語りをつづけられる作家はなかなかいない。もちろんその自然さがある種の犠牲の上に成り立っているにしても。
Friday, August 2, 2019
「青春と泥濘」から
火野葦平の「青春と泥濘」に気になる一節があったので、ちょっと長いが引用しておく。
死んでも蟻にたけだけしく、足取りも正しく動きまわらせるもの。それこそ欲動 drive である。そして蟻はもちろん兵隊たちの比喩となっている。
蟻の活動に見入ると、田丸は自分が今ゐる場所も、なにをしに來たのかも忘れてしまふのだつた。あまり變つた蟻も見なかつたが、臺地脚にちかい窪地に來て、奇妙に頑強な靑綠色の蟻を見た。その蟻たちもせつせと毛蟲やこほろぎを運ぶ作用に大した差はなかつたが、隊長株とおぼしき三倍ほどの大きさの蟻が出て來ると、うやうやしげに通路をひらくのだつた。不似合にでつかい頭に甲蟲のような角が二本あり、それをふりまはしながら、指揮してゐるやうに見えた。怠けてゐる蟻があると、その靑光りのする鋏でつまんだ。鋭利な刃物のやうに、蟻の身體は二つに切れた。田丸はしばらく熱心に見てゐたが、この隊長蟻の威張つた暴君ぶりにむらむら反感がわいて來て、木片をつまむと、その蟻の頸をおさへた。頸といつても、頭と胴の大きさがあまり變らないので、まんなか近所にあたる。瓢箪のやうにくびれてゐる胴中に木片がはさまると、隊長は鋏をふりまはして頭をじたばたさせ、胴の方も必死のやうに尻をもごもごさせ、足をばたつかせた。田丸はちよつと力を入れた。ぷちつと音がして、蟻は二つになつた。ところがその兩方とも活動はくつついてゐたときと、すこしも變らないのである。足のない頭の方は鋏をふりふり轉げまはるだけだつたが、足のある胴はそこらを自在に歩くのである。もつとも方角は、もうわからず、文字どほり盲目的行動にすぎない。ところがその胴の歩行は確固たる方針のもとに動いてゐるやうに、たけだけしく足どりも正しかつた。この別々になつてもなほ行動する蟻に氣味のわるさのわいた田丸は、木片で兩方とも押しつぶしてしまつた。
死んでも蟻にたけだけしく、足取りも正しく動きまわらせるもの。それこそ欲動 drive である。そして蟻はもちろん兵隊たちの比喩となっている。
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