Monday, December 16, 2019

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著
應用英文解釋法
東京英文週報社發行

(p. 66-70)

範例
(a) As I live, he is the very man we met yesterday.
(b) As I am here, he is the very man we met yesterday.
(c) As you sit there, he is the very man we met yesterday.
(d) As you stand there, he is the very man we met yesterday.
    Etc. etc.
確に彼は我々が昨日會つた人である。

解説
(a) As (true as) I live,....
(b) As (true as) I am here,....
(c) As (certainly as) you sit there,....
(d) As (certainly as) you stand there,....
   Etc.   etc.

(a) 余が生くるが如くに(眞に)。
(b) 余が此處に在るが如く(眞に)。
(c) 貴下が其處に坐するが如く(確に)。
(d) 貴下が其處に立つが如く(確に)。

此等の Adverbial Clause は
    truly, surely, certainly
等を強く云はむが爲に
    (As) I live
    (As) I am here
    (As) you sit there
    (As) you stand there
等の如き確實動かす可からざる事實を比喩として用ひたるものなり。

用例
1. As sure as he lives he shall feel my resentment.
   O. Goldsmith
   必ず思ひ知らせて呉れるぞ。
2. As I live, the directions say give one tea-spoonful once an hour!
   Mark Twain
   いや、確に一時間一回茶匙一杯やれと書いて有ります。
3. But as I live, yonder comes Moses, without an horse, and the box at the back.
   O. Goldsmith
   「いや、モゼズがあすこへ來た、馬を連れないで箱を背負つて」。
   an horse 古くは斯くの如く讀めり。
4. "No! as I live, a hedgehog! Look, Ellen, how it has coiled itself into a ball! off with it, May! Don't bring it to me!"
   M. R. Mitford.騒
   「いいえ、本當に針鼠!御覽、エレン、まるでボールのやうに圓くなつて了つたわ!こらメイ、放してお了ひ、持つて來るんぢやないよ」。
   Off with 放せ、棄てよ。

5. "A little man! as i am alive, a little man! I did not know there were such little men in this country! I never saw one in my life before!"
    Mrs. Inchbald
  「子供の大人だ、本當に子供の大人だ、この國に斯う云ふ子供の大人が有らうとは思うはなかつた。見たのは今日がはじめだ。」

6. "Didn't know, you white-livered thief!" growled Sikes."Couldn't you hear the noise?"
    "Not a sound of it, as I'm a living man, Bill," replied the Jew.
    C. Dickens
  サイクスは怒つて唸るやうに云つた「なに、知らなかつた、この臆病泥棒め! 騷ぎが聞えなかつたのか、貴樣には」
  「いや、全くのところ、ちつとも聞えなかつたよ」と猶太人(のフエーギン)は答へた。
  white-livered 臆病なる(臆病者の肝臓は白し(一字読み取れず)説より)。

7.  While I stood thus, in despair, conversing with a trio of friends upon the all-absorbing subject of my heart, it so happened that the subject itself passed by.
    "As I live, there she is!"
  E. A. Poe
  わしが斯樣に寢ても覺めても忘れる事の出來ない意中の人について絶望して三人の友人と話をしてゐると不思議や噂の主が其處を通つた。
  すると友人の一人は「そら、あすこへ來た」と云つた。
  trio 三人。the all-absorbing subject of my heart 明けても暮れても忘るゝ事の出來ない意中の人。the subject itself 話の本尊其者。

8.  And as for you, 'spuire, as sure as you stand there, this young lady is your wedded wife.
    O. Goldsmith
  「して、貴下はどうかと云ふに、この嬢さんは確に貴下の奧樣ですぜ」。

9.  If what i say to you now is ever known by others to have passed my lips, as certainly as we sit here I am a dead man.
    W. Collins
  若し今君に云ふ事が僕の口から出たと仲間の者に知れでもしたら、それこそ、僕は命が無いのだ。

10. "Yes," he said. "Your face speaks the truth this time. Serious, indeed, as serious as the money matters themselves."
    "More serious. As true as I sit here, more serious."
    W. Collins
    彼は云つた「左樣貴下の顏も今度は眞を語つて居る、いや實に、眞面目、金錢上の事柄ほどまじめだ」
  「もっとまじめです、全くのところ、もっとまじめです。」

11. The next thing he did -- as true as I sit here, as true as the heaven above us all -- the next thing he did was to carry the free end of his long, lean, black, frightful slow-match to the lighted candle alongside my face.
    W. Collins
    彼が次にやつた事は……わしが爰に坐つて居るが如く確に、皆の頭の上に天が有る如く確に……彼の次にやつた事は長い細い黑い恐ろしい火繩の一方の(火藥桶に挿して無い方の)端をわしの顔の橫にある點火された蝋燭の所へ持つて行く事であつた。

12. "Yes," replied he, "I will shake hands; for, as sure as I am here, I bear no malice. But, remember, if, by some impossible accident, we should give the slip to these black guards, I'll take the upper hand of you by fair or foul."
    R. L. Stevenson
    彼は答へた「左樣、では握手をしよう、と云ふのは斷じて惡意を抱かないからだ、併しこの事丈は覺えて居て貰ひたい、若し何かのはづみで此奴等が逃げるやうな事が有つたらわしはどうしてなりとも貴樣を負かして見せるぞ」。
give the slip to を逃がす。take the upper hand of 「に勝つ」「を負かす」。by fair or foul (善惡)如何なる手段によりても。

13. My next words, as true as the good God is above us, will put my life into your hands.
    W. Collins
    この一言で僕の命は確に君の手に握られるのだ。

14. But, as sure as God made me, I mean to put a period to this disreputable prodigality.
    R. L. Stevenson
  併し斯う云ふ外聞の惡い奢りは斷じてやめさせる積りだ。
    put period (=end) to 終わらせる、やめさせる

15. "He is gone," murmured Sibyl sadly. "I wish you had seen him."
    "I wish I had, for as sure as there is a God in heaven, if he ever does you any wrong I shall kill him."
    O. Wilde
  シビルは悲しさうに云つた「もう行つて了つた。わたし見たかつた」
  「おれも見たかつた、若しお前の身に惡い事でもしたら、屹度、殺して呉れるから」。

16. I do not know how it shall be done, but I shall have that scoundrel at my mercy as there is a god in heaven.
    R. L. Stevenson
    どう云ふ方法を以てするかはまだ分らぬが、必ず彼奴を手に入れねばならぬ。
    have...at my mercy (=in my power) 我が手に入れる。

17. Well, then, when after my late Viscount's misfortune, my mother went up with us to London, to ask for justice against you all (as for Mohun, I'll have his blood, as sure as my name is Francis Viscount Esmond), we went to stay with our cousin my Lady Marborough, with whom we had quarrelled for even so long.
    W. M. Thackeray
  それから故子爵の不幸後に私の母がお前方を相手に裁判を仰ぐ爲め、私等と一緒に(モーハンはどうあつても殺さずばおかない)倫敦に上つた時、私達は長年爭つて居たマールボロ夫人方に滯在して居た。

Friday, December 13, 2019

ウィリアム・ル・キュー

今はもうウィリアム・ル・キューなんて誰も読まないが、彼が活躍した1890年代から1920年代は、現在のル・カレにも比すべき、スパイ小説の大家だった。

Project Gutenberg から出ている Tracked By Wireless というル・キューの小説をのぞいたら、冒頭に作者に対する各メディアの賞賛の声が集められて掲載されていた。それが十八もある。

「ウイリアム・ル・キュー氏はミステリーの巨匠だ。息もつかせぬ巧みな展開で、読者を次から次へと事件の渦に巻き込み、最後のページまで一気に読ませる」ペル・メル・ガゼット
「ル・キュー氏はもっとも熟練したセンセーショナル・フィクションの書き手の一人だ。読者の興味をがっちりつかんではなさない」パブリッシャーズ・サーキュラー
「ル・キュー氏はセンセーショナル・ノベルを完璧の極にまで高めた」ノーザン・ウィッグ
「『良酒に看板は不要』というが、今人気のミステリ作家ル・キュー氏の作品に賞賛の言葉は不要である。彼の名を冠した小説はどれも独創的で最後まで巧妙に造り上げられている」メソディスト・リコーダー

こんな感じである。

ル・キューを一躍有名にしたのは1906年からデイリー・メール紙に連載された「1910年 侵略」という小説。第一次世界大戦がはじまるずっと以前に、ドイツによるイギリス侵攻を描いた作品である。ロバート・アースキン・チルダースの名作「砂州の謎」もそうだが、このころはドイツの軍事力拡大に警戒の目を向けるよう呼びかける声があった。そういう警戒心、恐怖心にうまく乗っかる形で、この本は大ベストセラーになった。

ル・キューの作品でわたしが好きな一冊は1915年に書かれた「緑色光線の謎」。殺人光線という稚気に充ちたテーマを扱いながらも、この作者にしてはめずらしく文章が引きしまっていて、緊張感をもって最後まで読める。いや、彼の作品は、当時の小説作法をわきまえて読むなら、どれをとってもだいたい面白いと言える。

Wednesday, December 11, 2019

イギリスと翻訳の賑わい

イギリスでは翻訳文学がよく読まれているようだ。エレナ・フェランテは圧倒的な人気でもって迎えられ、ナタリア・ギンズバーグやヴィルジニ・デスペンテス、日本の津島祐子や小川洋子などもそこそこ読まれている。(イギリスから見て)外国の作家が新聞紙面を賑わせたり、書店に平積みされたりするのは珍しいことだったけど、このごろはそうでもないらしい。ガーディアン紙によると翻訳文学の売り上げは去年は5.5パーセントだったが、今年は20パーセントに跳ね上がったという。

翻訳文学を熱心に出しているのは、どちらかというと小さい出版社なので、彼らの地道な努力が実ったのだ、とちょっとうれしい気分ではある。わたしは弱い者の味方だから。翻訳者もがんばっている。以前は淡泊な文章の翻訳が多かったが、今はずいぶん繊細な文章を書く人が出てきたと思う。翻訳者の努力も認めなければならないだろう。

さらに翻訳文学にイギリス人の目を向けさせた大切なもの、それは、ちょっと意外かもしれないが、ブレクスイット。離脱をめぐって大もめだが、あれによって自分たちはヨーロッパの一部なのか、それとも思っていたほどヨーロッパ的ではないのか、という奇妙な自意識、罪責感が生まれた。それが外国文学への興味へとつながった。わたしはブレクスイットを残念に思っているが、しかし翻訳文学への関心が強くなったという事実には希望を感じる。まだ他者への関心が旺盛だということだからだ。

Monday, December 9, 2019

全日本プロレス大阪大会

全日本プロレスの公式ページに、ボディガーが大けがをした大阪大会のダイジェストが出ていたので見た。

たしかに最後のほうでゼウスのスパインバスターを食らったあとボディガーは右膝を気にしている。しかし試合の流れのなかで異常を訴える暇がなかったようだ。

プロレスラーにけがはつきものと、プロレスラー自身は平然と言うけれど、わたしはこういう場面を見るとつらい気分になる。自分の楽しみのために他人を犠牲にしているような気がするからである。実を言うと、この罪悪感と向かい合うためにわたしはプロレスを見続けているような気がする。しかしこのことは場を改めて話したい。

ビデオで紹介されていたもう一つの試合は吉田・ヴァレッタ組対宮原・青柳組戦。吉田は見ていてほんとうに面白い選手だ。声も出るし、アクションも派手。ヒールだが力加減を心得ていて、無茶はしない。かえって安心して見られるのだからおかしなものだ。

試合は吉田が宮原に椅子攻撃をし、直後にヴァレッタが決め技をはなってスリーカウントを取った。一応、連携もとれているようだ。なんともおかしなくせ者コンビである。

Friday, December 6, 2019

アーサー・シュジク

前回に引き続き「わが名はジョナサン・スクリブナー」の裏話。今度はカバーの画について。

あれはアーサー・シュジクというユダヤ系ポーランド人の作品だ。本の挿絵や政治的な風刺画を描いて生前は非常に人気があったらしい。1894年に生まれ、1951年にずいぶん若くして亡くなっている。

カバーに選んだのは The Scribe という画。scribe は筆記者とか書記とか文士という意味で、わたしの翻訳の主人公スクリブナー Scrivener と非常によく似た言葉だ。これは非常に不思議な画である。眼光鋭い男はルネサンスの頃の服装をしている。しかし手に持っているのは万年筆だ。巻物に書いているのはドイツの表現派の詩である。アナクロニズム、つまり時代がめちゃくちゃである。窓の外には飛行機が飛んでいるし、壁にはアメリカのドル紙幣、ピカソ風の抽象画がかかっている。

シュジクがこの画でなにを描きたかったのかはわからない。(シュジクの伝記などを読みたいのだが、残念なことに大学の図書館は貸してくれないのだ)しかしわたしはスクリブナーという人物はここに描かれたような男ではないかと思った。金儲けもできるし、芸術家としても一流。画も描ければ詩も書ける。おそらくダヴィンチみたいに飛行機やいろいろな機械の発明もできるのだろう。彼は作品の中でシェイクスピアにたとえられているけれど、画に描かれた男もルネサンス期の衣装を着ている。うん、これだ、とわたしはこの画をカバーにすることにした。

「わが名はジョナサン・スクリブナー」はアメリカの小さな出版社ヴァランコートからも出されている。その挿絵はこんな感じである。

スクリブナーの多面性を表現した面白い画だと思う。しかしわたしの解釈では、その多面性はじつは一点に集約される。だから抽象的な画よりも、明確な一人の人物を表紙に据えてみたかった。その意味でも The Scribe はちょうどよかった。

つづく

Tuesday, December 3, 2019

推理小説的読解法

「翻訳ミステリー大賞シンジケート」というサイトにわたしが訳した本(クロード・ホートン作「わが名はジョナサン・スクリブナー」)のレビューが出ていた。「訳者の解説とセットで味読したい逸品」とずいぶん持ち上げてくれて、素直にうれしい。商業ベースじゃない、個人の趣味でやっている企画にまで目を配ってもらえて、ただもう幸せの一言である。

というわけで今回は「わが名はジョナサン・スクリブナー」の裏話を披露してみたいと思う。お読みでない方には意味の通じない記事になるが、ご容赦を願う。

裏話その一。

あの解説はじつをいうと、ジャック・ラカンの議論の焼き直しに過ぎない。ラカンは「語る主体」とか「大文字の他者」といった概念を用いているが、それを小説論的に言い換えただけなのだ。ラカンの議論との平行性を明かしてさらに読解を深めることもできたけれど、一般読者でそんなものに興味のある人など、いそうもないと思ったので、やめにしておいた。でもあの解説が面白いとしたら、それはラカンの議論が面白いのである。

ラカンを読む人間は「ジョナサン・スクリブナー」のような作品が好きだ。ラカンの専門家でいちばん有名な学者の一人ジジェクは「否定のもとに留まりながら」という著作を「ブレードランナー」の話からはじめている。あれは人間としての記憶を植え込まれたレプリカントの物語だ。自分の核心にある最も内密な記憶さえ、人工的なものであったことを知り、レプリカントは涙をこぼす。彼らの主体性の内実はゼロなのだ。この映画と「ジョナサン・スクリブナー」がどうつながっているのか。この小説の登場人物もみな「作者」によってつくられた人々だ、という点で両者はつながっている。彼らもレプリカントなのだ。主体性の内実がゼロであるという考えは、ラカンの議論の一つのキモになっているのだが、こういうことを扱った作品をラカン派の人々はよく取り上げる。

ただ「ブレードランナー」の場合、登場人物のだれがレプリカントであるか、ということは明示されている。「ジョナサン・スクリブナー」の場合、登場人物のだれが「登場人物」であるかということは、ある読解操作を経なければわからない。ここは大きな違いだ。

じつをいうと、わたしは以前にもこのような読解をこころみたことがある。「ドールズ」というスチュアート・ゴードンが監督した映画を解釈した際にも、全く同様の手続きを経て、表面的な物語の背後において別の物語が展開していることを示したのである。(こちらの記事

このような読解操作で肝心なのは、ある人物を通して他者が語っているという語りの構造(おそらく作者自身も気づいていない無意識の構造)を見抜くことである。「ジョナサン・スクリブナー」の場合は「語り手」を通して「作者」が語っている。「ドールズ」の場合はジュディを通して「母親」が語っているというように。これに気づけば作品構造の奇妙なゆがみも見えてくる。そして推理小説のような読解が可能になる。わたしはこのテクニックを「わたしが語るとき、問うべき質問は、誰が語っているのか、そしてどこから」という言い方でまとめている。

第二に気をつけるべき事は、背後から語っている存在が、作中に登場するとともに、作品のフレームワークともなっている点である。ジョナサン・スクリブナーは作中人物だが、その作品を形作る作者でもある。「ドールズ」の場合、母親は作品の中でその存在を言及される人物だが、同時に物語全体にその欲望を染み渡らせている存在でもある。あの映画はじつは彼女の夢なのだといってもいい。本来ならメタレベルに存在するものが、オブジェクト・レベルに混入している、あるいは階層性が維持されない、ある種トポロジカルな(内側外側の区別がないクラインの壺のような)作品構造を見抜かなければならない。

この推理小説的読解法には考えるべき事がたくさんある。テキストと無意識の関係とか、無意識と推理小説という形式の関係とか、物語とフレームワークの関係とか、テキストそのものに潜む階層性とかである。いずれも大問題に突入するだろう。わたしもじわじわと考えてはいるのだが、本格的にそこにいくまえに、もう二三作、この読解の通用する作品を見つけたいと思う。「ドールズ」のような単純なホラー映画にすらこの構造が見つかるのだから、たぶんわたしには見えていないだけで、かなりの数の作品があるはずだ。

つづく

Sunday, December 1, 2019

大丈夫か、ボディガー

全日本プロレスの最強タッグリーグに関本と出場していたボディガーが怪我で欠場することになった。大阪大会でゼウス・崔組と30分フルに戦ったとき、大腿四頭筋全断裂をおこしたらしい。

筋トレをしている人なら震え上がるような診断結果だ。大腿四頭筋とは要するに太ももの筋肉である。自重運動をする人ならスクワットで、ジムに行く人ならレッグプレスマシンで鍛えたりする。この太い筋肉が全断裂なんて、想像したくもない。

よっぽど危険な体勢で技をくらったのだろうか。それとも筋肉疲労がたまっていたところに強い衝撃が加わったのだろうか。

わたしは家でトレーニングをするときはたいていプロレスを見ながらやる。レスラー同士の力比べを見ると、ダンベルを持ち上げるこっちの腕にも力が入ってちょうどいいのだ。ボディガーの試合もよく見る。彼は筋肉量では日本でも有数のレスラー。見るだけで気合いが入る。

英語読解のヒント(184)

184. no matter を使った譲歩 基本表現と解説 No matter how trifling the matter may be, don't leave it out. 「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how ...