Friday, January 10, 2020

過去を目指すな

過去にノスタルジーを抱いている政治家は選んではいけない。彼らは新しい状況を理解しないし、その結果、あたらしい世代を苦しめる政策をとってしまう。ところが過去へのノスタルジーは感染力の強い病のようで、大勢の人によって共有されている。

過去にノスタルジーを抱き、過去に未来の模範を求めるのは、智的怠惰の最悪の例のひとつだろう。あたらしい状況を見通すにはあたらしい知性が必要になる。あたらしい知性を身につけるには、過去の思想を学び、たえず先端的な思考を追っていかなければならない。そのような努力を放棄したのがノスタルジーにふける人々である。

ジェイコブ・リース-モッグの新著「ヴィクトリアンズ」を出した。ヴィクトリア朝を代表すると作者が考える人物十二名に関して印象を書きつづったものだが、この本の骨子はこういうことだ。ヴィクトリア朝は明確な道徳を持ち、エネルギッシュで、愛国心に満ちた時代だった。ところが現代はどうだろう、政治的公正(politically correct)の前に道徳は相対化してしまっているではないか。

リース-モッグは保守党の国会議員だが、彼もノスタルジーにふけっている。そしてノスタルジーにふける人々に共通の欠点が見られる。それは過去の美化であり、現在への盲目である。たとえば彼はパーマストン首相をヴィクトリア朝を代表する人物の一人として選んでいるが、パーマストンは「明確な道徳」を持っている人物だったのか。彼はその性癖のゆえに Lord Cupid とまで言われたのに。しかし作者はそういう側面には目を向けようとしないのだ。また、彼は憲法学者アルバート・ダイシーを扱った章で「国民投票を持つ政治体制は長期的安定をもたらす傾向がある」とか書いているけれど、おいおい、ブレクスイットはどうなんだと誰もが突っ込みを入れたくなるだろう。

この本の書評を探してみたら、ガーディアン紙にわたしとまったく同じ感想を表明した人がいた。この書評者はヴィクトリアンについて知りたいなら、A. N. ウィルソンやサイモン・ヘフナー、デヴィッド・キャナダイン、ピーター・アクロイドを読むべきだと最後に付け足している。わたしはサイモン・ヘフナーとデヴィッド・キャナダインは知らないが、他の二人はじつにいい文章でヴィクトリア朝について書いている。わたしはいま、A. N. ウィルソンの「ヴィクトリアンの後に」を読んでいるが、これも興味深い本である。

Thursday, January 9, 2020

「333 空想科学小説目録」

この本はグランドンという、聞いたことのない出版社から1953年に出された。ファンタジーの傑作を333冊紹介した本である。それぞれ「ゴシック・ロマンス」「怪奇小説」「科学小説」「ファンタジー」「失われた種族もの」「空想的冒険譚」「未知の世界」「東洋譚」「関連作品」に分けられ、結構くわしいあらすじが付されている。最後の「関連作品」というのは、「空想科学小説」とはいえないけれども、一般読者からそのようなジャンルに属すると認められている、やや周辺的な作品を意味する。

グランドン社は空想科学小説を専門に出す出版社だったようだが、小説のカタログを読者に郵送していたところ、マニアたちからそれぞれのタイトルの内容を知りたいという要望が度重なり、このような紹介本を編むに至ったらしい。編集したのはジョゼフ・H・クローフォード・ジュニア、ジェイムズ・J・ドナヒュー、ドナルド・M・グラント。紹介されている作品は、序文によると、1950年までに発表された空想科学小説のなかでも最高のものであるとのこと。

好事家のあいだではつとに知られた本だそうだが、わたしは初めて見た。紹介されている本がはたしてこの分野の最高の作品であるかどうかはべつにして、それなりに評価を受けた本として読んでみる価値はあるだろう。わたしが見たところ、三分の二くらいはわりと有名な作品が紹介されている。フレデリック・ブラウンの「発狂した宇宙」とかフィリップ・ワイリーの「闘士」とか、まあ、誰が見ても文句のない名作である。しかし残りの三分の一はほぼ無名の作家ではないだろうか。マーク・チャニングとかいう作家は四冊も作品がリストアップされているが、ウィキペディアにこの作家の記事はなく、Internet Archive を調べてもここに上がっている本はまだ収録されていない。(India Mosaic という見聞録みたいな本はあるのだが)

これは面白いリストが見つかった。わたしは忘れられた作品をあげたリストが大好きなのだ。もっとも興味を引かれた作品が、あまりにも忘却のかなたに行き過ぎて、今のところ、どこを捜しても手に入れようがないという難点はあるのだが。

Wednesday, January 8, 2020

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著
應用英文解釋法
東京英文週報社發行

(p. 70-72)

範例
(a) As long as gardens have flowers and the world has beautiful and amiable women, so long will life be worth living.
    Max O'Rell

(b) I beseech you to remember that, as surely oxygen feeds the fire of life, so surely does carbonic-acid put it out.
    C. Kingsley

(a) 花園に花の絶えざる限り、嬋娟温雅なる婦人のこの世に絶えざる限り、吾人は生を營む價値ある可し。

(b) 酸素が生命の火を養ふ如く炭酸瓦斯は之を消すものだと云ふ事を記憶して貰ひたい。

解説

As....as, ....so.... の so.... は初の As....(as) を強むる爲に反復したるものにして as よりも語氣強き so を用ひたるも之が爲めなり。されば上掲 so long, so surely は初の As long, as surely を反復したるものにして假に so long を省き will を life の後に置き、so surely と does とを省き
(a) As long as gardens have flowers and the world has beautiful and amiable women life will be worth living.
(b) I beseech you to remember that, as surely oxgen feeds the fire of life carbonic-acid puts it out.
とするも意味に於て異る所なく、唯語勢の強弱有るのみなり。

用例

1.  As surely as the force which moves a clock's hands is derived from the arm which winds up the clock, so surely is all terrestrial power drawn from the sun.
    J. Tindal
  時計の針を動かす力が時計を捲く腕より得らるゝ如く凡ての地球上の力は太陽より得らる。

2.  I speak as a dead man now, and I warn you, father, that as surely as you must one day stand before your Maker, so surely shall your children be there, hand in hand, to cry for judgment against you.
    C. Dickens
  己れは今死んだ人間の積で云ふのだ、それで今からお前に云うて置くが、お前もいつか必ず神樣の前に立たなくちやならないが、お前の子供も手に手を取つて必ず其處へ行つて、お前を罰する樣に祈るぞ。

3.  Just as neat and clean as are the women of the middle and working classes, just so ignoble and filthy are women of the lower classes.
    Max O'Rell
  中等社會、勞働社會の婦人がさつぱりと小奇麗で有る如く、丁度その樣に、下層社會の婦人は卑しくてむさくるしい。

4.  So long as such conditions exist, and so long as mankind essays, through choice or necessity, to cope with them, just so long will neurasthenia continue to occur, unless in process of evolution the human species becomes more able to resist these factors.
    New York Herald
  斯る事情の存する間は、而て人類が好みて又は已むを得ず此等の事情と戰ふ間は、正しく其間は、人類が進化して此等の原因に抵抗し得るに至らざる限り神經衰弱は依然として生ず可し。

5.  Nations who are thus enslaved at heart cannot be freed by any mere changes of master or of institutions; and so long as the fatal delusion prevails that liberty sorely depends upon and consists in government, so long will such changes, no matter at what cost they may be effected, has as little practical and lasting result as the shifting of the figures in a phantasmagoria.
    S. Smiles
  斯の如く心中奴隷の如くなれる國民は啻に主權者を更へ制度を更ふるのみにては之を自由にする事を得ず、而て自由は專ら政治に據り政治に存すと云ふ不幸なる謬説の行はるゝ間は、其間は斯の如き變更は如何なる費用もて之を行ふとも、其實際的永續的結果を齎らさゞること譬へば走馬燈に於ける影子の變化に異なる事なし。

Monday, January 6, 2020

G.P.R.ジェイムズ「エーレンシュタイン城」

意外とよい本だった。中世のドイツを舞台に、若い騎士と、エーレンシュタインの城主の美しい娘が恋に陥る。二人のロマンスがメインストーリーだが、もちろんそれが順調に実るわけがない。主人公を嫉妬する騎士が嫌がらせをしたり、恋の邪魔をし、主人公はあわや命を失うかも知れないという危地に追い込まれたりもする。それを主人公は堂々と切り抜け、また最後にはその出生の秘密が明かされ、大団円を迎えるのである。

こう書くと平凡なロマンス・貴種流離譚ではないかと思われるだろうが、面白いのはゴシック風の怪奇現象も描き込まれている点である。エーレンシュタイン城のある部屋や地下では奇怪な物音がしたり、幽霊があらわれたりする。ある程度読み進めれば、幽霊やら物音の理由はだいたい想像がつくのだが、それでもこの怪奇趣味がプラスされて、物語はぐんを興趣を増す。

とりわけ第一章はすばらしい。嵐の晩に主人公が真っ暗な城の地下道を抜け、外の森を通り、僧院へと向かうのだが、不気味な雰囲気たっぷりの、極上の出だしである。第一章以降にこのようなゴシック小説的描写(あるいはペニードレッドフル的な描写)が少ないのは残念だが、それでも充分面白い。主人公と城主の娘のロマンスは、チャールズ・リードの「修道院と炉端」と比較してもいいくらいよくできている。

1847年に三巻本で出版された大長編で、物語の進行はゆっくりしているが、足取りの確かな文章で綴られている。最後まで退屈せず読むことができた。

Sunday, January 5, 2020

去年読んだ本のベストスリー

去年は戦争文学ばかり読んでいたのでベストスリーもその関係の本になる。

第一位は今日出海の「山中放浪」。これは長いレビューをブログに書いた。描写の背後に鋭い認識が潜んでいる傑作で、わたしにとっては「俘虜記」や「神聖喜劇」と並ぶ重要な作品。

第二位はカロッサの「ルーマニア日記」。恐るべき知性と静謐をたたえるこの作品の前には「西部戦線異状なし」も「武器よさらば」も色あせて見える。

第三位はポール・フッセルの The Great War and Modern Memory 。残念ながら文学が資料のように扱われているが、第一次世界大戦のいろいろな側面を教えてくれるし、読んで面白い。

Friday, January 3, 2020

全日本プロレスの勢い

一月二日の後楽園大会では、世界タッグ選手権でゼウスがノックアウトを喫し、大丈夫なのだろうかと心配になった。脳震盪なのだろうが、充分に検査して必要なら休養も取ってほしい。おなじことを翌日欠場した諏訪魔にも言いたい。われわれファンは、怪我をしたまま無理して試合をする選手を見たくない。充分に回復してから戻ってきたって、われわれは全日を見棄てはしない。

一月三日の大会は近年まれにみる充実した新年興業だったと思う。話題が満載である。ライジングHAYATOと全日ジュニアヘビー若手選手の抗争、ヨシタツの入団、ルーカス・スティールの登場、横須賀ススムのジュニア王座奪取、ダニー・ジョーンズやフランシスコ・アキラといった外国勢の活躍、宮原の三冠防衛、青柳の造反、JR・クラトス選手の来日決定などなど。こうした要素がどのようにからまりあいながら全日を舞台にドラマを展開するのか、非常に楽しみである。

ルーカス・スティール選手は身長が196センチもある。大森やジェイクが192センチででかいと思っていたのに、それを超えるのだからあきれてしまう。ワイルドな顔つきをしているが、試合後のインタビューではごくごく紳士的に、平凡に、新年の挨拶をしていた。レスラーにはよくある、「リングを離れたら普通の人」タイプなのだろう。ただ彼が組み込まれた「神」チームの首領格が丸山で、彼がルーカスのコメントをおもしろおかしく「迷訳」というか「変換」していた。どれくらいの期間ルーカスが日本にいるのか知らないが、いつかジョーとも戦ってほしいし、三冠にも挑戦してもらいたい。

Wednesday, January 1, 2020

推理小説的読解ふたたび

以前、「推理小説的読解法」という記事を書いたけど、どうして「推理小説的」なのか、一言説明を入れるのを忘れた。

推理小説では、通常、もっとも犯罪を構成するとは思えない人間が犯人として指摘される。

わたしの読解法においては、作品の中でマージナルな存在、不在の存在が、作品のフレームワークを形作っていると指摘することになる。この操作によって作品の様相はがらりと変わり、別様の物語が現れ出てくる。

この類似性の故にわたしは「推理小説的」とわたしの読解法を呼ぶのである。

推理小説的読解はトポロジカルな読解ともいえる。この読解から見えてくる作品の構造が、メビウスの帯とかクラインの壺といったものを彷彿とさせるからである。最近ずっとこのことを考えている。

この読解でキーとなるのは、誰が語っているのか、という問題だ。Aが語っているようでも、じつはAを通してBが語っている、という構造を見抜かなければならない。AとBとは別人であり、かつ同一という奇怪な事態を。

次に気づくべき事は、このマージナルで、ときには不在でもあるBが、物語の内部にありながら、物語の外枠を構成するものでもあることだ。つまり内部はいつの間にか外部に接続する。両者のあいだに画然とした境界は存在しない。それどころか内部は常にすでに外部に浸食されている。

このトポロジカルな構造は、どうやら作者によって意図されたものではなさそうだ。作者は意識せぬままにそのような構造を書き込んでしまうのである。

さらにわたしがこの読解法を適用した作品は、物語がBの方向に向かって進行していく。映画「ドールズ」においてはラルフ青年とジュディは、ジュディの母親のもとへと向かうし、「わが名はジョナサン・スクリブナー」においては作者であるジョナサン・スクリブナーが最後に登場し、そこで終わる。AとBは同一であるというのはメビウスの帯に於いては裏と表が同一であるというのに等しい。そして物語はAから出発してメビウスの帯のようにねじれてBへと向かう、あるいはBにたどり着くのである。

ねじれはテキストにもあらわれる。たとえばメビウスの帯を彷彿とさせるイメージ(羊腸たる山道とか)があらわれたり、メタコメントが頻出したりする。メタコメントとは、作品世界を描くテキストの一部でありながら、テキストそれ自体の読み方を示唆するようなコメントのことである。このメタ・コメントの性質についてはまだわからないことがたくさんある。

わたしの読解法が通用する作品はほかにもあるだろう。それらを見つけて調べれば、さらにこの方法を精緻なものにできるはずだ。

なぜこんな読解が可能になるのか。わたしはそれはテキストが無意識の次元を必然的に含むからと考える。ラカンは無意識を考察するのにトポロジーを援用したが、それは正しいと思う。無意識の奇怪な働き方を考えるにはユークリッド幾何学的な空間を考えていてはだめなのだ。

しかしそうなるとすべてのテキスト(言語芸術だけでなく視覚芸術も含めて)が原理的に無意識の次元を含むと考えられるのだから、わたしの読解はすべての作品に適用されるということになってしまう。おそらく無意識の次元の働き方にはいくつかの型があるはずなのだ。わたしの読解が通用する場合もあれば、そうでない別の読解が要求されることもあるのだろう。そうした解釈のタイポロジーも考えていかなければならない。(アルチュセールの兆候的読解はそうした一つの型ではないかと思う)

そういうわけでわたしは一からやり直すためにいまはフロイトを読み始めている。

英語読解のヒント(184)

184. no matter を使った譲歩 基本表現と解説 No matter how trifling the matter may be, don't leave it out. 「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how ...