Friday, August 31, 2018

レスラーと読書

わたしが一番好きなレスラーはジャイアント馬場。あの人は、戦うときは独特の凄みがあるけれど、普段は温厚な紳士で、いかにも懐が広く、しかも温かい感じがした。なによりも好感を抱いたのは、彼が読書家であると言う点。たしか丸谷才一が書いていたはずだが、馬場さんは近頃読んで面白かった本として石川淳の「狂風記」をあげたことがあった。なかなかいい趣味をしている。

今の全日本プロレスで読書家といえば大森隆男だろう。たしか若い頃、武者小路実篤の本が好きだったとか聞いたことがある。

青木篤志も今年だったか去年だったか、なにかのきっかけでシェイクスピアを読んでいた。

わたしは本好きなので、読書をするレスラーにはとりわけ親近感を抱く。

そういえばアメリカの人気レスラー、ジョン・セナは今年の九月ころに子供向けの本を出すそうだ。映画の「カーズ」とよく似た話で、こっちはモンスター・トラックの家族が活躍するらしい。

アメリカのレスラーは本格的な自伝を書くことも多い。現役時代は「マンカインド」を名乗っていたミック・フォーリーの Have a Nice Day なんてベストセラーになっているのだからたいしたものだ。それほど文章はうまくないけど、達意ではある。ちなみにこの本はゴースト・ライターが書いたものではない。ミックはその点を序文であきらかにしている。あれは翻訳が出ているのだろうか。出てないならこのブログで紹介してもいいけれど。

Wednesday, August 29, 2018

「もう一人の女」 Another Woman

これはコーエンとJ.U.ギージイという人が共作した1917年の作品。読んで見たらミステリではなく、ロマンチック・コメディだった。しかしアメリカの小さな町にちょっとした混乱が起き、最後に関係者が全員集められて、なぜ混乱が起きたのか、その謎解きをするという形なので、ミステリとよく似ている。似ていると言えば、本作はプラウトゥスの「メナエクムス兄弟」とかシェイクスピアの「間違いの喜劇」ともよく似ている。本作を読みながらわたしは、一度この手の作品をまとめて読んで、いろいろと考えてみたいと思った。

物語は二組のカップルの関係をめぐるものである。一組はすでに結婚しているのだが、夫のほうは独身時代、その町のドンファンとしてさんざん浮き名を流した男である。妻は彼と結婚できて喜んではいるが、自分の容姿が人並みでしかないことを気にし、心密かに夫の浮気を怖れている。

もう一組は婚約中のカップルだ。こちらは男も女もごく普通の人間。ただ、男は一組目のカップルの男と仲がよく、顔もよく似ている。

「顔もよく似ている」と聞けば、ははあ、人違いが生じててんやわんやの騒ぎになるのだな、と予想がつくだろう。その通りである。

ここに町の外から一人の女がやってくる。がらっぱちな感じの女で、口のきき方も伝法だ。彼女は最初のカップルの男と結婚するためにここに来た、というのである。その男の奥さん、驚くまいことか。誤解に次ぐ誤解の結果、彼女は夫と別居することになる。

このとばっちりを受けるのが二組目のカップルの男。顔が似ているために町の外から来た女に結婚相手と間違えられ、こちらもフィアンセから婚約破棄を申しつけられる。

しかしホテルのフロント係がそのありさまを見て、真相を察し、全員を集めて見事、誤解を解くのである。

他の人との共作ではあるけれど、軽快なテンポで進み、いかにもコーエンらしい作品だった。

Monday, August 27, 2018

岩本煌史の変化

岩本煌史が TAJIRI に接近したとき、彼は変化を求めているのだと思った。

岩本が才能豊かな選手であることは誰もが知っている。実際、去年のバトル・オブ・グローリーでは優勝もしている。しかしいまいち精彩がなかった。アピールするもの、外に広がるものがないのだ。誰だったか忘れたが、ある選手がその点を批判したとき、わたしも頷くしかなかった。

なぜ外に訴えるものがないのかと、つらつら考えるに……どうも自分の道を進むということにこだわりすぎていたのではないかと思う。彼の意識はつねに内側にむかっていたような気がする。自己研鑽とか、自己鍛錬とか、自己修養といった言葉がぴったりくる男だった。

しかし自己にこだわりすぎると自家中毒を起こし、成長が止まることが往々にしてあるのだ。芸術家は先行者を摸倣し、摸倣することで自己の独自性を見出す。他に就くことで自を発見するというパラドクスが、芸術の要諦である。「孤高の芸術」を必殺技とする岩本は、そのことに気づいたのだろうか。彼は TAJIRI という学びがいのある先輩に接近し、さらにジェイク・リーの新ユニットに参加した。

このように意識を変革した男をこそ、われわれは刮目して見なければならない。先日の流山大会で彼は見事、青木からチャンピオン・ベルトを獲ったけれど、これは彼の変化が正しい方向にあることを示すものにすぎない。まだ彼の変化ははじまったばかりである。どのように変化するのか、変化の行く末にどんな岩本の姿があるのか。これは大いに注目に値する。いまやチャンピオンとなった彼の変革は、そっくりそのまま全日本ジュニアの変革といってもいいのだから。

Saturday, August 25, 2018

「おっさんを消滅させます」

プロレスではタイトル戦の前に選手たちが記者会見を開き、意気込みのほどを語るのが慣行となっている。

もちろん真面目にしゃべる人もいるし、対戦相手に遺恨があって不穏な雰囲気を漂わせる人もいる。また、試合では真剣に戦うが、こういう場では面白いことを言って笑わせる人もいる。

八月二十六日に行われた全日本プロレス・アジアタッグ選手権の会見は面白かった。チャンピオン野村・青柳組に、大森・木高組が挑戦する試合である。大森は気心の知れた木高とのタッグということで、口も軽かった。木高も適宜合いの手、というか、突っ込みを入れて好調だった。

しかしわたしが感心したのはチャンピオンチームの反応である。青柳は絶好調であることを訴え、今は何も怖いものがない、No Fear であると大森をむこうに言い放った。

青柳は昔から負けん気が強いだけでなく、コメントもうまい。No Fear が彼の口から飛び出したときも、うまいことを言うなと思った。会見はドンキホーテの店内で、お客さんを前に行われたようだが、彼が No Fear を口にした途端、おおっとどよめきがあがった。

野村のコメントもよかった。彼は口べたなのか、あまりコメントに冴えがないのだが、この日はちょっと違った。記者から「ベテランの挑戦者をどう思うか」と問われ、彼はほっぺたでニコニコ笑いながら「これに勝ったら、もう、おっさんの挑戦は受けない。おっさんを消滅させます」と応えた。

「おっさんを消滅させます」には会場からも笑い声があがった。野村のコメントとしては上等の部類に入るだろう。

こういう楽しい前哨戦を見せられたら、本戦も見ないわけにはいかない。大森にはおっさんの意地を、木高にはジュニア・ヘビーの老練で老獪な技術を見せて欲しい。(大森は木高の師匠格だが、実際の試合でチームをリードすべきは木高のほうだろう。タイトルを獲るか獲れないかは、木高の活躍にかかっていると思う。)それが野村・青柳の爆発力とぶつかれば、これはもう面白くないわけがない。

Thursday, August 23, 2018

「愛には危険がともなうことも」 Love Can Be Dangerous

1955年、コーエンの晩年に出た作品である。おそらく最後の作品ではないだろうか。もしそうだとしたらこれは掉尾を飾るにふさわしい作品といわなければならない。コーエン的なミステリの究極の形が示されているのだから。

物語はこんなふうに始まる。カリフォルニアの高級リゾート地で殺人が起きた。ここにはコテージがいくつもあって、隣のコテージで開かれていたパーティーに参加していたある女性が、その最中に自分が借りているコテージに戻ってみると、男の死体があったのである。さっそく警察が呼ばれ、ウォルシュ警視と若い巡査部長のダニー(ダニーが本編の語り手である)が現場にかけつける。問題のコテージに入ると、確かに男の死体がある。しかし女性が発見したときとは違う部屋にいたのだ。

この女性は嘘をついたのか。それとも警察が来るまでのあいだに誰かがコテージに侵入し、死体を移動したのか。捜査は難航し、その間に第二、第三の殺人が行われる。

ネタバレしないように筋書きは途中でおさえたが、しかしこれから先でネタバレせざるをえない。「コーエン的なミステリ」を説明するにはそうするしかないのだ。

探偵小説の探偵は、普通、事件の外部に立っている。彼は冷静に、あるいは冷徹に事件を観察し、推理する。事件の外部に立つことによって、事件の内部にいる人々には見えないものが見える。内部の人には当然と思えることも、彼には当然ではない。その視差が推理を可能にする。わたしは谷崎潤一郎の「途上」という短編を、そうした内部と外部の差を典型的に示した作品だと考えている。

ところがこの探偵が内部の人間となんらかの関係を持ってしまうとどうなるか。二十世紀の初頭から三十年代くらいまでの作品をいろいろ読んで見たところ、どうも物語は推理小説からメロドラマに変質してしまうのである。探偵が内部の人間と関係を持ったとたん、内部を外部から見る物語ではなく、内部を内部から見る物語になるのだ。外部から内部に移行した探偵は探偵能力を失い、内部の物語の一人物と化してしまう。「トレント最後の事件」で探偵が事件を解決できないのは、彼がいろいろな形であらかじめ事件の内部にまきこまれているからだ。

これに反してハードボイルドの探偵は、積極的に内部にコミットし、内部の物語の核へと突き進む。この核というのは大抵の場合フェム・フェタールと言われるものなのだが、探偵は彼女を特定し、かつ彼女が持っている力・魅力を無化してしまうのだ。彼女の存在が崩壊したとき、探偵は物語からある種の距離を取ることができるようになる。

コーエンのミステリは上記の二つのタイプの混合型である。「赤いアリバイ」をレビューしたときにも書いたが、探偵はある「予断」をもって事件に相対する。つまり「この男は無実だ」という予断である。彼はまだ事件の捜査を開始していないし、すべての人を疑うというのが捜査の鉄則なのに、コーエンの探偵ははじめから、ある意味、無根拠な信頼を内部の人間にたいして抱いてしまう。しかし内部の物語にどうしても解消し得ない矛盾があることに気づき、そこではじめて彼が前提としていた「予断」を疑うようになるのだ。

これは危険な探偵方法である。もしも矛盾が生じなければ「予断」が疑われることはないのだから。

さて、「愛には危険がともなうことも」は厳密には探偵小説ではないかもしれない。事件の捜査に当たるのはロサンジェルスの警察だからだ。厳密に言えば、Police procedural というジャンルになるのだろう。だが、語り手でもある巡査部長ダニーはコーエン的な探偵といっていい。彼は最後に見事な推理を展開し、真犯人を指摘する。それは名探偵の推理のように読者をはっとさせる。が、彼が標準的な名探偵と違うのは、彼が登場人物の一人、美しいある女性と恋に陥る点である。そのことによって事件を見る彼の目には盲点が生じるのだ。

恋に陥ることで彼には事件が見えなくなる。彼は「予断」を持ってしまうからだ。しかし彼の上司であるウォルシュ警視や全米の警察のネットワークが、隠された真実の一部をあばくことに成功する。それを聞いた瞬間、ダニーは気がつくのだ。彼がその命を守ろうと必死になっていた愛する女性、彼の隣に座り、その腰をしっかりと彼が抱いていた女性、彼女こそが真犯人なのだということに。

フェム・フェタールは「男にとっての欲望の対象」であり、「男たちのシンプトム(徴候)」である。彼女は魅力的に見えるけれども、その魅力は仮面に他ならない。ダニーは物語の内部に入りこみ、事件の当事者の欲望空間をなぞるように進んでいった。ある意味で彼は当事者と一体化したのである。しかし最後に彼は内部の世界のリビディナルな核を突き止め、その無効性(仮面にすぎないこと)を宣言するのである。

本編は名作とまではいわないが、しかしコーエンのミステリの中では白眉の出来を示している。ただ翻訳はちょっと難しいなあ。手がかりが英語の綴りにあるから。しかし英語ができるミステリ・ファンにはぜひ一読をお勧めしたい。

Tuesday, August 21, 2018

日本に知的文化はない

高知県立大学が蔵書三万八千冊を焼却した。中には貴重な郷土本、絶版本がたくさんあったとされている。

なぜ他の図書館に寄贈しなかったのかという、ごくごく当然の疑問が一般人から多数寄せられている。

しかし日本はもともと知的な財産をないがしろにする国である。貴重な資料であっても保管場所がなくなればぽいと捨てて顧みない。重要な行政文書もどんどんなくなっている。あれは自分たちに都合の悪いことを隠す意図も大いにあるけれど、もともと日本人には知的な財産を保存するという観念がないからである。

大学は文化の拠点のようにいわれるけれども、日本の場合はセクハラ、パワハラの巣窟であり、権威主義をもり立てるだけの商業施設で、文化なんか生み出してはいない。世界における日本の大学のランクは、今後、ますます下がっていくだろう。

今の政権はまさに日本を象徴する。日本語が読めず、ゴルフばかりする首相、漫画しか読まない大臣。愚昧な発言を繰り返す議員。なぜ彼らが選ばれるかと言えば、教養主義に対する漠然とした反感が国民のあいだに広がっているからだろう。

そんな日本にも知を紡ぎ出そうとする努力する思想家がかろうじていたものだ。吉本隆明とか江藤淳とか丸山眞男とかだ。しかしその系譜も柄谷行人(まだ生きているけど)で途切れたよう見える。日本にあったなけなしの知の伝統も消滅寸前である。

日本は西洋の猿まねをしてきたが、化けの皮がはがれた、あるいはお里が知れた、というのが現状ではないだろうか。森鴎外の「金比羅」は現代日本への批判としても有効に読める。

Sunday, August 19, 2018

図書館を守れ

ザ・ガーディアンの記事に驚いた。

イギリスでは公共図書館が次々に閉鎖されたり、運営がボランティア任せになりつつある。どの州も財政的な問題が深刻化しているからである。

ノーサンプトンシャー州も二十一の図書館を閉鎖する計画を立てていた。

これに対して一人の女の子とその家族が裁判を起こし、州に計画の見直しを求めた。

高等法院から出た判決は……「州の計画決定過程は法にかなっていない」というものだった。もうちょっと詳しく言うと、図書館が閉鎖されたのちの、住民に対する法律的義務、物質的配慮が十分になされぬまま、計画が立てられている、と批判したのである。

裁判官であるイップ氏は「台所事情は充分にわかっているが、しかしそれでも州は法的に振る舞わなければならない」と言っている。

イギリスの図書館では本の貸し出しや子供たちへのサービスだけでなく、バスの定期券や障害者のブルー・バッジの発行など、いろいろな住民サービスを行っている。二十一も図書館がなくなったら、多くの住民が不便を感じるであろう事は疑いない。

しかしわたしが感心したのは裁判官のあきれるくらい良識的な考え方である。「州政府が財政的な問題によって動機づけられることは批判できない。しかし考えるべきことは財政だけではない。州政府は法的な義務を果たさなければならないのだ」

為政者には果たすべき法律的義務がある。

立憲主義を否定する政治家がうようよしている日本においては、こんな当たり前のことが新鮮に響くし、また司法が堂々とそれを根拠に裁定を下す姿は、うらやましくてならない。

もう一つ感心したのは、裁判を起こしたのが一人の少女とその家族だということだ。イギリスも日本も島国というが、個人主義ははるかに彼方の国のほうが根づいているようだ。しかも裁判所は為政者と市民のあいだの力関係ではなく、純粋に法律的観点から判断を下した。これまた当たり前のことだが、どこかの国では司法が権力に媚び、その当たり前が通用しないのである。

英語読解のヒント(184)

184. no matter を使った譲歩 基本表現と解説 No matter how trifling the matter may be, don't leave it out. 「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how ...