Friday, September 28, 2018

マッチョのための文学案内(1)

「ボディ」 Body by Harry Crews

1992年に出た小説。ボディビルを真っ向から扱った英語の小説は、おそらくこの作品だけではないだろうか。

本編の主人公はドロシー・ターニップシード。ターニップシードとは「カブの種」という意味になる。泥臭い名前だ。事実、彼女はジョージア州の田舎に生まれた。しかし秘書の資格を取り、ボディビルのジムに就職してから、彼女の人生は変わる。

ジムのオーナー、ラッセル・モーガンは彼女の骨格のよさにほれこみ、みずからコーチとなって彼女を鍛え上げる。さらに名前をシェリール・デュポンに変えさせ(フランス風の気取った名前だ)、ミス・コスモスというボディビルの大きな大会に出場させる。彼女は優勝候補の一人と噂される。

しかしここで問題が起きる。彼女はコンテストに出る自分の姿を見てもらおうと、田舎の家族、および(かつての?)フィアンセを会場のあるホテルに宿泊させるのだが、こいつらがとんでもなく無知な田舎者で、おまけにフィアンセは半分、殺人狂のような男なのである。

さて彼らがホテルに着いてまずなにをしたか。

彼らがホテルのプールに来ると、チャンピオン候補のビリー・バットがプールサイドでラット・スプレッドをしていた。猛烈に身体に力を入れていたので、全身がぷるぷると震えている。これを見てボディビルディングのことなどなにも知らないターニップシード一家は、ビリーが痙攣を起こしているものと思いこみ、全員で彼に飛びかかり、彼らが救急処置と考えるものを行ったのだ。すなわち彼を押し倒し、胸を殴りつけ、首を絞め、娘がマウス・トゥ・マウスに取りかかった。

いやはや。しかし話はここからさらにとんでもない方向に進んでいく。ビリーはかんかんに怒るかと思いきや、彼にマウス・トゥ・マウスを施した、巨大なデブ女に惚れこんでしまうのだ。彼は身体に脂肪がつかないよう、ずっと禁欲的な食生活をしてきた。ときどき我慢しきれずジャンクフードを食べることがあるが、食べたあと、すぐさま吐き出してしまう。だから油がべっとりついたピザやらマクドナルドのドラムスティックをむしゃむしゃ食べて、ぶよぶよに脂肪をつけた女が大好きなのだ。

この奇怪なカップルの話は異様な盛り上がりを見せるが、次の日のコンテストに場面が移ると、ふたたびシェリールが主役となる。ここはこの小説の最大の見せ場なので、詳しいことは書かないけれども、華やかなショーの背後で人間の欲望が渦巻き、コンテストに挑むトッププロの緊張感があふれ、ボディビルのグロテスクな側面も、崇高な側面も、すべてが垣間見られる。

この試合に人生のすべてを賭けたシェリールの姿、肉体を越えた肉体で人間の頂点に立ち、人間を越えようとする彼女の姿は、家族の者すら近づきがたい威厳を放ち、まるで別の次元に存在しているかのようだ。

そして小説は意外で衝撃的な結末を迎える。

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ハリー・クルーズの小説を読んだのはこれがはじめてだ。よい作品だったかというと……ちょっと疑問が残る。戯画的な描写やギャグは見事だと思う。南部訛りもうまく表現してある。しかしいささか品がなく、最後がとってつけたような展開で終わっている。「肉体」はアメリカを語る上で重要なテーマであるはずなのに、それに深みや豊かさを与えることができなかったようだ。ボディビルに関するテクニカルな情報はちりばめてあるが、肉体にあこがれ、魅了される人々の根本的な幻想に対する小説的な洞察がない。

が、冒頭でも言ったように、この小説はボディビルを真っ向から扱った、ほとんど唯一の作品である。それに文学としてはどうかと思われるが、エンターテイメントとしては標準といったところ。一読して損はない。

Tuesday, September 25, 2018

Jのコンビネーション

九月二十四日、王道トーナメントの最終日、ジョー・ドーリングとディラン・ジェイムズがタッグチームを結成した。

二人は王道トーナメントの一回戦でぶつかり、ジョーが勝利をしている。しかし試合後に彼がジェイムズを「尊敬できる」相手として持ち上げていたため、おそらく多くのファンが今回の事態を予想していたのではないだろうか。エボルーションを抜けてからジョーが単独で戦っている姿を見て、早くよいパートナーが見つかれば、と思っていたファンも多いだろう。わたしもその一人である。そして組むとしたらジェイムズではないかと思っていた。どちらも英語で意思の疎通ができるし、身体もでかい。似合いの二人なのである。全日本だけでなく、海外に出て活躍することも可能ではないだろうか。

英雄並び立たずで、いつかはまた戦うことになるだろうけど、強力なタッグができたことで、われわれは新たな楽しみを得た。

ジェイムズは今まで崔領二と組んでいた。おそらく崔には全日に来るまでのあいだ、いろいろと世話になったのだろう。なにかの記者会見の席でジェイムズが神妙な顔で崔や秋山社長に礼を言うのを聞いたことがある。しかし同時に彼の優等生じみた振る舞いにもやもやしたものを感じたことも事実だ。今回彼はそうしたしがらみを一応振り切り、全日を主戦場に自分らしく戦うという宣言をしたのだと思う。諏訪魔・石川組を追い上げ、追い越してくれるか、楽しみである。

Sunday, September 23, 2018

寝返り

腕立て伏せをする際、肩幅に合わせて床に手をつけば、腕の筋肉を鍛えることができる。肩幅よりもやや広く手をつくなら、胸の筋肉を鍛えることができる。わたしは両方をやるようにしている。

ホーム・ワークアウトではあまり筋肉は大きくならないと言われているけれど、そんなことはない。短期間に一気に、ではなく、時間をかけて少しずつ筋肉をつけたいという人は、すくなくとも最初のうちは自重運動がもっとも適していると思う。

わたしが腕の太さを感じたのは寝ているときだった。わたしは結構寝返りを頻繁にうつほうなのだが、あるとき、寝返りが打てなくて、はっと目が覚めた。

それまでは腕が細かったから、腕を下にしたまま、ごろりと反転することが可能だったのだが、腕が太くなると、反転しようとする身体の邪魔をするようになったのである。まるで自動車の行く手に横たわる倒木のような感じだった。

自分の腕に、自分の動きが疎外されるという、それまでになかった事態が発生し、夢うつつの状態だったわたしはぎょっとして起きてしまった。

それ以来、寝ているときに腕が邪魔に感じられるようになった。仰向けに寝ながら胸の上で腕組みすると、重くて圧迫されるような気がする。体側に伸ばしておくと寝返りの邪魔になる。

筋肉がつくのは嬉しいことではあるけれど、自分との付き合い方が変わっていくということでもある。

Friday, September 21, 2018

古井由吉の「影」

小説というのは物語の形で認識を語る。認識とは、まあ、哲学と言ってもいい。小説が鋭さを持つとき、それは認識に切り込む鋭さを持っているということだ。

哲学的な言辞を弄している部分に小説の「哲学」があると思ってはいけない。具体的で日常的な事実について語っているように見えても、実はそれが認識を語るひとつの装置として機能している場合がある。古井由吉の「影」が冒頭で提示する夜の景色はまさにそれだ。

語り手はマンションかアパートに住んでいるらしい。夜中にベランダに出ると、彼が住む建物と同型の建物が遊園地をはさんで真向かいに建っている。語り手は夜更かしするタイプらしく、時刻はもうだいぶ遅い。しかし向かいの建物を見ると電気がぽつぽつとともっている。「スタンドの光のひろがりの中心に、じっと動かない影がある。その影がときどき机から躰を起して寛いでいるのが、手に取るようにわかる」それを見て語り手は「いい加減にして寝ろ」とつぶやく。

二段落にわたってこれだけのことが書かれているのだが、すでにこの作品が語ろうとしている認識の、重要な要素が提示されている。

まず、語り手の「わたし」がいて、「わたし」はもう一人の「わたし」を見ている。スタンドの光の中心で、じっと動かないでいる影とは、まさに古井由吉を思わせる語り手本人の姿にほかならない。わたしと、もう一人のわたし。すなわち「影」。

さらにわたしと影のあいだには遊園地がある。わたしと、もう一人のわたしの間には、ある距離が存在するのだ。

この三つの要素、つまり「わたし、影、距離」がこの作品の認識を説明するキーワードである。

このことは三段落目において、語り手が父親そっくりの咳の仕方をするようになったと語る部分でも確認される。父と子、それは明らかに「わたしと影」の関係と重なり合う。

「わたし」と「影」は分身関係であり、両者はまさしく同一でありながら、同時に同一ではない。そこには不可解な「距離」が存在するのだ。この奇妙なパラドクスを「影」という短編はさまざまな例を通じて探っていく。

哲学における同一性と非同一性の議論や精神分析に興味のある人であれば、上記の三つの要素を通してこの作品が語ろうとしている認識を興味深く読むことができるはずだ。

とりわけこの三者関係の中から「死」が析出されていく過程はスリリングであり、また不気味でもある。

Wednesday, September 19, 2018

ジェイク・リー

全日本プロレス・王道トーナメントの開催にあたって、選手たちがその意気込みを記者会見(ドンキホーテ渋谷本店)で語った。

その中で笑ってしまったのが秋山準とジェイク・リーのやりとりだった。

ジェイクは、自分は母子家庭に育ったので、秋山は軽い父親のような存在だ、と言った。秋山は「軽い」とはなんだ、と怒った振りをしたが、まんざらでもないような顔だった。

ジェイクのいわんとすることはわかるが、もうすこし語彙力をつけてほしい。「軽い」じゃなく、「ある意味で」くらいのフレーズを使ってくれ。

しかしそんなことはどうでもいい。

このやりとりで、ジェイクは秋山を父親、師と見なし、秋山もジェイクを息子、弟子として、温かく見守り、期待を掛けていることがわかった。それを見てわたしは、秋山も年を取ったな、と思ったり、社長として若手の育成に力をいれるのは当然のことだ、と思ったり、プロレスの中でつくられる不思議な人間関係や、若いなりに苦労してきたジェイクの来し方を振り返り、複雑な感情が湧いてきた。全日本プロレスは秋山が社長に就任していい団体になったと思う。

さて、九月十七日後楽園でおこなわれた秋山準対ジェイク・リー戦では、ジェイクがジャイアント・キリングで秋山に勝った。シングルではまだ秋山に及ばないと思っていただけにジェイクの勝利にはびっくりした。単に力だけなら若手のほうがすぐれているかもしれないが、試合運びとなると秋山に一日も二日も長がある。ジェイクもその点はまだ足りないと思っていた。

実際、試合の詳報を読むと、秋山の猛攻にジェイクが苦戦を強いられつづけたようだ。が、とにかく一勝を挙げたことは彼にとって大きな自信になるだろう。

わたしは若手の中では青柳よりも、野村よりも、ジェイクがいちばん力があると思っている。彼の膝の攻撃やキックはいかにも重くて迫力がある。野村に較べてスタミナにはやや難があるのかもしれないが、頭を使った攻め方をする。

次の相手は宮原。秋山が父親だとしたら、宮原は兄貴になるだろう。そして宮原もジェイクの成長を待ち望んでいるはずだ。ジェイクはつくづくいい環境にいると思う。奮起して早くトップ戦線に躍りでてほしい。

Monday, September 17, 2018

アマゾンから自己出版→文学賞候補

マルコ・コスカスはフランス系イスラエル人の作家で、今までに十冊以上の本を普通の出版社から出していた。ところが新作 Bande de Francais はどの出版社からも出版を拒否され、とうとうアマゾンから自己出版せざるをえなくなった。

するとどうだろう、この作品がフランスで最も有名な文学賞の一つ、ルノードー賞の候補にあがったのである。

とたんにフランスの書籍販売業者から審査員に「本を守って欲しい、本を脅かす連中を守るのではなく」という要請が出た。

どういうことかというと、アマゾンから出た本は本屋の店頭に並べることができないからである。かりにコスカスの本が賞を受賞したとしても、フランスの書籍業者には一文の溶くにもならないのだ。アマゾンができたときから伝統的な書籍販売業者とのあいだには確執があったが、それがここで大きく再燃した格好である。

しかしアマゾンも本屋も同じ出版業者だと思う人に取っては、これはどうでもいい問題である。どこから出版されようが、その本に価値があれば、文学賞が与えられて当然ではないか。

以前、文学賞は「文学的価値のある本を選ぶ」ためのシステムと考えられていたが、アマゾンが出現してからは、「本を売るための仕掛け」、つまり書籍販売業者が売り上げを伸ばすためのツールという側面が露わになった。よくは知らないが、多分大手の出版社は文学賞にそれなりの金を出しているだろうから、なおさら自分たち以外の業者にその果実をかっさわれることに不満を感じているのである。

が、そういう金にまみれた欲望をあらわに表出することはできないから、「本を守って欲しい」などという体裁のよい要請をでっちあげたのだろう。

AIの活用によって人間の職業に大きな影響が出ると取り沙汰されているが、インターネットの出現により伝統的な出版形式(本だけでなく新聞雑誌なども含む)が変化を余儀なくされているということも、何年も前から言われつづけているではないか。いまさらなにを、というのがわたしの感想である。

ただ、ガーディアン紙に載っていたマルコ・コスカスの意見にはちょっと疑問がある。彼はこう言ったのだ。「なによりもアマゾンは文学的意見を持っていない。それが重要だ。彼らはわたしの書き物の内容にコミットしてこない。彼らはわたしに出版費用を求めることはない。マッチメーカーと同じで、製品が売れたらその分彼らにも金が渡る。わたしはそのどこにも不満はない」

アマゾンははたして文学的意見を持たないだろうか。ここが大きな疑問である。アマゾンも結局のところ企業であり、時の権力と結びつくこともありうる。そのとき、アマゾンは権力との結びつきを巧みに隠蔽しながら検閲や何らかのコントロールをはたらかせようとするだろう。そうした事例は実際すでに起きている。

フランス国内の出版社は反イスラエル的な感情を持ってコスカスの本を拒否したのかもしれないが、国際企業であるアマゾンにとってそんなことはどうでもよいことだった。アマゾンが中立的立場だからコスカスの本を出版したのではなく、利益の得どころがフランスの出版社とは違っていたのである。

この利益の問題を文学的意見のあるなしと見間違ってはいけない。

Saturday, September 15, 2018

「わが名はジョナサン・スクリブナー」 I Am Jonathan Scrivener

クロード・ホートンが1930年に出した名作である。わたしは数回この小説を読み返している。

主人公で語り手でもあるジェイムズ・レクサムはもう四十に近いというから若いとはいえないだろう。戦争を経験し、人生をある程度学んだ彼は、ふとしたきっかけからジョナサン・スクリブナーという紳士の秘書になる。

秘書になるといっても、彼は雇い主にあったことが一度もない。スクリブナーはずっと海外に出ていて、仕事の指示は手紙でなされるだけなのだ。

レクサムは雇い主の家に住み込み、そこで雇い主の知り合いたちと出会う。レクサムは雇い主がどんな人物なのか知りたいと思うのだが、知り合いたちから得た情報はてんでばらばら、一貫した人物像がまるで浮かんでこない。

これはどういうことだろう。レクサムはジョナサン・スクリブナーという謎に取り憑かれ、断片的な手がかりからあたかも推理小説のようにその人物像を再構築していく。

はじめて読んだときはとにかく驚いた。これだけの作品がなぜ人に知られず埋もれているのだろう、と。Goodreads.com の評価を見ればわかるが、この作品に接した人は一様にみなそう思うようだ。

わたしが面白いと思ったのは、この作品が集合論を想起させる点である。どういうことか。たとえば1,2,3,4……という自然数の集合を考える。要素はさまざまな性質を持つ個々の数値で、これが無限に存在する。この個々の自然数の要素の中にすべての自然数という集合それ自体が混入することを考えて欲しい。これが「ジョナサン・スクリブナー」という物語だ。

これはマルクスが商品世界における貨幣の存在について次のようにいったことと関連してくるだろう。

形態IIIにあっては、リンネルは、すべての他商品にとっての等価物という種属形態として現われている。このことはあたかも、分類されて動物界のさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンや虎や兎やその他のすべての実在する動物と並んで、またそれらのほかに、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。自分自身のうちに同じ物の現存種をことごとく包括しているところの、このような単一なるものは、動物や神等々のように、ある普遍的なものである。

集合それ自体が要素の中に混在するなど、奇妙なことだと思われるかもしれないが、マルクスによれば、われわれの社会の根底を作る貨幣は、まさにそのような「奇妙な」存在である。

この集合論をもっと文学に近づけよう。これは「ジョナサン・スクリブナー」の中でも言及されていることだが、シェイクスピアは「万の心を持つ myriad-minded」と言われている。彼はあらゆる階層、あらゆるタイプの人間を生き生きと描き、その想像力の幅の広さではおそらく古今東西で唯一の劇作家である。彼のケースを集合論にあてはめるとこんな具合になる。シェイクスピアの心は集合で、彼が描き出した人物たちはその要素、という具合に。そして「ジョナサン・スクリブナー」が興味深いのは、まさしくすべての要素を含む集合それ自体が、要素にまじって闊歩している点である。

しかもこのような存在は不可能な存在でもある。人間の可能性のすべてを所有しているということは、絶対的に善良な心を持ち、かつまた同時に絶対的に悪の心を持つことでもある。このような矛盾をかかえる一者ははたして存在するのか。いるとすればそれは謎であり神秘である。「ジョナサン・スクリブナー」はその謎と神秘を見事に感じさせてくれる、とてつもない作品なのだ。

英語読解のヒント(184)

184. no matter を使った譲歩 基本表現と解説 No matter how trifling the matter may be, don't leave it out. 「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how ...