日本の著作権(ここでは書籍の著作権に話を限る)の保護期間が現行の五十年から七十年に変更されることはもう決定されたといっていい。カナダも同様である。カナダにはグーテンバーグやフェイド・ペイジというすばらしいサイトがあって、精力的に電子テキストを出しているが、パブリック・ドメインには意外な宝石がいくつも隠れているのだから、冬の期間が始まったなどと思わずに、これからも活動を力強く継続して欲しいと思う。知性というのは低い声で、しかし執拗にささやきつづけるものなのだ。
ひとつだけ、保護期間延長反対派にいいたいことがある。保護期間が延びると作品が死蔵されるなどという意見があるけれど、それは議論のための議論で、わたしなどは、なにを心にも無いことをいっているのか、と怒鳴りたくなる。わたしは知られていない作家や、有名な作家でも知られていない作品を一生懸命探し出してきて読む人間だが、わたしのような酔狂は滅多にいない。ほとんどの人は名の知られた作家、名の知られた作品しか読まないのである。日本人にいたっては読書する人じたいがいなくなっているのだから、もともと話にならないのだけれど。
保護期間が短くたって、興味を持たれなければ作品は死蔵する。逆に保護期間が長くたって、活字文化への興味が大きければマイナーな作品にも光があてられるようになる。わたしが読書少年であったころはそうしたことがよくあった。尾崎翠なんかはいい例である。しかし今の日本ではもうそんなことは起きないだろう。知の領域はすっかり独立性を失い、商業化されてしまっているから。
知の力が世界的に衰退しているという事実を、著作権保護期間の延長は物語っているように思えてならない。
Sunday, December 30, 2018
Saturday, December 29, 2018
年の初めは華やかに
来年正月二日に開催される全日本プロレスの試合の組み合わせが出ていた。新年を迎えるにふさわしい豪華な内容である。
まず新人二人がタッグを組んで青木・佐藤組に対峙する。結果はもちろん見えているけれど、ベテラン二人がどれだけ若手の技倆と本気を引き出してくれるか、また青柳と田村がどれだけ新鮮な風を全日本にもたらしてくれるか、楽しみである。
秋山、丸山、鈴木鼓太郎のチームが、渕、西村、TAJIRI を相手に戦う試合もあるが、この日はお祭り色の濃い興業なので、大いに雰囲気を盛り上がりそうだ。もしかしたら試合の前に六選手がお年玉でもばらまくのじゃないだろうか。
ジュニアヘビー級選手権試合の岩本対岡田戦も結果がある程度見えているが、しかし岡田もいつのまにか後輩を三人持つ身になったので、岩本にひっかき傷もつけられずに敗退したらメンツが立たないだろう。また今までは青木や佐藤がジュニアヘビーのトップにいたが、そのあとを狙う若い有力選手が残念ながら岩本しかいない現状では、岡田に大奮起を期待せざるをえない。W-1の近藤が言っていた通り、岡田が一線に飛び出してきたとき全日本のジュニアヘビーは変わると思う。
世界タッグ選手権、諏訪魔、石川組対ドーリング、ジェイムズ組は豪勢な大玉の打ち上げ花火みたいなもので、どっちが勝つにしろ、一年の初めの景気づけにはもってこいである。いつも思うのだが、ジェイムズはまだまだ遠慮しながら戦っている。ハンセンやブロディみたいにリングの上を我が物顔にのして、雄叫びをあげてよいのである。ファンは無類に強い外国人レスラーといっしょに声をあげたくてならないのだ。
まず新人二人がタッグを組んで青木・佐藤組に対峙する。結果はもちろん見えているけれど、ベテラン二人がどれだけ若手の技倆と本気を引き出してくれるか、また青柳と田村がどれだけ新鮮な風を全日本にもたらしてくれるか、楽しみである。
秋山、丸山、鈴木鼓太郎のチームが、渕、西村、TAJIRI を相手に戦う試合もあるが、この日はお祭り色の濃い興業なので、大いに雰囲気を盛り上がりそうだ。もしかしたら試合の前に六選手がお年玉でもばらまくのじゃないだろうか。
ジュニアヘビー級選手権試合の岩本対岡田戦も結果がある程度見えているが、しかし岡田もいつのまにか後輩を三人持つ身になったので、岩本にひっかき傷もつけられずに敗退したらメンツが立たないだろう。また今までは青木や佐藤がジュニアヘビーのトップにいたが、そのあとを狙う若い有力選手が残念ながら岩本しかいない現状では、岡田に大奮起を期待せざるをえない。W-1の近藤が言っていた通り、岡田が一線に飛び出してきたとき全日本のジュニアヘビーは変わると思う。
世界タッグ選手権、諏訪魔、石川組対ドーリング、ジェイムズ組は豪勢な大玉の打ち上げ花火みたいなもので、どっちが勝つにしろ、一年の初めの景気づけにはもってこいである。いつも思うのだが、ジェイムズはまだまだ遠慮しながら戦っている。ハンセンやブロディみたいにリングの上を我が物顔にのして、雄叫びをあげてよいのである。ファンは無類に強い外国人レスラーといっしょに声をあげたくてならないのだ。
Thursday, December 27, 2018
全日本プロレス2018世界最強タッグ
実際の試合はひとつも見てないが、今年の最強タッグは星取り表を見ているだけでも面白かった。その理由はパロウ・オディンソン組が大活躍し、最後まで優勝戦線にからんだことである。実力のあるレスラーが全日本で大暴れすることは、他団体の所属であろうと、フリーであろうと、海外の選手であろうとファンは大歓迎だ。もっと外部から参入してきてほしいくらいである。
諏訪魔・石川組は、コンビが結成された当時は「ずるい」と思われるくらいの、「最強」同士の組み合わせだったが、それを越えるのがドーリングとジェイムズだった。ドーリングはこのところベルトにからんできていないので、これをきっかけにタッグのベルトだけでなく、三冠にも挑んで欲しい。最強タッグ後半の興業では、体調の関係で、しばらく休場していたようだが、無理をせず、万全の態勢をととのえれば、宮原からのベルト奪取も可能だろう。
ジェイムズも潜在能力はドーリングをしのいでいるのに、なぜかまだトップには通用しない。しかしジョーの次を狙うことができる外国人選手は彼しかしないのだから、わたしは応援している。
ゼウス・ボディガー組がふるわなかったのはちょっと残念だ。ゼウスは三冠を宮原に奪取されてしまったので、是非とも最強タッグで元気なところを見せて欲しかったのだが、なかなかうまくはいかないようだ。いや、もしかしたら雌伏して時を待っているだけなのかもしれないが。
驚いたのは真霜・KAI組が得点を十二まで伸ばしたこと。ぎくしゃくした二人のタッグなので、どうなるかと思ったが、さすがつわもの同士、いったん戦いとなれば、それなりに呼吸を合わせ勝ち星を稼いでいく。なんとか来年もこのコンビでタッグリーグを攪乱して欲しいのだが。
諏訪魔・石川組は、コンビが結成された当時は「ずるい」と思われるくらいの、「最強」同士の組み合わせだったが、それを越えるのがドーリングとジェイムズだった。ドーリングはこのところベルトにからんできていないので、これをきっかけにタッグのベルトだけでなく、三冠にも挑んで欲しい。最強タッグ後半の興業では、体調の関係で、しばらく休場していたようだが、無理をせず、万全の態勢をととのえれば、宮原からのベルト奪取も可能だろう。
ジェイムズも潜在能力はドーリングをしのいでいるのに、なぜかまだトップには通用しない。しかしジョーの次を狙うことができる外国人選手は彼しかしないのだから、わたしは応援している。
ゼウス・ボディガー組がふるわなかったのはちょっと残念だ。ゼウスは三冠を宮原に奪取されてしまったので、是非とも最強タッグで元気なところを見せて欲しかったのだが、なかなかうまくはいかないようだ。いや、もしかしたら雌伏して時を待っているだけなのかもしれないが。
驚いたのは真霜・KAI組が得点を十二まで伸ばしたこと。ぎくしゃくした二人のタッグなので、どうなるかと思ったが、さすがつわもの同士、いったん戦いとなれば、それなりに呼吸を合わせ勝ち星を稼いでいく。なんとか来年もこのコンビでタッグリーグを攪乱して欲しいのだが。
Wednesday, December 26, 2018
今年読んだ本の中で
わたしはあまり人に知られていない、隠れた名作というやつが大好きである。翻訳が出ていないことが多いので、訳しやすいし、宣伝のしがいがある。今年読んだ、そうした本の中でよかったのは三つある。
まず第一位は RENE FUELOEP-MILLER の THE NIGHT OF TIME。これはすごい。軍隊が317高地を攻略するために無謀な戦いをつづける物語だ。ひどくリアリスティックであり、同時にシュールリアリスティックな描写、カフカのような展開に圧倒された。「カチアートを追いかけて」とかアンドレーエフの作品を二葉亭が訳した「血笑記」などが思い出された。Goodreads のサイトを見たらこの本は出てこない。名前すらあがっていないのである。読んでいる人は世界でもそんなにはいないと思う。わたしが読んだのは英訳されたもので、なんとかしてドイツ語の原文を手に入れたいのだが、日本の大学には一冊もないようだ。
第二位は EDGAR MITTELHOLZER の作品群。「エルトンズブロディ」と「わが骨、わがフルート」の二作は訳したが、ほかにも THE SHADOWS MOVE AMONG THEN とかいいのがある。人に知られていないというのはわたし好みで結構なのだが、それは作品が入手しにくいという事実の裏返しであって、困る点でもある。幸い、この本は Internet Archive で借りることができるのでようやく読むことができた。
第三位は STELLA BENSON の LIVING ALONE。これはかなり有名なファンタジー小説なのだが、翻訳はまだ出ていないようだ。ドイツ軍に空爆されるロンドンという、シリアスな状況の中で、魔女の物語が軽やかに展開される、実に風変わりな物語だ。ただわたしは訳さないと思う。この物語のチャーミングさを表現できるような日本語をわたしは持っていないから。
まず第一位は RENE FUELOEP-MILLER の THE NIGHT OF TIME。これはすごい。軍隊が317高地を攻略するために無謀な戦いをつづける物語だ。ひどくリアリスティックであり、同時にシュールリアリスティックな描写、カフカのような展開に圧倒された。「カチアートを追いかけて」とかアンドレーエフの作品を二葉亭が訳した「血笑記」などが思い出された。Goodreads のサイトを見たらこの本は出てこない。名前すらあがっていないのである。読んでいる人は世界でもそんなにはいないと思う。わたしが読んだのは英訳されたもので、なんとかしてドイツ語の原文を手に入れたいのだが、日本の大学には一冊もないようだ。
第二位は EDGAR MITTELHOLZER の作品群。「エルトンズブロディ」と「わが骨、わがフルート」の二作は訳したが、ほかにも THE SHADOWS MOVE AMONG THEN とかいいのがある。人に知られていないというのはわたし好みで結構なのだが、それは作品が入手しにくいという事実の裏返しであって、困る点でもある。幸い、この本は Internet Archive で借りることができるのでようやく読むことができた。
第三位は STELLA BENSON の LIVING ALONE。これはかなり有名なファンタジー小説なのだが、翻訳はまだ出ていないようだ。ドイツ軍に空爆されるロンドンという、シリアスな状況の中で、魔女の物語が軽やかに展開される、実に風変わりな物語だ。ただわたしは訳さないと思う。この物語のチャーミングさを表現できるような日本語をわたしは持っていないから。
Saturday, December 22, 2018
「殺人の構図」 Pattern of Murder
ジョン・ラッセル・ファーンが1957年に書いたミステリ。おそらくファーンが書いたミステリのなかでももっとも出来のよい一作ではないか。
テリーという映写技師が借金に困り、とうとう自分が勤める映画館の金庫から金を盗むことになる。もともとこの映画館には泥棒がよく入っていたので、偽装するのは簡単だった。彼は金を手に入れ、借金を返した。
しかし困ったことが一つ起きた。彼が金庫の金を盗んだ場面を、おなじ映画館に勤める女に見られたのだ。お互い相手の弱点を握っている同士なので、女は黙っていたが、テリーとしては気が気でない。彼は女を殺す計画を立てる。
ここからはちょっと技術的でわたしには本当にこんなことができるのかどうかわからないのだが、テリーはフィルムのサウンドトラックに仕掛けをほどこして人間の耳には聞こえない超音波の衝撃波をつくり出し、それを天上に吊り下がる巨大な照明灯に当てるのだ。するとあらかじめ緩めてあったネジがさらに動き、照明灯がその下にいる女の上に落下するのである。
犯罪が露見しないようにあらゆる手を尽くしたテリーは、完全犯罪を達成したと思った。ところが彼が殺した女の恋人(彼もおなじ映画館に働く映写技師だ)が疑惑を持ち、テリーの殺しの手口を一つひとつ解明していく。
つまり、これは倒叙形式の物語である。そしてじつに面白い。どうしてこんなに面白いのかというと……パルプ小説的なテンポのよさもさることながら、登場人物のキャラクターがじつに際立っていて、それが読んでいて楽しいのである。テリーの鬱屈した性格、彼に殺される女の下町育ちらしいしたたかさ、ヘレンの上品な健全さ、映画館主のその地位にふさわしい落ち着き、テリーを追い詰める同僚技師の無骨さと単純さ、そうした特徴がじつによく表現されている。
ファーンはSF作品で有名だが、本当はミステリを書くことのほうが好きだったのだとか。本作を読むと好きなだけではなく、ミステリの書き手として相当な手練れであったことがわかる。
テリーという映写技師が借金に困り、とうとう自分が勤める映画館の金庫から金を盗むことになる。もともとこの映画館には泥棒がよく入っていたので、偽装するのは簡単だった。彼は金を手に入れ、借金を返した。
しかし困ったことが一つ起きた。彼が金庫の金を盗んだ場面を、おなじ映画館に勤める女に見られたのだ。お互い相手の弱点を握っている同士なので、女は黙っていたが、テリーとしては気が気でない。彼は女を殺す計画を立てる。
ここからはちょっと技術的でわたしには本当にこんなことができるのかどうかわからないのだが、テリーはフィルムのサウンドトラックに仕掛けをほどこして人間の耳には聞こえない超音波の衝撃波をつくり出し、それを天上に吊り下がる巨大な照明灯に当てるのだ。するとあらかじめ緩めてあったネジがさらに動き、照明灯がその下にいる女の上に落下するのである。
犯罪が露見しないようにあらゆる手を尽くしたテリーは、完全犯罪を達成したと思った。ところが彼が殺した女の恋人(彼もおなじ映画館に働く映写技師だ)が疑惑を持ち、テリーの殺しの手口を一つひとつ解明していく。
つまり、これは倒叙形式の物語である。そしてじつに面白い。どうしてこんなに面白いのかというと……パルプ小説的なテンポのよさもさることながら、登場人物のキャラクターがじつに際立っていて、それが読んでいて楽しいのである。テリーの鬱屈した性格、彼に殺される女の下町育ちらしいしたたかさ、ヘレンの上品な健全さ、映画館主のその地位にふさわしい落ち着き、テリーを追い詰める同僚技師の無骨さと単純さ、そうした特徴がじつによく表現されている。
ファーンはSF作品で有名だが、本当はミステリを書くことのほうが好きだったのだとか。本作を読むと好きなだけではなく、ミステリの書き手として相当な手練れであったことがわかる。
Wednesday, December 19, 2018
海賊版の問題
ガーディアン紙の記事「あなたは海賊版の書籍を読んだことがありますか? 海賊版によって影響を受けたことは? 経験を語ってください」に投稿した。
英国の知的財産局によると、オンラインで売られている十七パーセントの本は海賊版が出ているそうだ。約四百万冊だという。出版協会の協会長によると、海賊版を利用しているのは社会的・経済的に富裕な層であって、年齢は三十一から五十台の人々。本が買えない人々ではない。一般にはティーンエイジャーが海賊版利用の主犯者と言われているが、それは間違いであるようだ。
さて、この記事は次の部分が問題である。
「海賊版の広がりは、作者の収入の減少と一致している。世界中どこでもそうだ。イギリスの場合、作者の収入は最低賃金以下に押し下げされた。作者と出版社は海賊版を提供するサイトと戦っているが、際限のない戦いを強いられるという。人気のある海賊サイトをなくさせても、あらたなドメイン・ネームであらたなサイトが立ち上がるだけだからだ」
ここを読むと海賊版が出たから作者の収入が減った、作者と出版社は「ともに」戦っているような印象を与える。とんでもない。出版社は作者を搾取している。出版社がもともと作者の収入を「海賊」していることを無視している。
わたしは以前、ズットナーの「武器を捨てよ!」という本を共訳したことがある。その本は岩波から出版されることになった。そのとき岩波はどういう条件を出したか。初版の収入はすべて岩波のものとする。第二版が出ることになったら、印税はその時点から支払いがはじまる、といったのだ。
本が売れなくて初版で終わっていたら、訳者たちに収入はない。ほかの翻訳者たちは高校や大学の先生であり、岩波から本を出したという事実は彼らの経歴にとって勲章になるのだろう。だから初版は無報酬でもあまりある栄光を手に入れられるのかもしれない。しかしわたしはただの翻訳者だ。無報酬なんてとんでもない。岩波はブラック企業にしか見えなかった。
わたしは岩波の条件を唯々諾々と呑んだほかの翻訳者に嫌気がさし、第二版以後の印税はおまえらのあいだで分けろ、おれはいらない、といって完全に手を切ることにした。
岩波は左翼の牙城のように思われているが、やっていることはブラックである。左翼の学者が岩波にそんなことをさせてはいけない。しかし日本のリベラリズムなどその程度でしかないとわたしは悟った。
こういう記憶があるから、出版社と作者のあいだには根底的な「対立」が存在していることをわたしは知っている。
英国の知的財産局によると、オンラインで売られている十七パーセントの本は海賊版が出ているそうだ。約四百万冊だという。出版協会の協会長によると、海賊版を利用しているのは社会的・経済的に富裕な層であって、年齢は三十一から五十台の人々。本が買えない人々ではない。一般にはティーンエイジャーが海賊版利用の主犯者と言われているが、それは間違いであるようだ。
さて、この記事は次の部分が問題である。
「海賊版の広がりは、作者の収入の減少と一致している。世界中どこでもそうだ。イギリスの場合、作者の収入は最低賃金以下に押し下げされた。作者と出版社は海賊版を提供するサイトと戦っているが、際限のない戦いを強いられるという。人気のある海賊サイトをなくさせても、あらたなドメイン・ネームであらたなサイトが立ち上がるだけだからだ」
ここを読むと海賊版が出たから作者の収入が減った、作者と出版社は「ともに」戦っているような印象を与える。とんでもない。出版社は作者を搾取している。出版社がもともと作者の収入を「海賊」していることを無視している。
わたしは以前、ズットナーの「武器を捨てよ!」という本を共訳したことがある。その本は岩波から出版されることになった。そのとき岩波はどういう条件を出したか。初版の収入はすべて岩波のものとする。第二版が出ることになったら、印税はその時点から支払いがはじまる、といったのだ。
本が売れなくて初版で終わっていたら、訳者たちに収入はない。ほかの翻訳者たちは高校や大学の先生であり、岩波から本を出したという事実は彼らの経歴にとって勲章になるのだろう。だから初版は無報酬でもあまりある栄光を手に入れられるのかもしれない。しかしわたしはただの翻訳者だ。無報酬なんてとんでもない。岩波はブラック企業にしか見えなかった。
わたしは岩波の条件を唯々諾々と呑んだほかの翻訳者に嫌気がさし、第二版以後の印税はおまえらのあいだで分けろ、おれはいらない、といって完全に手を切ることにした。
岩波は左翼の牙城のように思われているが、やっていることはブラックである。左翼の学者が岩波にそんなことをさせてはいけない。しかし日本のリベラリズムなどその程度でしかないとわたしは悟った。
こういう記憶があるから、出版社と作者のあいだには根底的な「対立」が存在していることをわたしは知っている。
Monday, December 17, 2018
信の構造(3)
マリー・コレーリは「悪魔の悲しみ」において見事な現状分析をして見せたと思う。物質主義の発達や啓蒙により、人は一見すると神という迷妄から解き放たれたように見えるが、じつは信の外部化というより奇怪な形で信を継続させていることを描いたのだから。彼女は独自の神話を構成することで創造主と創造物との奇怪な信の関係にまで切り込んでいる。それは芸術家とその創造物の関係にも適用できる、すばらしい洞察である。さらに信の外在化は免罪符のように昔からあるものではあるけれど、十九世紀後半においては資本主義の急激な発達により、いっそう顕著なものとなった。すなわち物の価値や感情までが金によって置き換わる(外在化される)時代が本格的にはじまったのである。そのこともマリー・コレーリはちゃんと見ている。
ところが彼女は転移された信を、単にあやまった信とみなす。そして信が疎外されているなら、それを自分の中に取り戻せ、というのだ。「悪魔の悲しみ」においてすべての中心にあるもの、ジェフリーにとってはあこがれであり、リマネスにとっては「祈る」存在であり、自殺するジェフリーの妻にとっては心の平安を示すもの、それはメイヴィス・クレアである。彼女がなぜ中心なのかというと、彼女はひとりだけ信を内面に保持しているからである。ほかの人々は自らの内部に信を持てない。だからニセ者なのだ。しかし彼女だけは自らと信念が一致している。それゆえホンモノなのだ。だが、ここに彼女の認識の弱さがある。
なにかを信じる、だれかに信を置く(put one's fatih in someone)というのは基本的に己の貴重な一部を外在化し、他者に預けるということではないのか。すなわち、「わたし」の権能の及ばない、それどころか「わたし」の権能を否定する他者にそれを預けるということではないのか。考えて見れば、「わたし」の権能がある程度及ぶ他者があったとして、そのような他者に信を置くのは、本当の意味で信を置くことにはならない。まさに自分と敵対するもの、自分を否定するもの、まったく理解不能なものに信を置くことが、本当の意味での「信」だろう。信はその構造上、もともと疎外されているものではないのか。メイヴィス・クレアは作品を書くことでおのれの信を外在化させている。外在化された彼女の信は、彼女のものであると同時に、彼女のものではない。それは他者(作品)のものであって、本来彼女のものであるはずの彼女の信さえも他者性をおびるのだ。だからこそそれは彼女が憎む批評家たちによって誤解され、また、商品として交換価値をまとうことにもなる。自己と他者の(あるいは同一性と非同一性の)不可解な関係をコレーリはしっかり見定めているが、しかしそこからさらに議論を発展させるのではなく、ナイーブで凡俗な信の通念に逆戻りしてしまっている。
ところが彼女は転移された信を、単にあやまった信とみなす。そして信が疎外されているなら、それを自分の中に取り戻せ、というのだ。「悪魔の悲しみ」においてすべての中心にあるもの、ジェフリーにとってはあこがれであり、リマネスにとっては「祈る」存在であり、自殺するジェフリーの妻にとっては心の平安を示すもの、それはメイヴィス・クレアである。彼女がなぜ中心なのかというと、彼女はひとりだけ信を内面に保持しているからである。ほかの人々は自らの内部に信を持てない。だからニセ者なのだ。しかし彼女だけは自らと信念が一致している。それゆえホンモノなのだ。だが、ここに彼女の認識の弱さがある。
なにかを信じる、だれかに信を置く(put one's fatih in someone)というのは基本的に己の貴重な一部を外在化し、他者に預けるということではないのか。すなわち、「わたし」の権能の及ばない、それどころか「わたし」の権能を否定する他者にそれを預けるということではないのか。考えて見れば、「わたし」の権能がある程度及ぶ他者があったとして、そのような他者に信を置くのは、本当の意味で信を置くことにはならない。まさに自分と敵対するもの、自分を否定するもの、まったく理解不能なものに信を置くことが、本当の意味での「信」だろう。信はその構造上、もともと疎外されているものではないのか。メイヴィス・クレアは作品を書くことでおのれの信を外在化させている。外在化された彼女の信は、彼女のものであると同時に、彼女のものではない。それは他者(作品)のものであって、本来彼女のものであるはずの彼女の信さえも他者性をおびるのだ。だからこそそれは彼女が憎む批評家たちによって誤解され、また、商品として交換価値をまとうことにもなる。自己と他者の(あるいは同一性と非同一性の)不可解な関係をコレーリはしっかり見定めているが、しかしそこからさらに議論を発展させるのではなく、ナイーブで凡俗な信の通念に逆戻りしてしまっている。
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