Monday, April 29, 2019

チャンピオン・カーニバル Bブロック

四月二十八日、後楽園ホールで、全日本プロレス・チャンピオン・カーニバル、Bブロックの最終戦が行われた。つくったような試合結果だったが、たぶんファンとしては大勢の人が待ち望んだ結果になったのではないか。

橋本とサム・アドニス戦、ヨシタツと吉田戦はいずれも勝ち星の少ない方(サム・アドニス、吉田)が勝利を収めた。サム・アドニスはいいキャラを出していた。諏訪魔に勝ったとき、インタビューで、「いままで戦った二人は汚い手を使ってオレに勝ちやがった」などと平気で言っていた。急所攻撃を得意にしているくせに、よく言うよ、と思わず笑ってしまった。愉快な男なので、ときどき全日のリングに上がって、インタビューでも楽しませてほしいと思う。

ジェイク・リー対ジョー・ドーリング、および諏訪魔対野村は、いずれも若手が勝利した。若い世代の台頭は目を瞠るばかりだが、逆に、もうそろそろ若手といわれる時期を脱出して全日の主戦力となってもらわないと困る、という気持ちもある。ジェイクも野村も体格に恵まれているのだから、さらに経験を積んで、迫力や風格を身につけてほしい。今回は優勝戦進出者決定戦でジェイクが勝ったが、実力差は紙一重だろう。野村の心中は推し量るにあまりあるが、ファンは彼のような姿にこそ自分を重ねて応援するものである。心機一転、営業にも試合にもがんばってほしい。

Sunday, April 28, 2019

精神分析の今を知るために(4)

こんなユダヤ人ジョークがある。若い男が汽車に乗り、歳老いた男の隣に座った。歳老いた男は「喉が渇いた、喉が渇いた」と言いつづけている。とうとう若い男は我慢できなくなり、べつの車輌に行って水を持ってきて老人に与える。老人は水を飲んで静かになる。しかし数分すると老人はもじもじしだし、ついに叫び出す。「あんなに喉が渇いていたのに、あんなに喉が渇いていたのに」これは人間の欲望がどう働くかをよく示しているジョークだ。なにが老人の不満なのか。不平を言う目的はなんなのか。老人はこう云っているように見える。「おまえはわたしの demand を満足させることができる。わたしは水を要求し、あなたはそれを与えてくれた。しかしわたしの desire はまだ継続している」老人は喉の渇きをいやしたいというより、「喉の渇いた人間」として認められたいのである。つまり他者を操作、支配することが問題なのだ。

Aaron Schuster の講演から

Friday, April 26, 2019

COLLECTION OF ENGLISH IDIOMS

早稲田大學敎授 深澤裕次郎著
應用英文解釋法
東京英文週報社發行

(p. 29-31)

範例
The newly married couple was driving in a coach and four.
心魂の夫婦が四頭立の馬車を驅て居た。

解説
four, six の次には horses を、pair の次には of horses を省略せり。
  A coach and pair
    = A coach drawn by a pair of horses
   二頭立の馬車
  A coach and four
    = a coach drawn by four horses
   四頭立の馬車
  A coach and six
    = A coach drawn by six horses
   六頭立の馬車

比較
Gin and (= diluted with) water = 水を割つたヂン酒。
Brandy and (= diluted with) water = 水を割つたブランデー。

用例
1.  The party drove off in a carriage and pair.
    Times
    一行は二頭立の馬車に乗つて立ち去つた。
  carriage and pair の形は十八世紀の中頃より始まりしものにして、それ以降には carriage の代りに coach を用ひたり。
2.  He might have been rolling at that moment in his chariot-and-pair.
    C. Dickens
    彼は其時二頭立の馬車に乗り廻つて居たかも知れぬ。
3.  Is there a hole in my belly, that you may turn a coach-and-six in?
    Otway
    わしの腹には六頭立の馬車を入れる穴が有るか。
4.  A coach-and-four, resplendent in liveries, stopped at the door: I knew it well, and so did all Norton Bury.
    Mrs. Craik
    着飾つた從僕を隨へた四頭立の馬車が門前に着いた、私はこの場所をよく知て居る、ノートンベリの人も皆よく知て居る。
5.  "Did you ever know a man come out to do either, in a chariot and pair, you ridiculous old vampire?" said the irritable doctor.
    D. Dickens
    「貴樣は人が二頭立の馬車に乗つて泥棒をしたり人殺しをしたりしにやって來ると思ふか、この唐變木め」と醫者は怒つて云つた。
6.  If a person wishes to describe any small thing as very large it is common to say that it is big enough to turn a coach-and-six in.
    N. W. Lincolnsh. Gloss.
    人が小さきものを甚だしく大きく云はむとする時には六頭立の馬車を入るゝほど大きいと云ふのが普通である。
7.  The roads in that country are so bad and unsafe that I was obliged to hire a coach and pair, and to engage two servants besides the coachman.
    N. E. R. IV.
    其國の道路は中々險惡で物騷で有たから、私は二頭立の馬車を借り、馭者の外に二人の從僕を雇はなければならなかつた。
8.  The art of driving a coach and four through an Act of Parliament was then practised with far more boldness than is possible now.
    F. Pollock
    當時にありては所謂「法令を通して馬車を駆る」と云ふことは今日よりも遙かに大膽に行はれたり。
To drive coach and four (six) through Act of Parliament「法令を無視す」「法令を蹂躙す」「法律(?)の裏を掻(?)く」「法律(?)をやぶる(?)」等の意。
9.  This man [Rice] was often heard to say, before he came to be a judge, that he would drive a coach and six horses through the Act of Parliament.
    Welwood



註 印刷が薄く判別不可能な字が多数あった。

  此人[ライス]は判事になる前には法令を通して六頭立の馬車を駆らうと口癖に云つて居た。
10. As Addiso, it is not to his poetical works or his essays that he owes the honor of having a street named after him; it is to the fact of having been a statesman driving his carriage and pair through London streets.
    Max O'Rell
    アヂソン(ロード)に就いても彼の名を町に附せられる榮を得たのは彼の詩又は文章の爲にではない、彼が政治家として二頭立の馬車を駆り倫敦市中を走つたのに因る。
11. You may talk vaguely about driving a coach and six up a good old flight of stairs, or through a bad young Act of Parliament; but I mean to say you might have not a hearse up that staircase, and taken it broadwise, with the splinter bar towards the wall, and the door towards the balustrades: and done it easy.
    C. Dickens
  古い梯子段に六頭立の馬車を引き上げるとか、出來た計りの惡法令を通して六頭立の馬車を驅ると云ふやうな言が有るが私の云はうとするのは其梯子段には柩車を引き上げる事が出來る而も其梶棒を壁の方に向け戸を欄干の方に向け、たやすく横さまにそれを引き上げる事が出來ると云ふのだ。

Wednesday, April 24, 2019

みとけよコノヤロー、ヘビー級

チャンピオン・カーニバルに一人、ジュニア・ヘビー級の選手として参加している青木篤が四月の二十三日、仙台大会でヴァレッタを破り三勝目をあげた。青木の体格で三勝もできたのはすごい。彼が勝ったのは青柳、崔、そして今回のヴァレッタだ。青柳は青木からしてみればはるか後輩だが、得意技が決まればゼウスにも勝つ男である。崔は仙台大会では岡林を撃破した。ヴァレッタはラフ攻撃をしかけて、成績上位陣に土をつけてきた。こういう多彩な敵を相手に勝ちを納めることができたのは、やはり青木の経験、作戦、頭脳、そして意地のおかげだろう。彼は試合後のインタビューで「みとけよコノヤロー、ヘビー級」と言った。いい台詞だ。ただわたしとしては、ジュニアのチャンピオンである岩本にこのトーナメントに出場してもらい、この台詞を言ってもらいたかった。

仙台大会のメインは石川修司とディラン・ジェイムスの一騎打ちだった。十五分闘って、ジェイムスが石川に勝った。ディランは身体がすこし大きくなったように思う。その分だけ逆水平チョップの威力が増したような気がする。全日ホームページにはこの試合の写真(この大会の紹介ビデオは出ていない)が出ていた。ジェイムスが右手で石川の胸にチョップをたたき込んでいるのだが、ダイナミックな両雄の動きと、つくりものではない表情を捉え、すばらしい報道写真になっている。ジェイムスは試合後、ジョーとの世界タッグ挑戦を要求したが、彼らが勝ったら久しぶりの外国人コンビ・チャンピオン誕生ということになる。若い世代のヘビー級が台頭してきて全日本はほんとうに面白くなってきた。

Monday, April 22, 2019

超能力と国家

The Guardian 紙の文芸欄に、ある新刊本の一部を面白く要約した記事が出ていた。エド・ホーキンス(Ed Hawkins)という作者が書いた「魔法の絨毯に乗った男たち」(The Men on Magic Carpets)の紹介記事である。

冷戦時代に米ロが超能力の研究をしていたことは有名な事実だが、まさかそれが今もつづいているとは知らなかった。

アメリカにおける研究のきっかけとなった人物はマイク・マーフィー。大学で宗教学を研究し、いわゆるニューウエーブ的なヨガ哲学にいかれた男である。1964年、サンフランシスコで行われたサンフランシスコ・ジャイアンツ対LAドジャースの試合で、彼は前者に呪いの精神波を送り、そのたびにドジャースは凡プレイを犯し、試合はジャイアンツの勝利に終わったそうだ。

彼はイーサレンという超能力研究所をつくり、アメリカの軍部やCIAの注目を引いた。ソ連が超能力を研究していると知り、アメリカもおなじ研究に手を染めなければまずいと考えられたのである。マーフィーの知り合いにクレアボーン・ベルという議員がいたことも彼に利した。ホワイトハウスの会議でベルは超能力研究の必要性を説いたのだ。

その結果マーフィーはウエストポイント軍事アカデミーで身体を見えなくする術やら、未来を見通す力や予知能力などを教えることになった。これが「プロジェクト・ジュダイ」というやつである。

マーフィーは超能力を持つ人間がその才能をもっとも発揮しやすい分野はスポーツであると考える。彼によるとスポーツは西洋のヨガなのだそうだ。合気道の植芝盛平とかサッカーのペレとかの例を出して、その超人的な能力を superpower と呼んでいる。今年九十歳になろうとしているマーフィーは、いまでもスポーツの分野に注目し、超人的なスターがあらわれるのを見守っているそうだ。

超能力なんて、うさんくさいものの代表だが、それを軍部が真面目に研究しているとは驚きだ。しかしこういう話は週刊誌的な面白さがある。図書館とかで購入されたら、この本はちょっと手にとってみたい。

Saturday, April 20, 2019

図書館は海賊なのか

漫画だけでなく、文字が主体の書籍も海賊版がネット上に出回っている。それも相当な数の海賊サイトが存在しているそうだ。出版社や作家は、自分たちの収入に悪影響を与えると抗議をし、これを報じる人々も違法なダウンロードはしてはいけないという立場から記事を書く。

わたしが好きなガーディアン紙には、すこし前に海賊版の利用を非難する記事が出ていたが('I can get any novel I want in 30 seconds": can book piracy be stopped?)、その問題の立て方の単純さにはちょっとあきれる。

わたしは知はその性格上、資本主義的な体制と相容れない、そのことが海賊版の問題となってあらわれていると、議論しているのだが、この記事の書き手は資本主義的体制を当然の前提と考え、単に海賊本をダウンロードするのはいけないと論じているだけだ。

それなら図書館という存在は、この議論の中でどう位置づけられるのか。本を買わなくても読める、この公共施設と海賊版サイトのあいだにどのような本質的差異があるというのか。

最近は図書館に行くと通帳をつくってくれるところもあるそうだ。通帳には借りた本の値段が記入され、本をたくさん借りるほど、その累計金額は増えていく。本を実際に買ったらこれだけになりますよ、それがただで読めたのですよ、という事実を眼に見える形で表現したのが図書館の通帳といわれるやつである。ある意味でずいぶん「えぐい」サービスだが、それこそが図書館の機能である。知を売るのではなく、無償で拡散し、文化を広げるのが図書館である。

わたしは海賊版サイトを新手の図書館である、などと言っているのではない。このようなサイトができるのは、もともと知とか情報には拡散をうながす力、資本主義的原理を無視した力が備わっているからだといいたいのである。そこを無視し、頭から資本主義的原理を是とする議論にはつきあいきれない。強力な法的規制を敷いて海賊版を取り締まれと叫ぶ作家もいるが、彼らは知の性格に対する洞察に欠けている。そんな作家の作品は無料配布されていてもわたしは読まないだろう。

(公共図書館は税金で支えられている。さらにイギリスの図書館では借りられた回数に応じて作者に支払いがなされるシステムだ。だからわれわれは料金をまるきり払っていないというわけではない。しかしわたしなどは図書館通帳をつくれば数十万円にも及ぶであろう冊数の本を借りているのだから、税金として支払う額と図書館から受ける恩恵のあいだに大きな差が生じていることは明らかだ)

Thursday, April 18, 2019

知の拡散

わたしの翻訳した本が海賊版となって出まわったならわたしはどうするか。

放っておく。

べつに気にしない。

知的な財産と資本主義的な体制のあいだにはおかしな齟齬が存在する。知的なものは拡散されればされほど力を得る。より多くの人に知が広がるほど、その知の優秀性が証明される。

ところが資本主義的な権利というやつは、知の無制限な拡散を食い止めようとする。それは利益を生み出す限りに於いて拡散を認めるのである。商業的な経路を通じて広がるぶんにはかまわないが、海賊版のような形で広がることは禁止しようとする。

しかし電車やホテルの中で読み捨てられた本を見つけ、楽しいひとときを過ごしたことはないだろうか。わたしは中国で大学の宿舎に入って生活していたことがあるが、入居した初日、戸棚を開けると、上から下までびっしり先住者の本が詰まっているのを見てびっくりしたことがある。すべて英語とドイツ語の本だったので、わたしはしばらく本を買う必要がないくらいだった。そんな商業経路からははずれた形でわれわれは知に接することがよくある。古本屋でも、ほとんどただ同然で貴重な本を手に入れることがある。図書館も知の拡散のための場所である。よい本を読んで興奮したようにその本について語る友人の言葉を聞きながら、なるほどそういう考え方もあるかと思ったこともある。植物が魅力的な実をつけて鳥の食欲を誘い、種を拡散させるように、知も人を惹きつけて、みずからの種を広範囲にばらまかせようとする。

知というのは資本主義的な規制を乗り越えて広がろうとする。わたしの翻訳の海賊版が出回るなら、それは知の性質上しかたのないことであり、それどころか慶賀すべきことではないかとさえ思っている。

英語読解のヒント(184)

184. no matter を使った譲歩 基本表現と解説 No matter how trifling the matter may be, don't leave it out. 「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how ...