フロイトはある女性の夢に見事な解釈をほどこしている。彼女はある夢をフロイトにむかって語ることをいやがった。その夢はあまりも曖昧模糊としているから、というのがその理由だった。後になって彼女は多くの男性と性的交渉を持っていることがわかった。その事実から夢の内容が判明した。つまり彼女は多数の男性と交わった結果、誰の子をはらんだのかわからないというものである。フロイトの解釈の見事なのは、夢の形式、すなわち曖昧模糊としているということが、抑圧された内容を直接的に夢に刻みこんでいると考えるところだ。女性は自分の問題(誰が子供の父親なのか)に向き合おうとしない。夢の中ですらそれができない。しかし内容から排除された要素は形式となって回帰する。
Slavoj Zizek - Form And Content In The Arts から
Sunday, October 27, 2019
Friday, October 25, 2019
エミリオ・ルッス「戦場の年」
第一次世界大戦を描いた小説や回想録を手当たりしだいに読んでいるが、これはちょっと記憶に残る作品である。将校や将軍のでたらめな指示によって無駄に失われる兵士の生命。人望のない上官に対する兵士の不満。過酷な塹壕戦が展開されるなか、兵士のあいだに広がる厭戦気分、そして反乱。良識を失った将校による、軍規を無視した処罰。それを食い止めようとしてその将校を射殺しようとするべつの将校。さまざまなエピソードが詰まっていて、その一つ一つがすばらしくドラマチックだ。しかもそのドラマは、淡々と語られているが故に、いっそう印象に残る。
この翻訳書の後書きによると、こうしたエピソードはほとんど事実に基づいていることが調査で確認されているという。戦争の現実がどのようなものであったのか、それを知りたいならまず第一に読むべき本だろう。翻訳も堅苦しいけど、悪くはない。
この翻訳書の後書きによると、こうしたエピソードはほとんど事実に基づいていることが調査で確認されているという。戦争の現実がどのようなものであったのか、それを知りたいならまず第一に読むべき本だろう。翻訳も堅苦しいけど、悪くはない。
Tuesday, October 22, 2019
The Blood of the Vampire by Florence Marryat (1897)
この本は The British Library から PDF 化されたものを手に入れた。The Internet Archive にもない本なので、非常にありがたかった。
マリアットはもちろんあのフレデリック・マリアットの娘で、十九世紀世紀末に活躍した女流作家の一人である。「吸血鬼の血」は彼女がヴィクトリア女王在位60年周年記念式典、いわゆるダイヤモンド・ジュビリーの年に発表した作品だ。
ハリエット・ブラントというジャマイカから来た若い娘が主人公である。彼女は莫大な富を持ち、父も母もいないため、気ままに親友とヨーロッパを旅している。彼女は美貌とすばらしい歌声の持ち主で、人を惹きつけずにはいなかった。しかし彼女と親しくする者は、みなその生気を吸い取られ、衰弱して、ついには死んでいってしまうのである。間接的に彼女の両親を知るとある医者は、彼女には吸血鬼の血が流れているという。
ハリエットにまつわる黒い噂を信じず、熱烈に彼女を愛する作家フィリップは、性急に彼女と結婚し新婚旅行に出かけるが、やはり彼も旅の途中で体調を崩し、ある朝ベッドのなかで死体となって発見される……。
ヴィクトリア朝というのはイギリスが海外に覇権を広げていった時代だが、この頃になるとこの拡張主義がいろいろな国内問題をもたらしはじめる。「なにかがうまくいっていない」という意識がイギリスに広まるのである。一読した印象は、この作品はそうした不安感を表現しているな、というものだった。
問題の一つは強欲資本主義の発展で、これはこの作品の中では靴工場を経営するゴベリ男爵夫人にあらわされている。肥満した巨大な身体を持ち、夫や息子を顎でこき使い、労働者に対する人権の意識など露ほどもなく、無教養で、貪欲で、人を騙すことなど屁とも思わぬ、現代の資本家のような女である。
もう一つの問題はジャマイカ生まれのハリエットによってあらわされている。なるほどイギリスは海外に発展して富を国内にもたらしたが、それ以外のもの、負の側面を持つものも持ち込んでしまった。たとえばそれは病気である。ハリエットは自分が吸血鬼的な力を持っていることを知ると、自分はらい病患者のように世間から爪弾きされる存在なのかと悲しむが、彼女の性的魅力を考えると、らい病というより彼女は梅毒をあらわしているような気がする。まあ、病名はどうであれ、彼女が帝国主義の進展によって生まれた、イギリス社会にとってなにかしら不都合なものを表象していることは間違いない。
ただこういう解釈は歴史的・社会的データを援用して強化はできるが、知的な意味ではまるで面白くないという欠点がある。時代をあらわす作品ではあるので、なんとか新しい視点が見つけたいと思うのだが。
マリアットはもちろんあのフレデリック・マリアットの娘で、十九世紀世紀末に活躍した女流作家の一人である。「吸血鬼の血」は彼女がヴィクトリア女王在位60年周年記念式典、いわゆるダイヤモンド・ジュビリーの年に発表した作品だ。
ハリエット・ブラントというジャマイカから来た若い娘が主人公である。彼女は莫大な富を持ち、父も母もいないため、気ままに親友とヨーロッパを旅している。彼女は美貌とすばらしい歌声の持ち主で、人を惹きつけずにはいなかった。しかし彼女と親しくする者は、みなその生気を吸い取られ、衰弱して、ついには死んでいってしまうのである。間接的に彼女の両親を知るとある医者は、彼女には吸血鬼の血が流れているという。
ハリエットにまつわる黒い噂を信じず、熱烈に彼女を愛する作家フィリップは、性急に彼女と結婚し新婚旅行に出かけるが、やはり彼も旅の途中で体調を崩し、ある朝ベッドのなかで死体となって発見される……。
ヴィクトリア朝というのはイギリスが海外に覇権を広げていった時代だが、この頃になるとこの拡張主義がいろいろな国内問題をもたらしはじめる。「なにかがうまくいっていない」という意識がイギリスに広まるのである。一読した印象は、この作品はそうした不安感を表現しているな、というものだった。
問題の一つは強欲資本主義の発展で、これはこの作品の中では靴工場を経営するゴベリ男爵夫人にあらわされている。肥満した巨大な身体を持ち、夫や息子を顎でこき使い、労働者に対する人権の意識など露ほどもなく、無教養で、貪欲で、人を騙すことなど屁とも思わぬ、現代の資本家のような女である。
もう一つの問題はジャマイカ生まれのハリエットによってあらわされている。なるほどイギリスは海外に発展して富を国内にもたらしたが、それ以外のもの、負の側面を持つものも持ち込んでしまった。たとえばそれは病気である。ハリエットは自分が吸血鬼的な力を持っていることを知ると、自分はらい病患者のように世間から爪弾きされる存在なのかと悲しむが、彼女の性的魅力を考えると、らい病というより彼女は梅毒をあらわしているような気がする。まあ、病名はどうであれ、彼女が帝国主義の進展によって生まれた、イギリス社会にとってなにかしら不都合なものを表象していることは間違いない。
ただこういう解釈は歴史的・社会的データを援用して強化はできるが、知的な意味ではまるで面白くないという欠点がある。時代をあらわす作品ではあるので、なんとか新しい視点が見つけたいと思うのだが。
Monday, October 21, 2019
「ジゴマ」と「ファントマ」
ジゴマもファントマも今の人は聞き覚えがないかもしれない。しかしレオン・サヂイが生み出した怪盗ジゴマは、かつてその映画バージョンが日本でずいぶん人気を博したのだ。ただ、怪盗ジゴマは残酷で、子供に悪い影響を与えるなどといった理由から上映禁止になったりもした。ファントマは日本での評判はジゴマほどではなかったが、それでもこの作品はジェイムズ・ボンドが立ち向かうゴールド・フィンガーとか、「子羊たちの沈黙」のレスター博士とか、そうした悪の形象の源泉を形づくった重要な作品である。
いずれの作品も久生十蘭が翻訳している。地の文章は文語体、会話の部分は口語体になっているが、非常に出来のいい文章でぐいぐい読ませる。翻訳は訳文が正確であることよりも、小説の文章になっていることのほうが大切だとわたしは思っているので、久生十蘭の翻訳をわたしは大いに買う。ずっと以前に彼の「鉄仮面」を読んだが、あれもよかった。
久生の話はともかく、ジゴマもファントマも大都会が成立して生まれてきた犯罪小説である。誰もが誰もを知っている田舎社会の物語ではない。人間関係が複雑に入り組み、表面を見ただけでは誰と誰が、どのようなつながりを持っているのかわからないような社会、そして意外なつながりが形成されうる密やかな機会を提供しうる社会が背景となっている。そこで事件が起きると、事情をしらないわれわれは虚を突かれあわてふためく。いったいなにがあったのか。事情が複雑すぎてその原因がわからないこともある。都会にひそむそうした悪を形象化したのがジゴマであり、ファントマである。彼らが小説の中で姿をあらわすことはめったにない。ほとんどの場合は探偵が不可解で不可能な犯罪に直面したとき、「きっとファントマの仕業だ」とつぶやくだけである。彼らは不可視の悪を体現しているのだからそれももっともである。
いずれの作品も久生十蘭が翻訳している。地の文章は文語体、会話の部分は口語体になっているが、非常に出来のいい文章でぐいぐい読ませる。翻訳は訳文が正確であることよりも、小説の文章になっていることのほうが大切だとわたしは思っているので、久生十蘭の翻訳をわたしは大いに買う。ずっと以前に彼の「鉄仮面」を読んだが、あれもよかった。
久生の話はともかく、ジゴマもファントマも大都会が成立して生まれてきた犯罪小説である。誰もが誰もを知っている田舎社会の物語ではない。人間関係が複雑に入り組み、表面を見ただけでは誰と誰が、どのようなつながりを持っているのかわからないような社会、そして意外なつながりが形成されうる密やかな機会を提供しうる社会が背景となっている。そこで事件が起きると、事情をしらないわれわれは虚を突かれあわてふためく。いったいなにがあったのか。事情が複雑すぎてその原因がわからないこともある。都会にひそむそうした悪を形象化したのがジゴマであり、ファントマである。彼らが小説の中で姿をあらわすことはめったにない。ほとんどの場合は探偵が不可解で不可能な犯罪に直面したとき、「きっとファントマの仕業だ」とつぶやくだけである。彼らは不可視の悪を体現しているのだからそれももっともである。
Saturday, October 19, 2019
精神分析の今を知るために(9)
精神分析が最初に教えてくれることはこういうことだ。人々の生き方の根本にあるものは、宗教とか習慣といった、たんなる文化的な特徴ではない。そうではなくラカンがいう「享楽」、過剰な快楽である。生の根本にあるのは「現実(ルレール)」なのだ。この「現実」は二つのレベルで物質化する。第一に権力との関係において。第二に性的な関係において。
わたしをレイシスト呼ばわりする左派の人々に「異なる文化が共存するとはどういうことか」と問うと、彼等はいつも単純な例をあげる。彼等特有の言語、詩、歌、食べ物などが許されるべきだ、云々と。しかし次のような例はどうだろう。
十五年ほど前、ジプシーの十二歳の少女が家出した。父親がその友人に、彼女を嫁として差し出そうとしたからである。彼女はスロベニアの公的機関にそのことを訴え、保護を求めた。そのときジプシーはこう反論した。あなたたちはわれわれの生き方を尊重するのか。親が子の結婚を決定することはジプシーの生活の根本を形成している。それを奪うことはジプシーのコミュニティーを消滅させることに等しい、と。
権力との関係に於いても例をあげよう。インドにおいてカースト制度は今でも彼等の生活の根本を形づくる要素である。ポストコロニアリズムを研究する学者でさえ、インド社会の平等についてわたしが問うと、帝国主義的な西欧の観念を押しつけてくるなと反論してくる。
快楽を統御する複雑なやり方、結婚の交渉とか女性の服従とか、そういったものは単純な生物学的快楽を社会的快楽へと変換するものである。
われわれが他者を吸収・統合しようとするとき、問題となるのはその際にわれわれが他者の民族的「享楽」を剥奪しようとしてしまうことである。
(ジジェクの講演から)
わたしをレイシスト呼ばわりする左派の人々に「異なる文化が共存するとはどういうことか」と問うと、彼等はいつも単純な例をあげる。彼等特有の言語、詩、歌、食べ物などが許されるべきだ、云々と。しかし次のような例はどうだろう。
十五年ほど前、ジプシーの十二歳の少女が家出した。父親がその友人に、彼女を嫁として差し出そうとしたからである。彼女はスロベニアの公的機関にそのことを訴え、保護を求めた。そのときジプシーはこう反論した。あなたたちはわれわれの生き方を尊重するのか。親が子の結婚を決定することはジプシーの生活の根本を形成している。それを奪うことはジプシーのコミュニティーを消滅させることに等しい、と。
権力との関係に於いても例をあげよう。インドにおいてカースト制度は今でも彼等の生活の根本を形づくる要素である。ポストコロニアリズムを研究する学者でさえ、インド社会の平等についてわたしが問うと、帝国主義的な西欧の観念を押しつけてくるなと反論してくる。
快楽を統御する複雑なやり方、結婚の交渉とか女性の服従とか、そういったものは単純な生物学的快楽を社会的快楽へと変換するものである。
われわれが他者を吸収・統合しようとするとき、問題となるのはその際にわれわれが他者の民族的「享楽」を剥奪しようとしてしまうことである。
(ジジェクの講演から)
Wednesday, October 16, 2019
黒潮"イケメン"二郎
旧聞に属するが、9月18日に行われた全日本プロレス新木場大会ではメインイベントとして宮原健斗対黒潮"イケメン"二郎戦が組まれた。全日の公式Youtubeチャンネルでその試合のダイジェストを見たが、じつによかった。黒潮"イケメン"二郎は明るくて華のある選手だ。コスチュームといい、その色合いといい、あの長髪といい、ダイナミックなキックといい、ロープ越しのジャンプといい、いちいち人目を引き、観衆をわかせる派手さを持っている。もちろん実力もあって、何度も宮原を追い込んでいた。実力があるだけではなく、きっとこういうエンターテイメント性の強い選手が今後のプロレスを引っ張っていくのではないだろうか。
宮原が試合後、彼といっしょにマイクパフォーマンスをしたのもよかった。宮原は選手の少ない全日本プロレスの盛り上げ方、これからの会社の戦略をよく理解して行動している。それは全日本以外の選手を積極的に取り込んでいくという戦略である。そのためには良い選手とはタッグチームを作ることもある。諏訪魔と石川のコンビとか、宮原とヨシタツのコンビ、ゼウスと崔のコンビなどがそのいい例だ。さらにヨシタツとレッドマンのコンビとかも期待大である。イケメンは試合後のインタビューで、アメリカに行く前に一度宮原と組んでやってみたいと言っていたが、こういうふうに将来の可能性の種をまくことが全日本をひっぱるエースの仕事である。
若手が宮原から三冠奪取をねらっているが、はたして彼らにこういう仕事ができるか。
宮原が試合後、彼といっしょにマイクパフォーマンスをしたのもよかった。宮原は選手の少ない全日本プロレスの盛り上げ方、これからの会社の戦略をよく理解して行動している。それは全日本以外の選手を積極的に取り込んでいくという戦略である。そのためには良い選手とはタッグチームを作ることもある。諏訪魔と石川のコンビとか、宮原とヨシタツのコンビ、ゼウスと崔のコンビなどがそのいい例だ。さらにヨシタツとレッドマンのコンビとかも期待大である。イケメンは試合後のインタビューで、アメリカに行く前に一度宮原と組んでやってみたいと言っていたが、こういうふうに将来の可能性の種をまくことが全日本をひっぱるエースの仕事である。
若手が宮原から三冠奪取をねらっているが、はたして彼らにこういう仕事ができるか。
Friday, October 11, 2019
フリーソフト
わたしは翻訳の際、エディタに Mery というフリーソフトを使っている。これはほんとうにすばらしい。わたしが使っているコンピュータは十年以上前に買ったもので、もちろん OS は XP である。CPU はセルロンのなんとかで、非力なことこの上ない。しかしそんなマシンでも Mery は快適に動く。
さらに縦書きができる。英語を訳すときには英語に合わせて横書きで日本語を書いていくのだが、訳文を読み返すときは縦書きでないとなんだか落ち着かないのだ。最終的に商品として提供するときは縦書きなので、その見栄えをチェックするという意味もある。縦書きのできるフリーソフトはほかにもあるのだが、Mery 以前にはあまりよいものがなかった。ファイルが大きくなるとわたしのコンピュータでは動きが遅すぎて使い物にならなくなるのだ。しかし Mery は一メガバイトくらいのテキストなら即座に開けるし、編集も問題なく出来る。わたしの使い方は他の人と較べたら隨分単純なものだけど、そんな単純な用途に充分役立つエディタは、案外なかったのだ。
わたしはコンピュータに接するようになって感動したことが二つある。一つはプロジェクト・グーテンバーグのようにパブリック・ドメイン入りしたテキストを無料で提供する活動。もう一つはすぐれたフリーソフトを無料で提供するすばらしいプログラマー達の存在である。
とくにはじめてフリーのエディタを使ってみたときは呆然とした。それは横書きしかできないものだったけれど、機能も豊富で動きもきびきびしていた。こんなにいいソフトが無料で使えるのかと、わたしは感動して胸が熱くなった。そして無料のエディタを使う内に、自分もなにかお返しができないだろうか、無料でよいものを提供するというこの「場」にわたしも参加できないだろうかと思うようになった。それからパブリック・ドメイン入りしたテキストを入力をしたり、翻訳を無償で提供したりするようになったのである。
そういうわけでエディタを作っているプログラマーの方々には感謝の念を抱いている。永年愛用している Mery の作者さまには特に感謝したい。
さらに縦書きができる。英語を訳すときには英語に合わせて横書きで日本語を書いていくのだが、訳文を読み返すときは縦書きでないとなんだか落ち着かないのだ。最終的に商品として提供するときは縦書きなので、その見栄えをチェックするという意味もある。縦書きのできるフリーソフトはほかにもあるのだが、Mery 以前にはあまりよいものがなかった。ファイルが大きくなるとわたしのコンピュータでは動きが遅すぎて使い物にならなくなるのだ。しかし Mery は一メガバイトくらいのテキストなら即座に開けるし、編集も問題なく出来る。わたしの使い方は他の人と較べたら隨分単純なものだけど、そんな単純な用途に充分役立つエディタは、案外なかったのだ。
わたしはコンピュータに接するようになって感動したことが二つある。一つはプロジェクト・グーテンバーグのようにパブリック・ドメイン入りしたテキストを無料で提供する活動。もう一つはすぐれたフリーソフトを無料で提供するすばらしいプログラマー達の存在である。
とくにはじめてフリーのエディタを使ってみたときは呆然とした。それは横書きしかできないものだったけれど、機能も豊富で動きもきびきびしていた。こんなにいいソフトが無料で使えるのかと、わたしは感動して胸が熱くなった。そして無料のエディタを使う内に、自分もなにかお返しができないだろうか、無料でよいものを提供するというこの「場」にわたしも参加できないだろうかと思うようになった。それからパブリック・ドメイン入りしたテキストを入力をしたり、翻訳を無償で提供したりするようになったのである。
そういうわけでエディタを作っているプログラマーの方々には感謝の念を抱いている。永年愛用している Mery の作者さまには特に感謝したい。
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英語読解のヒント(184)
184. no matter を使った譲歩 基本表現と解説 No matter how trifling the matter may be, don't leave it out. 「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how ...
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アニー・ヘインズは1865年に生まれ、十冊ほどミステリを書き残して1929年に亡くなった。本作は1928年に発表されたもの。彼女はファーニヴァル警部のシリーズとストッダード警部のシリーズを書いているが、本作は後者の第一作にあたる。 筋は非常に単純だ。バスティドという医者が書斎で銃...