最近は試合のダイジェストビデオが頻繁に更新されるのでうれしい。地方興行でお客さんがたくさん入っているのを見ると、さらにうれしい。
高松大会ではジョー・秋山組とゼウス・崔組の試合がまず最初に紹介されている。ゼウスは何度見てもいい選手だ。あの体型をずっと維持しているのだから、練習量も半端じゃないだろう。誰と対戦しても彼の腕や肩や背中の筋肉が縄目のように盛り上がると、いい試合を見ているような気になる。それに比べると崔はすこし太ってきて、動きにやや精彩を欠いていた。
ジョーと秋山は現時点でタッグリーグ首位である。秋山は自分のターンでできるだけ敵にダメージを与え、あとはジョーの決定力にすべてを託すという形で試合を進めている。この作戦が図に当たって勝ち星を稼いでいるようだ。たしかにジョーのフライング・ボディアタックは凄すぎる。ゼウスがトップローブから飛んできてもびくともしないのだからあきれてしまう。ジョーと秋山が優勝したら、全日本はこれからどういう展開を迎えるのか、異色コンビなだけに楽しみである。
二試合目はジェイク・野村組と吉田・ヴァレッタ組。吉田はプロレスの見せ方をよく知っている。いちいち大仰なアクションをつけ、観客へのアピールや挑発を忘れない。こういう選手は大好きである。言葉が通じているのか知らないが、ヴァレッタとは相性がよさそうだ。
ジェイクも野村も体力的にはトップレベルに近づいてきたが、試合の見せ方はまだ物足りない。一生懸命やっているのはわかる。しかしそれだけでは地味すぎるのだ。宮原は「いくぞ、高松!」のように試合のある当地の名前を叫んで観客にアピールするが、あれだけで観客の大勢の心を一時的にも引きつけることができる。地方のファンを大切にするにはそういうちょっとした気配りが必要だろう。
三試合目はジュニアヘビーによるタッグマッチ。ビデオに出ていたのは田村と岡田だけだった。田村も岡田も対抗戦になるとめらめらと燃えてきそうなタイプだ。新木場あたりで大日本の選手などと大いに戦ってほしい。
Saturday, November 30, 2019
Thursday, November 28, 2019
今日出海「山中放浪」
今日出海は第二次世界大戦中、報道班員としてフィリピンに渡り、米軍によって壊滅的打撃を受けた軍隊とともにルソン島の山中を放浪した。本書はその記録である。
作者は戦闘員ではないが、それでも生死の境目を彷徨する。身体も弱いし、年齢も四十を過ぎている。とても若い兵士たちと行動をともにできるような人ではないのだが、米軍に制空権を握られ、空の便で日本に還ることなど不可能。生きたければ、ひたすら潰走する軍といっしょに逃げるしかなかった。そのぎりぎりの状況がじつに見事に描出されている。
しかもこの作者の描写には知性がある。知性というのは戦争批判とか、日本文化批判とか官僚主義への批判を意味するのではない。そうしたものへの鋭い批判は本作にも見つかるが、わたしが知性的というのは彼の描写の背後にある認識である。彼は絶えず現実がねじれて奇妙な反転現象を起こすことに気がついている。このねじれや反転現象は平時でも起きているのだが気づかれにくい。しかし戦時という異常事態においてはじつに明白にあらわれる。マルクスは資本主義の本質が恐慌においてもっともよくあらわれ、フロイトは人間の精神の本質は精神病においてもっともよくあらわれると考えたが、それとおなじである。
たとえば次のような描写。作者は軍隊の車に乗って山道を逃避行することになる。アメリカ統治時代に道は「みごとに改装され」、急坂であっても楽にのぼれる。九十九折りの単調な山道に作者は思わずうつらうつらとする。そして真夜中近くにはっと目が覚め、自分がどこにいるのか気づくのだ。
気がつけば眠気を誘う単調さはどこへやら、それとはおよそ正反対の、人間の知覚を圧倒し、その存在を脅かす何か、カント風に言えば崇高なるものに直面している。虫の騒然たるすだきが静寂として感じられるという感覚の異常は、この場が退屈な日常性の反転した世界であることを強調しているだろう。これは芭蕉の俳句(閑さや……)とはわけが違う。なぜならこの静寂は明らかに死と通じているのだから。ふと気がつくと作者は寝る前にいた世界とは別の世界、生の世界ではなく死の予感に充ち満ちた世界にいた。この羊腸たる山道はメビウスの輪のようだ。表を進んでいると思ったら、いつのまにか裏に出ているのだから。
この奇怪なねじれ、反転現象は本書の随所にあらわれる。
川を越えた向こうは現地の人々が住む場所で、こちら側には日本軍の本部がある。日本軍はアメリカ軍に見つからぬよう山の中に身を潜め、山中のトカゲから虫、雑草に至るまで食い尽くしている。ところが現地の人々がいる場所では家畜が闊歩しているのだ。連続した時空間なのに、どこかにねじれがあって彼我の地において対照的な様相が展開されている。作者はそれを「異様な風景」と表現して驚いている。
道路一つが天国と地獄、生と死をわけることもある。作者はルソン島を脱出し台湾は屏東の町にたどりつく。そこでアメリカ軍の空襲に出会うのだが、彼は防空壕に逃げ込んで助かる。ところが空襲後、外に出て驚いた。たった一つ道を隔てだだけの、すぐそばの地域は爆撃で壊滅し、死体が累々と転がっているのだ。道のどこかで空間はねじれ、連続しているにもかかわらず、彼我の空間ではまったく様相が異なるのだ。
位相が完全に反転するこのねじれこそ、作者が戦争から得た認識なのだと思う。次の一節も印象的だ。
あれは大岡昇平だったろうか。平時なら子供が遊ぶのどかな原っぱも、戦時となれば一気に駆け抜けねばならない危険な距離となる、と言ったのは。
さらにこのねじれは、戦争の現場で軍隊の悲惨さを知る者と、それをなにも知らず大言壮語するだけの日本人とのあいだにも存在している。これは本書の最後のほうに長々と描かれている。あんまり長いから引用はしないが、これを読んでわかるのは、戦争の現場と日本は空間的にはつながっているが、そこにいる人々の認識は完全に断絶しているということだ。両者の認識は完全にすれ違っている。その差は話し合いによって埋められるようなものではない。ある種の連続性がありながら、両者は決定的に非連続なのだ。言ってみれば、右翼から見た「おのれと左翼との差」は、左翼から見た「おのれと右翼との差」とまったく接点を持たないようなものだ。このねじれに気づいて怒りだした作者は、思わず日本の報道記者たちと大げんかを演じてしまう。
本書の最後にはじつに痛々しい事件が描かれている。台湾から日本へいく飛行機になんとか乗せてくれと作者は軍部に頼み込むのだが、なかなか順番が回ってこない。ついに乗る機会を得たが、彼はそれを親友の新聞記者に譲ってしまう。その翌日電話がかかってきて、驚くべき知らせを耳にする。新聞記者の乗った飛行機は飛び立ってすぐにB24に追跡され撃墜されたというのだ。この運命のねじれに作者は「戦争だ、戦争だ」と叫ぶ。わたしも読んでいてさすがに胸が痛くなった。作者の認識は単なるポーズでもなければ、机上の空論でもない。敵襲に死ぬほど怯え、食糧事情の悪さに歯も全部折れ、骨が見えるほどの潰瘍をわずらい、幽鬼のような姿になって逃避行をつづけ、大切な親友を失うというやるかたない悲しみの中から生まれてきた認識である。
今日出海の「山中放浪」は日本のルポタージュ文学の中でも屈指の名作だと思う。
作者は戦闘員ではないが、それでも生死の境目を彷徨する。身体も弱いし、年齢も四十を過ぎている。とても若い兵士たちと行動をともにできるような人ではないのだが、米軍に制空権を握られ、空の便で日本に還ることなど不可能。生きたければ、ひたすら潰走する軍といっしょに逃げるしかなかった。そのぎりぎりの状況がじつに見事に描出されている。
しかもこの作者の描写には知性がある。知性というのは戦争批判とか、日本文化批判とか官僚主義への批判を意味するのではない。そうしたものへの鋭い批判は本作にも見つかるが、わたしが知性的というのは彼の描写の背後にある認識である。彼は絶えず現実がねじれて奇妙な反転現象を起こすことに気がついている。このねじれや反転現象は平時でも起きているのだが気づかれにくい。しかし戦時という異常事態においてはじつに明白にあらわれる。マルクスは資本主義の本質が恐慌においてもっともよくあらわれ、フロイトは人間の精神の本質は精神病においてもっともよくあらわれると考えたが、それとおなじである。
たとえば次のような描写。作者は軍隊の車に乗って山道を逃避行することになる。アメリカ統治時代に道は「みごとに改装され」、急坂であっても楽にのぼれる。九十九折りの単調な山道に作者は思わずうつらうつらとする。そして真夜中近くにはっと目が覚め、自分がどこにいるのか気づくのだ。
私は車を降りてあっと驚いた。羊腸たる山道の片側は底も知れぬ断崖である。闇のことでむろん底など見えぬが、それでも谷の深さは漠然と推し測られる。
「どうして谷の深さは想像くらいの域じゃありませんよ」
とこの道をかつて通ったことのある池田伍長が言う。
それよりもこの凄いばかりの静寂はどうだ。静寂とは物音がしないということではない。百虫ことごとくが声を限りに鳴いているのだ。あの声の中には夜鳥もいることだろう。それが谷底の方で一つの協和音となってごうっと共鳴し、上昇してくるのだ。これが夜の声というのだろうか。千古の嶮仞の音というのだろうか。私にはそれが恐ろしい静寂の姿として身に迫ってくるのだ。
気がつけば眠気を誘う単調さはどこへやら、それとはおよそ正反対の、人間の知覚を圧倒し、その存在を脅かす何か、カント風に言えば崇高なるものに直面している。虫の騒然たるすだきが静寂として感じられるという感覚の異常は、この場が退屈な日常性の反転した世界であることを強調しているだろう。これは芭蕉の俳句(閑さや……)とはわけが違う。なぜならこの静寂は明らかに死と通じているのだから。ふと気がつくと作者は寝る前にいた世界とは別の世界、生の世界ではなく死の予感に充ち満ちた世界にいた。この羊腸たる山道はメビウスの輪のようだ。表を進んでいると思ったら、いつのまにか裏に出ているのだから。
この奇怪なねじれ、反転現象は本書の随所にあらわれる。
それにしても我々のいる方では生き物一匹おらず、食うに困っているのに、川一つ向うには涎の出そうな豚や鶏が悠々と散歩しているのは異様な風景だった。
川を越えた向こうは現地の人々が住む場所で、こちら側には日本軍の本部がある。日本軍はアメリカ軍に見つからぬよう山の中に身を潜め、山中のトカゲから虫、雑草に至るまで食い尽くしている。ところが現地の人々がいる場所では家畜が闊歩しているのだ。連続した時空間なのに、どこかにねじれがあって彼我の地において対照的な様相が展開されている。作者はそれを「異様な風景」と表現して驚いている。
道路一つが天国と地獄、生と死をわけることもある。作者はルソン島を脱出し台湾は屏東の町にたどりつく。そこでアメリカ軍の空襲に出会うのだが、彼は防空壕に逃げ込んで助かる。ところが空襲後、外に出て驚いた。たった一つ道を隔てだだけの、すぐそばの地域は爆撃で壊滅し、死体が累々と転がっているのだ。道のどこかで空間はねじれ、連続しているにもかかわらず、彼我の空間ではまったく様相が異なるのだ。
位相が完全に反転するこのねじれこそ、作者が戦争から得た認識なのだと思う。次の一節も印象的だ。
下りにかかると十国峠のような草山である。美しいなだらかな山々の稜線が霧の上にうッすらと見える。この風景は一種独特の美しさがある。画のようだといっても日本画でもなければ油画でもない。ともかく初めてみる景色だとうっとりしていたが、隣りにいる浜口伍長は運転手に怒ったように、
「もっと早く走れんのかなア」
と舌打ちする。「この車は牽引力はあるけんど、速力はだめだなア」
彼のもどかしがる理由は、こんな遮蔽物が何もない草山で夜が明け放れ、敵機が来たらどうするかというのであるが、私はそれを聞いただけで、今まで恍惚として見とれていた風景がとたんに呪わしくなり、あわてて地図を出して案じたが、附近に我々が入り込むような部落は見当らぬ。
あれは大岡昇平だったろうか。平時なら子供が遊ぶのどかな原っぱも、戦時となれば一気に駆け抜けねばならない危険な距離となる、と言ったのは。
さらにこのねじれは、戦争の現場で軍隊の悲惨さを知る者と、それをなにも知らず大言壮語するだけの日本人とのあいだにも存在している。これは本書の最後のほうに長々と描かれている。あんまり長いから引用はしないが、これを読んでわかるのは、戦争の現場と日本は空間的にはつながっているが、そこにいる人々の認識は完全に断絶しているということだ。両者の認識は完全にすれ違っている。その差は話し合いによって埋められるようなものではない。ある種の連続性がありながら、両者は決定的に非連続なのだ。言ってみれば、右翼から見た「おのれと左翼との差」は、左翼から見た「おのれと右翼との差」とまったく接点を持たないようなものだ。このねじれに気づいて怒りだした作者は、思わず日本の報道記者たちと大げんかを演じてしまう。
本書の最後にはじつに痛々しい事件が描かれている。台湾から日本へいく飛行機になんとか乗せてくれと作者は軍部に頼み込むのだが、なかなか順番が回ってこない。ついに乗る機会を得たが、彼はそれを親友の新聞記者に譲ってしまう。その翌日電話がかかってきて、驚くべき知らせを耳にする。新聞記者の乗った飛行機は飛び立ってすぐにB24に追跡され撃墜されたというのだ。この運命のねじれに作者は「戦争だ、戦争だ」と叫ぶ。わたしも読んでいてさすがに胸が痛くなった。作者の認識は単なるポーズでもなければ、机上の空論でもない。敵襲に死ぬほど怯え、食糧事情の悪さに歯も全部折れ、骨が見えるほどの潰瘍をわずらい、幽鬼のような姿になって逃避行をつづけ、大切な親友を失うというやるかたない悲しみの中から生まれてきた認識である。
今日出海の「山中放浪」は日本のルポタージュ文学の中でも屈指の名作だと思う。
Tuesday, November 26, 2019
本が借りられない
オカルト探偵といえばブラックウッドのジョン・サイレンスものが有名だが、先日はじめて読んだマージェリー・ローレンスも「クイア通り七番地」というオカルト探偵ものを書いている。面白そうだったので大学図書館の所蔵書をネットで検索するとたった一カ所だけこの本を所蔵しているところがあった。
そこで市立中央図書館に相互貸借依頼を出して借りられるかどうか確認してもらったのだが、残念ながら答えはノー。理由はわからない。
あんな本を読む人はいないだろうになあ。図書館でほこりをかぶっているだけだろうになあ。と思いながら断念した。
大学図書館の本を借りようと相互貸借依頼を出すことは年に数回あるけれど、なかなか貸してもらえない。とくに専門書はそう。借りることができても、館内閲覧、つまりそれが読みたいなら相互貸借依頼を出した図書館に行って、閲覧室で読まなければならないことが多い。図書館に行く暇なんてそんなにないから、たいて走り読みをしたり、読み終わる前に返却しなければならなくなる。
ずっと以前にアラン・バデューの「存在と出来事」を借りたら、これが館内閲覧。夏の暑いさなか、なんとか図書館に行く時間を作って読んだ。最初はちんぷんかんぷんだったが、忽然とラカンの議論を集合論にマッピングしているのだと気づき、頭を棍棒でぶんなぐられたような衝撃を受けた。しかし結局あの大部の本を最後まで読み通せず、返却期限になってしまった。あの本は誰も読んだあとのないまっさらな本だった。読まれることなく、ただ図書館に置いてあるだけなのに、なぜ一般人には普通に貸してくれないのだ?
この前ジョージ・シルベスタ・ヴィーレックを読むつもりとブログに書いたが、市立図書館経由で大学の図書館に相互貸借依頼を出したら、なんとこれがまた館内閲覧。読みたいなら毎日図書館に通えというわけだ。
わたしが読みたいと思う本、あるいは訳出している本は、あまりポピュラーなものではなくアマゾンでも売られていないことが多い。古本で売られているものはとんでもない値段がついている。だから図書館で借りられればそれですませたいのだが……。
そこで市立中央図書館に相互貸借依頼を出して借りられるかどうか確認してもらったのだが、残念ながら答えはノー。理由はわからない。
あんな本を読む人はいないだろうになあ。図書館でほこりをかぶっているだけだろうになあ。と思いながら断念した。
大学図書館の本を借りようと相互貸借依頼を出すことは年に数回あるけれど、なかなか貸してもらえない。とくに専門書はそう。借りることができても、館内閲覧、つまりそれが読みたいなら相互貸借依頼を出した図書館に行って、閲覧室で読まなければならないことが多い。図書館に行く暇なんてそんなにないから、たいて走り読みをしたり、読み終わる前に返却しなければならなくなる。
ずっと以前にアラン・バデューの「存在と出来事」を借りたら、これが館内閲覧。夏の暑いさなか、なんとか図書館に行く時間を作って読んだ。最初はちんぷんかんぷんだったが、忽然とラカンの議論を集合論にマッピングしているのだと気づき、頭を棍棒でぶんなぐられたような衝撃を受けた。しかし結局あの大部の本を最後まで読み通せず、返却期限になってしまった。あの本は誰も読んだあとのないまっさらな本だった。読まれることなく、ただ図書館に置いてあるだけなのに、なぜ一般人には普通に貸してくれないのだ?
この前ジョージ・シルベスタ・ヴィーレックを読むつもりとブログに書いたが、市立図書館経由で大学の図書館に相互貸借依頼を出したら、なんとこれがまた館内閲覧。読みたいなら毎日図書館に通えというわけだ。
わたしが読みたいと思う本、あるいは訳出している本は、あまりポピュラーなものではなくアマゾンでも売られていないことが多い。古本で売られているものはとんでもない値段がついている。だから図書館で借りられればそれですませたいのだが……。
Sunday, November 24, 2019
ジョージ・シルベスタ・ヴィーレック
ヴィーレックはずっと昔、「ヴァンパイアの館」(The House of the Vampire)という割と短い小説を読んだことがある。ヴァンパイアといっても血を吸うのではなく、生気を吸い取るやつだ。話の内容はあまり覚えていないが、芸術家が主人公で最後にその存在が「溶かされて」しまう。その場面だけは印象的で今でも覚えている。
ヴィーレックのそのほかの小説は、その当時、入手が困難で、読めなかったのだが、最近 Internet Archive を調べたら My First Two Thousand Years と The Invincible Adam の二冊がアップロードされているのに気づいた。これは彼が書いた三部作のうちの二冊である。もう一冊 Salome という本があるのだが、残念ながらこれは Internet Archive にはないようだ。しかし日本の大学にはこの本を所蔵しているところがあるかもしれない。ちょっと調べてみて借りられるようなら今年の年末はヴィーレックに読みふけろうかと思っている。
ヴィーレックは内分泌学に関する大衆向けの解説書を書いて、フロイトに注目され、精神分析について同様の本を書かないかと持ちかけられた男である。よく調べてないのでわからないが、確か精神分析の本は書いていないと思う。しかし彼の小説は精神分析の影響を受けていて、その意味でわたしは彼に興味がある。ヴァンパイア小説を書いたり内分泌学の本を書いたりナチスの支持者になったり世界中の有名人をインタビューして回ったり、じつにおもしろい人生を送った人だが、今ではなぜかすっかり忘れ去られている。
ヴィーレックのそのほかの小説は、その当時、入手が困難で、読めなかったのだが、最近 Internet Archive を調べたら My First Two Thousand Years と The Invincible Adam の二冊がアップロードされているのに気づいた。これは彼が書いた三部作のうちの二冊である。もう一冊 Salome という本があるのだが、残念ながらこれは Internet Archive にはないようだ。しかし日本の大学にはこの本を所蔵しているところがあるかもしれない。ちょっと調べてみて借りられるようなら今年の年末はヴィーレックに読みふけろうかと思っている。
ヴィーレックは内分泌学に関する大衆向けの解説書を書いて、フロイトに注目され、精神分析について同様の本を書かないかと持ちかけられた男である。よく調べてないのでわからないが、確か精神分析の本は書いていないと思う。しかし彼の小説は精神分析の影響を受けていて、その意味でわたしは彼に興味がある。ヴァンパイア小説を書いたり内分泌学の本を書いたりナチスの支持者になったり世界中の有名人をインタビューして回ったり、じつにおもしろい人生を送った人だが、今ではなぜかすっかり忘れ去られている。
Saturday, November 23, 2019
パラドックス
パラドックスを論理の破綻と考える人がいる。集合論におけるラッセルがそのいい例である。
しかしパラドックスは、まさにそこから思考を展開してゆくべき豊かな出発点であるとわたしは考えている。精神分析に関心を持つのも、それがパラドックスを扱っているからである。
たとえばラカンはラッセルが発見したパラドックスを、集合論が成立するために排除されなければならない「領域」と考え、積極的にその領域に対して思考を展開していこうとする。わたしはこれこそ唯物論的態度だと思う。
無論、パラドクスの領域に関する思考はパラドキシカルにならざるを得ず、強靱な知性が要求される。たいていの人はこれに耐えきれず、安易で容易で単純な思考に逃げ込んでしまう。あのジャック=アラン・ミレールでさえこの罠にはまるのである。
わたしがスラヴォイ・ジジェクやアレンカ・ズパンチッチに興味を持つのは、彼らが徹底してこの思考を貫こうとしているからだ。ジジェクの論理の矛先はやや鈍りを見せ始めてはいるものの、ほかの有象無象と比較するならまだまだ格段に鋭い。ズパンチッチはジジェクのように本を量産したりはしないが、間違いなく精神分析的理論のこれからを担う学者だ。彼女の議論の切れ味は群を抜いている。
わたしはジジェクやズパンチッチがフロイトの遺産のうち、パラドキシカルな論理の方面ばかり扱うのを残念には思うが、それでも彼らの議論には絶えず知的な刺激を受けている。
しかしパラドックスは、まさにそこから思考を展開してゆくべき豊かな出発点であるとわたしは考えている。精神分析に関心を持つのも、それがパラドックスを扱っているからである。
たとえばラカンはラッセルが発見したパラドックスを、集合論が成立するために排除されなければならない「領域」と考え、積極的にその領域に対して思考を展開していこうとする。わたしはこれこそ唯物論的態度だと思う。
無論、パラドクスの領域に関する思考はパラドキシカルにならざるを得ず、強靱な知性が要求される。たいていの人はこれに耐えきれず、安易で容易で単純な思考に逃げ込んでしまう。あのジャック=アラン・ミレールでさえこの罠にはまるのである。
わたしがスラヴォイ・ジジェクやアレンカ・ズパンチッチに興味を持つのは、彼らが徹底してこの思考を貫こうとしているからだ。ジジェクの論理の矛先はやや鈍りを見せ始めてはいるものの、ほかの有象無象と比較するならまだまだ格段に鋭い。ズパンチッチはジジェクのように本を量産したりはしないが、間違いなく精神分析的理論のこれからを担う学者だ。彼女の議論の切れ味は群を抜いている。
わたしはジジェクやズパンチッチがフロイトの遺産のうち、パラドキシカルな論理の方面ばかり扱うのを残念には思うが、それでも彼らの議論には絶えず知的な刺激を受けている。
Thursday, November 21, 2019
「戦線に立ちて」
ヘッケルというドイツの文人が陸軍大尉として第一次世界大戦に従軍したときの記録である。芹澤登一という人の翻訳で大正五年に出版された本だ。(国立国家図書館デジタルコレクションで読める)漢文と口語がまじった、当時よくある文体で書かれている。去年の暮れ頃からずっと戦争文学に目を通しているが、翻訳作品の中では文章がいちばんいい。漢文は表現を引き締め、文章に一種の張りを与える。漢文の素養のない人の文章は弛緩した、だらだらしたものになりやすい。
適当にページを開いて引用してみた。名文とは言わないが、簡にして要を得た、気持ちのいい文章である。ドイツ語をこれだけの日本語に翻訳・移植するのは並大抵のドイツ語力、日本語力ではないといわざるをえない。
作者が文化人であるため、戦争中であるにも拘わらず戦地の博物館を訪ねたりするなど、ずいぶんおっとりした、貴族的なおもむきを持つ、という点をのぞけば、普通の従軍記である。自国の正義を信じ、そのために命をなげうち、泥にまみれ、土の味のする糧食を食べ、ほんの偶然から部下は死に、自分は助かる。ただおなじ文人の作者ではあっても、「敵はほかにいる」と書いた大岡昇平の「俘虜記」と較べると、その認識はやはり鋭さを欠いている。
白國人はマース河の橋を爆發したが我が工兵は、急速架橋の作業をしたので、我等は其の朝に於て、安らかに之を渡ることができた。ウヰゼ市の光景は、我等をして凄絶の感にたへざらしめたけれども、而も亦莊觀であつた。広莊なる建物の既に灰燼となり去つたものがあれば、數寄を極めた家の未だ全く燒け盡さゞるものあり、又新に黑煙を吐く高樓があれば、今將に燃え移らんとする巨屋あり、街あり、街に連なる火焔は赫々として天に沖し、巷より巷に續く濃煙は濛々として地を蔽ひ、ものゝ爆ける音、落ちて碎ける音、罵る聲、叫ぶ聲、慘として地獄の劫火を見るが如き心もしたのである。
適当にページを開いて引用してみた。名文とは言わないが、簡にして要を得た、気持ちのいい文章である。ドイツ語をこれだけの日本語に翻訳・移植するのは並大抵のドイツ語力、日本語力ではないといわざるをえない。
作者が文化人であるため、戦争中であるにも拘わらず戦地の博物館を訪ねたりするなど、ずいぶんおっとりした、貴族的なおもむきを持つ、という点をのぞけば、普通の従軍記である。自国の正義を信じ、そのために命をなげうち、泥にまみれ、土の味のする糧食を食べ、ほんの偶然から部下は死に、自分は助かる。ただおなじ文人の作者ではあっても、「敵はほかにいる」と書いた大岡昇平の「俘虜記」と較べると、その認識はやはり鋭さを欠いている。
Monday, November 18, 2019
パトリシア・ウェントワース「ウィリアム・スミス事件」(1948)
ウィリアム・スミスは1942年にドイツの収容所から解放された。しかし解放されたとき、彼はそのとき以前の記憶を完全になくしてしまっていた。自分の認識票には「ウィリアム・スミス」の名が記されているが、それが本名かどうかもわからない。
イギリスに帰って名前を手がかりに自分の過去を探ろうとしても成果は上がらなかった。彼はおもちゃ屋で動物のおもちゃをつくって生計を立てる。まじめに働き、新しいおもちゃを作り出す才能もあるので、彼はおもちゃ屋の主人から信頼され、さらに彼の遺産まで受け継ぐことになる。
さらにおもちゃ屋にきた新しい助手、美しい女性と恋に落ちる。二人は結婚し、「ウィリアム・スミス」は新たな人生を歩み出すかのように思われた。
ところが、まず彼の記憶がちょっとずつ戻り始める。それと同時に彼は命を狙われるようになる。過去を失った彼には殺されなければならない理由がまったくわからない。彼が記憶を取り戻すと、都合の悪い人がいるのだろうか。それだけではない、彼が結婚した女性というのが、なんと……
これが小説の前半の山場となる。
ミステリと記憶喪失は切っても切れない縁がある。とりわけノワールの部門では記憶をめぐって名作がいくつか書かれている。映画の「ブレードランナー」もこのテーマの変形版といえるだろう。「ウィリアム・スミス事件」にノワールの風味が付け加わっているのは、記憶をテーマにしているせいである。
しかし残念ながらこの作品が記憶というテーマに新しい光を当てているかというと、そうではない。ウェントワースがつまらないのは、人間の存在を脅かすどんな要素も結局ある種の秩序内に回収されてしまう点である。事件は調和のとれた世界に偶然生じた乱れであって、それはミス・シルバーという探偵役の老婦人によってただされるだけなのだ。
ミス・シルバーがあらわす調和とか正義とか秩序とはいったいなにか。それは彼女が編み物をしている客間に如実に示されている。ヴィクトリア朝風の家具と飾り付けをした部屋、そこにくる刑事が安全や安らぎを感じる部屋だ。つまりヴィクトリア朝風の、前時代的な調和であり、正義であり、秩序なのである。ネタバレは避けたいと思うので、やや曖昧な書き方をするが、本書においては華族はその無能さにもかかわらず「被害者」であり、ヴィクトリア朝時代に経済的実力をつけ華族を没落させていった中産階級の人間にすべての罪が背負わされている。彼らの死によって調和、すなわち華族たちにとって都合のよい調和が回復されるのである。
わたしは女流作家によるミステリやスリラーを好むが、ウェントワースは凡庸な作家だと思う。
イギリスに帰って名前を手がかりに自分の過去を探ろうとしても成果は上がらなかった。彼はおもちゃ屋で動物のおもちゃをつくって生計を立てる。まじめに働き、新しいおもちゃを作り出す才能もあるので、彼はおもちゃ屋の主人から信頼され、さらに彼の遺産まで受け継ぐことになる。
さらにおもちゃ屋にきた新しい助手、美しい女性と恋に落ちる。二人は結婚し、「ウィリアム・スミス」は新たな人生を歩み出すかのように思われた。
ところが、まず彼の記憶がちょっとずつ戻り始める。それと同時に彼は命を狙われるようになる。過去を失った彼には殺されなければならない理由がまったくわからない。彼が記憶を取り戻すと、都合の悪い人がいるのだろうか。それだけではない、彼が結婚した女性というのが、なんと……
これが小説の前半の山場となる。
ミステリと記憶喪失は切っても切れない縁がある。とりわけノワールの部門では記憶をめぐって名作がいくつか書かれている。映画の「ブレードランナー」もこのテーマの変形版といえるだろう。「ウィリアム・スミス事件」にノワールの風味が付け加わっているのは、記憶をテーマにしているせいである。
しかし残念ながらこの作品が記憶というテーマに新しい光を当てているかというと、そうではない。ウェントワースがつまらないのは、人間の存在を脅かすどんな要素も結局ある種の秩序内に回収されてしまう点である。事件は調和のとれた世界に偶然生じた乱れであって、それはミス・シルバーという探偵役の老婦人によってただされるだけなのだ。
ミス・シルバーがあらわす調和とか正義とか秩序とはいったいなにか。それは彼女が編み物をしている客間に如実に示されている。ヴィクトリア朝風の家具と飾り付けをした部屋、そこにくる刑事が安全や安らぎを感じる部屋だ。つまりヴィクトリア朝風の、前時代的な調和であり、正義であり、秩序なのである。ネタバレは避けたいと思うので、やや曖昧な書き方をするが、本書においては華族はその無能さにもかかわらず「被害者」であり、ヴィクトリア朝時代に経済的実力をつけ華族を没落させていった中産階級の人間にすべての罪が背負わされている。彼らの死によって調和、すなわち華族たちにとって都合のよい調和が回復されるのである。
わたしは女流作家によるミステリやスリラーを好むが、ウェントワースは凡庸な作家だと思う。
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