Sunday, September 29, 2024

S. S. ヴァン・ダイン「カナリア殺人事件」

 


S.S.ヴァン・ダインを読んだのは随分昔で、「僧正殺人事件」と「グリーン家殺人事件」を読んだことは憶えているが、他の作品はどうだろう。「ベンスン殺人事件」は読んだかもしれないが、ストーリーはさっぱり憶えていない。じつは「僧正」も「グリーン家」も内容はきれいさっぱり忘れてしまった。「僧正」というのはチェスの「僧正」のことだったろうか。「グリーン家」の犯人はぼんやり憶えているが、事件の内容はなにひとつ頭に残っていない。

「カナリア殺人事件」は心理的な手掛かりによって犯人を見出す物語だというようなことを何かで読み、興味をなくして読まなかった。その頃は、初期のエラリー・クイーンみたいにしっかりした物質的手掛かりから論理的に推理を構築する物語に魅力を感じていたので、「心理的手掛かり」などというあやふやなものには食指が動かなかった。

今も「心理的手掛かり」には関心がないのだが、高名な作品ではあるし、一度は読んでおこうと半ばあきらめたような気分で本作を読み出した。テキストは Fadedpage.com から出されたものだ。

無能な警察と天才的探偵という設定や、探偵が事件現場から警察の目を盗んでこっそり重要証拠をくすねるとか、古いパターンが目について仕方がなかったが、ちょっとだけ面白かった部分もある。それは十四章で探偵ヴァンスが犯罪を芸術にたとえる部分だ。ここで彼は絵画のオリジナルと、コピー(模写)に関する興味深い議論を展開している。

われわれはオリジナルとコピーについて考える時、オリジナルの完成度を百パーセントとするなら、コピーの出来はそれよりも低いと考える。コピーにはオリジナルに到達し得ないある種の欠如が存在する、というように。ところがヴァンスが提示している議論はちがう。オリジナルのほうにこそ欠如が存在する。そしてコピーが復元し得ないのは、まさにその欠如である、というのだ。つまりこの議論を敷衍するなら、オリジナルこそオリジナルに到達し得ていない、なぜなら欠如を含んでいるから。しかしながら、その欠如こそ、オリジナルをオリジナルにしている当のものだ、ということになる。一応その部分を引用しておくので、興味のある向きはじっくり読んでみてほしい。


“Y’ know, Markham,” he began, in his emotionless drawl, “every genuine work of art has a quality which the critics call élan-namely, enthusiasm and spontaneity. A copy, or imitation, lacks that distinguishing characteristic; it’s too perfect, too carefully done, too exact. Even enlightened scions of the law, I fancy, are aware that there is bad drawing in Botticelli and disproportions in Rubens, what? In an original, d’ ye see, such flaws don’t matter. But an imitator never puts ’em in: he doesn’t dare-he’s too intent on getting all the details correct. The imitator works with a self-consciousness and a meticulous care which the artist, in the throes of creative labor, never exhibits. And here’s the point: there’s no way of imitating that enthusiasm and spontaneity-that élan-which an original painting possesses. However closely a copy may resemble an original, there’s a vast psychological difference between them. The copy breathes an air of insincerity, of ultra-perfection, of conscious effort. . . . You follow me, eh?”


わたしの解釈には多少の強引さがあるのだが、しかしそう考えるなら探偵の考え方はラカンの対象aの考え方と見事に一致する。S.S.ヴァン・ダインは美術評論家でもあるようだが、わたしはこれを読んで彼の推理小説より美術評論のほうに関心を持った。こんな議論を展開しているなら大いに読む価値がある。さらにこの視角から彼のミステリも読み替えが可能だろうか、と考え出した。わたしが知るかぎり、この一節に注目したヴァン・ダイン論、推理小説論というのは見たことがないのだが。

Thursday, September 26, 2024

クロード・ホートン「隣人たち」

 


Hathi Trust のサイトでクロード・ホートンの Neibours 「隣人たち」を見つけたときはうれしかった。作者の処女作で(1926年)読みたくてたまらなかったからである。処女作だけあって、欠点もあるが、ホートンの出発地点を確認できるという貴重な一作だ。彼の不思議な小説世界は、いったいどのようにして形成されていったのか、そうしたことを考える非常によい材料である。ホートンは今では知っている人はほとんどない作家だ。しかし生前はポピュラーではなかったものの、かなりの評価を得ていた人で、ヒュー・ウォルポールや J.B.プリーストレーのような文壇の大御所からも一目置かれていたのである。ついでに言うと、Internet Archive のサイトには Writers Three: A Literary Exchange on the Works of Claude Houghton with Henry Miller, Claude Houghton, Ben Abramson という書簡集が出ていて、これまた貴重な資料である。そう、ホートンはヘンリー・ミラーからも尊敬されていたのだ。

この小説は、知的で謎めいた出だしが見事で、一気にその独特の世界に引きずり込まれる。


私は自分の人生を生きるのをやめようとしている。他人の人生に巻き込まれ、他人の興味や経験に魅了され、その結果、自分の人生はしだいに後景へと退き、ついにはたんなる影と化してしまうことが、いかに容易に起こりうるかを、もはや手遅れではあるものの、理解した。


いったいどんな筋なのか。

「隣人たち」はとある若者(語り手)、これから世に出て行こうとしている男が屋根裏部屋を借りるところから始まる。彼は野心に満ちた男で、自分が持つ可能性をすべて十全に発揮した人生を送りたいと考えている。彼はあらゆる可能性が自分のなかにあり、そのうちの一つではなく、すべてを開花させようと思っている。その目的に向かって作戦を練るために、とりあえずその屋根裏部屋を借り、方針が定まったらすぐにそこを出ていくはずだった。

ところがあるとき、彼は隣の部屋に別の男が住んでいることに気づく。屋根裏に住んでいるのは自分だけだと思っていたから彼はびっくりする。そして彼の笑い声を聞いた途端、彼はその男を恐れ、強烈に憎み出すのだ。憎み出すと同時に彼から離れられなくなる。二つの部屋を隔てる壁が薄いのか、隣の男の声はすべて聞こえる。彼はそれを徹底的に紙に記録しはじめる。それはどうやら膨大な量になるらしく、あとで自分が書いたものを整理しようとしたとき、部屋のあちこちから出現する記録用紙に彼はてんてこまいしている。彼は自分の存在を消そうとまでする。隣の男(作家で名前はヴィクターという)に自分が住んでいることを気取られまいと、電気を消し、食事は夜中に外に出てすませるという暮らしぶりだ。そしてヴィクターが恋人や友人たちと交わす会話に聞き耳を立て、そのすべてを紙に書きつけていく。その結果、彼はとうとう最初の頃の自分とはまったく違う人間に変貌するのだ。自分自身の影になり、隣の男の影になってしまうのである。彼はついに隣の男を殺そうとする。

この粗筋だけでも本書がキリスト教的な物語であることは明瞭だろう。聖書は「隣人を愛せ」と言う。フロイトは隣人のなかに自分を攻撃する存在を見てしまう人間のありようを問題にした。キルケゴールは「理想的な隣人とは死んだ隣人である」と言い、本書の語り手はそれを実行しようとする。本書は隣人に対する西洋のさまざまな考察の上に立って書かれていることはまちがいない。(もっとも本書の発行は1926年でフロイトの「文化への不満」より四年早く書かれているが)

語り手が記録する隣人の会話も面白い。とくに科学者の卵である友人と、「偶然と必然」を巡って交わす会話、さらに霧の濃い晩に別の友人と「虚構と現実」を巡って交わす会話は興味深い。また隣人が恋人と語り合うなかで、次第に隣人の人となりが明らかになっていくのだが、それが語り手の秘密を開示していくようにも読めて考え込まされた。たとえば作家になろうとする隣人ヴィクターは、まだ何も書かれていない、おろしたての原稿用紙について語る。それを前に机に座る瞬間は、その原稿用紙にどんな内容のことも書けるという、あらゆる可能性に満ちた瞬間だ。それは語り手が冒頭で語る「自分にはあらゆる可能性が眠っている」という感覚とおなじではないだろうか。語り手とヴィクターのあいだには不思議な関係性がある。そしてこの関係性を通して、「書く」という行為をめぐる、これまた不思議な考察が展開されている。しかしこのあたりはまだまだよく考えなければならない。

いずれにしろ後の作品に登場するテーマ群が処女作にほとんどすべてあらわれているのではないだろうか。語り手が隣人の会話を記録し、それに触発された語り手が自分の哲学を語るという、物語的にはほとんど起伏のない展開なのだが、読んで損はしないだけの内容があると思う。


Monday, September 23, 2024

ジョスリン・ブルック「抜き身の剣の入れ墨」

 

ジョスリン・ブルック(1908-1966)はイギリスの作家で、自伝的な「ラン三部作」で有名である。この人は子供の頃からランの花が大好きだった。もう一つ彼が愛したのが軍隊生活だ。第二次世界大戦のときは医療隊員として従軍した。文章はウィットに富み、ノスタルジックで、どこかメランコリックなところがある。本書はジョスリン・ブルックの作品のなかでは異色で、謎めいた雰囲気を持っている。

レイナードは銀行員をしながら母親と二人で暮らす若者である。先の戦争では、軍隊に志願したが健康が理由で採用はされなかった。今は平凡な生活を送っていたが、なにか人生に物足りなさを感じている。

ある嵐の晩、道に迷ったアーチャーという陸軍大尉が彼の家を訪ねてくる。レイナードは大尉がボクシング試合に行く途中だと知り、自分も一緒に行きたいという。試合後、彼らはパブに行き、レイナードはすっかり酔っぱらってしまうのだが、朦朧としているあいだに大尉と軍隊に入隊するためのトレーニングをする約束をしてしまう。

しかし今、イギリスはどことも戦争はしていない。陸軍と言うが、なんという部隊なのかもはっきりしない。自分がなにに巻き込まれようとしているのか、まったくわからぬままに、レイナードはアーチャー大尉とボクシングの練習をしたり、長距離を走ったりし始める。ただ、彼の物足りない人生になにか刺激が加わったことだけは確かだ。

こうして訓練を重ね、とうとう入隊の日を迎える。入隊のためにはレイナードはある場所へ行かねばならないのだが、記憶がぼんやりしてその場所が思い出せない。しかもその日彼は風邪をひいて熱を出し、寝込んでしまう始末だ。いったい彼は入隊できるのか。そもそも彼が入隊しようとしている軍隊とはなんなのか。いったいイギリスはどこと戦っているというのか。

主人公は自分の置かれた状況の全体を見渡すことができない。本書には霧に包まれた光景が幾度も描かれるが、これは主人公のありようのメタファーになっている。彼はなにが起きているのかを突き止めようと、いろいろな人に質問をするが、いつも曖昧な返事しか得られない。ただ夢の中の出来事のようにつぎつぎと事件が継起していく。

しかしこの夢幻的な世界には奇妙なリアリティーがある。カフカの悪夢的な世界に官僚制のリアルがまざまざと感じ取られるように。たとえば都会をずっとはなれた田舎で百姓をしていた人間が、突然徴兵された場合、彼はいったいなにが起きているのかわからず、ただただ当惑するだけだろう。実際、いろいろな戦記物を読むとそんな記述が結構出て来る。軍隊という巨大組織のなかにいきなり放り込まれ、わけもわからず上官の命令に右往左往する二等兵たち。自身の戦争体験にもとに「プレオー8の夜明け」を書いた古山高麗雄は、「半ちく半助捕物ばなし」という傑作を書いているが、あれもレイナードとおなじように、全体を見渡せない人間を主人公にした作品だった。戦争に参加した人は、多かれ少なかれ突然巨大機構に取り込まれ、自分がなにをしているのかわからないという経験を持っているのかもしれない。

Friday, September 20, 2024

ロス・マクドナルド「ある人々の死に方」

 


これは高名な作品だから筋を知っている人は多いと思う。一応簡単に紹介すると……

私立探偵リュー・アーチャーはミセス・サミュエル・ローレンスに行方不明になった娘を探してくれと頼まれる。アーチャーは彼女のあとを追って米国西海岸の裏社会、ヤクザやクスリの売人や売笑婦らの世界に足を踏み入れる。すると次々と人が殺され、探偵自身も危険な目に遭う。アーチャーは裏社会にはりめぐされた謀略を見抜き、ヤクザどもを警察の手に引き渡すのだが、その後、もう一度依頼人の家族に目を向ける。なぜならこの事件の本当の闇は、ヤクザなどの裏社会にあるのではなく、この家族のなかにこそひそんでいたからだ。

ロス・マクドナルドは家族の抱える闇に注目する。この闇は必然的に外の社会の闇とつながっているのだが、彼はいつも作品の最後で家族それ自体に舞い戻ってきて、そこにひそむ闇の核心を抉剔する。家族から出発し、社会を放浪し、また家族に戻り、家族内部の闇に直面するという構造は、「エディプス王」をわたしに想起させる。そのせいだろうか、ロス・マクドナルドの作品にはいつも古典的・悲劇的なおもむきがあるように感じられる。もちろん放浪するのが男ではなく女であり、悲劇は高貴な身分の者にではなく、中産階級の一般的な家庭に起きるという大きな違いはあるけれど。

今回再読してもう一つ気がついたのは、アーチャーの人間観である。依頼人のミセス・ローレンスは、人間は善人と悪人に截然と分かたれると考えている。それに対してアーチャーは、人間は必要に応じて善人にも悪人にもなると考える。ミセス・ローレンスの考え方の背後には、神の摂理に支配された、安定した世界観がある。アーチャーにはそれがない。状況次第によって人間はどのようにも変わりうるからである。たとえば娘を心から愛している父親すら、ある種の情況においては娘を殺害することがあると考えている。このような認識はきわめて構造主義的だと思う。ミセス・ローレンスは古い世界観に固執して生きている。その世界観にグリッチが生じ、アーチャーがその修復を依頼されたわけだが、闇の世界を彷徨しながら、彼は古い世界観ではもう生きていけない現実を読者に提示するのだ。それを理解できないミセス・ローレンスの姿は気の毒と言うより、わたしに胸の痛い思いをさせた。

Tuesday, September 17, 2024

AIの翻訳の実力

最近のAIの翻訳力はめざましく向上している。どれくらいのものか、ちょっとためしてみた。チャールズ・リードの代表作「僧院と炉端」の冒頭の一節をいろいろなAIに訳してもらおう。


原文

Not a day passes over the earth, but men and women of no note do great deeds, speak great words, and suffer noble sorrows. Of these obscure heroes, philosophers, and martyrs, the greater part will never be known till that hour, when many that are great shall be small, and the small great; but of others the world's knowledge may be said to sleep: their lives and characters lie hidden from nations in the annals that record them. The general reader cannot feel them, they are presented so curtly and coldly: they are not like breathing stories appealing to his heart, but little historic hail-stones striking him but to glance off his bosom: nor can he understand them; for epitomes are not narratives, as skeletons are not human figures.


グーグル翻訳

地上では、無名の男女が偉業を成し遂げ、偉大な言葉を語り、気高い悲しみに遭わない日はない。これらの無名の英雄、哲学者、殉教者の大部分は、多くの偉大な者が小さくなり、小さな者が偉大になるその時まで決して知られることはないだろう。しかし、他の者については、世界の知識は眠っていると言えるだろう。彼らの人生と性格は、彼らを記録した年代記の中に国々から隠されている。一般の読者は彼らを感じることができない。彼らはあまりにもそっけなく冷たく提示されているからだ。彼らは彼の心に訴える息づく物語ではなく、彼の胸をかすめるだけの小さな歴史上の雹のようであり、彼らには理解できない。なぜなら、骸骨が人間の姿ではないのと同じように、要約は物語ではないからである。


「彼らは彼の心に」というのは「それら(年代記)は彼の心に」の間違いだが、よくできた訳文だと思う。しかし翻訳としてはどうだろう。「多くの偉大な者が小さくなり、小さな者が偉大になるその時」は正確な訳だが、日本の読者にとってわかりやすいと言えるだろうか。やはり、「最後の審判のときが訪れ」くらいの解説的な言葉を入れないとぴんとこないのではないか。世俗的な基準では偉大であっても、神の目からは罪深い存在である、ということは大いにありうるのだが、そのあたりのキリスト教的知識を、わたしなら補うだろう。

「彼らの人生と性格」は「彼らの生きざまや人となり」くらいにしたい。これは語感の問題である。また「年代記の中に国々から隠されている」は「年代記の中に埋もれ隠されている」のほうがはっきりわかる。なんでも訳せばいいというものではない。


Copilot

地上には一日として、無名の男女が偉大な行いをし、偉大な言葉を語り、高貴な悲しみを味わわない日はない。これらの無名の英雄、哲学者、殉教者の大部分は、偉大な者が小さくなり、小さな者が偉大になるその時まで知られることはないだろう。しかし、他の者たちについては、世界の知識は眠っていると言える。彼らの人生と性格は、それを記録する年代記の中に隠されている。一般の読者は彼らを感じることができない。彼らはあまりにも簡潔で冷たく提示されているからだ。それは心に訴える生きた物語のようではなく、胸に当たってもすぐに跳ね返る小さな歴史の雹のようだ。要約は物語ではなく、骨格は人間の姿ではないのだから、彼らを理解することもできない。


グーグル翻訳とよく似ているが、「胸に当たってもすぐに跳ね返る小さな歴史の雹のようだ」というところは語調もいいし、わたしは気に入っている。しかし最後の一文はグーグルに軍配が上がる。グーグルの翻訳でもそうだったが、代名詞の読み取りという基本的な読解能力にまだ問題があるのだろうか。また、翻訳者はわかりやすさのために代名詞をそれが指示する名詞に変えて訳すことがあるが、そういう配慮はAIにはできないのかもしれない。

ちなみに Copilot に「以下の文章を日本語に訳してくれ」と英語で頼むと、「著作権を侵す可能性があるため、要約でもかまわないか」と英語で返事が来た。そこで「引用はジョン・リードの『僧院と炉端』から取られたもので、この作品はパブリックドメイン入りしている」と教えると、「情報をありがとう」という言葉とともに、翻訳文を提示してくれた。この用心深さには感心した。


DeepL

地上には一日として、無名の男女が偉大な行いをし、偉大な言葉を語り、高貴な悲しみを味わわない日はない。これらの無名の英雄、哲学者、殉教者の大部分は、偉大な者が小さくなり、小さな者が偉大になるその時まで知られることはないだろう。しかし、他の者たちについては、世界の知識は眠っていると言える。彼らの人生と性格は、それを記録する年代記の中に隠されている。一般の読者は彼らを感じることができない。彼らはあまりにも簡潔で冷たく提示されているからだ。それは心に訴える生きた物語のようではなく、胸に当たってもすぐに跳ね返る小さな歴史の雹のようだ。要約は物語ではなく、骨格は人間の姿ではないのだから、彼らを理解することもできない。


なんと Copilot と同じだ。よくは知らないが、同じエンジンを使っているのだろうか。

原文は、十九世紀の文章らしく、もってまわった言い回しになっているが、要するに「無名の人間が日々立派な行いをしているが、そのほとんどは人に知られることなく歴史に埋もれていく。彼らのなかのほんの少数の人々は、年代記にその業績が記されているが、残念ながら年代記の記述は無味乾燥で、読む人の心に訴えてこない」という内容である。AIの訳文はなかなかよくできているが、誤訳もあるようだし、間違いとは言えないが、語感の悪さがちょっと気になる。(でもここまで訳せるのはたいした進歩だ)文化の違いを考慮し、説明を補足することもむずかしいようだ。ただし Copilot に、「多くの偉大な者が小さくなり、小さな者が偉大になるその時」とはどのような時か、と英語で質問すると、最後の審判のような時であろうと返答した。おそらく学習を続ければ、いつかはもっと完璧に近い訳文を作成するようになるだろう。

Saturday, September 14, 2024

英語読解のヒント(135)

135. for the first time

基本表現と解説
  • I saw him for the first time. 「はじめて彼に会った」
  • I saw him for the second time. 「ふたたび彼に会った」
  • I saw him for the last time. 「それを最後に彼とは二度と会っていない」
  • I saw him for the first time in my life. 「生まれてはじめて彼に会った」
  • I saw him for the first time and the last. 「後にも先にもただ一度だけ彼に会った」

訳文は前後の関係により、「はじめて(ふたたび、等)……した」としてもいいし、「……したが、それがはじめて(二度目、等)だった」としてもよい。

例文1

And she is sleeping calmly, little suspecting that she has seen me for the last time.

Johann Wolfgang von Goethe, The Sorrows of Young Werther (translated by R. D. Boylan)

彼女は穏やかに寝ている。わたしに二度と会えないことを少しも知らず。

例文2

On this occasion, for the first and for the last time, his dauntless spirit, during a few hours, shrank from the fearful responsibility of making a decision.

T. B. Macaulay, "Sir John Malcolm's Life of Lord Clive"

さすが不敵な彼の精神も、このときばかりは数時間ほど、断を下す恐ろしい責任から萎縮してしまったが、そんなことは後にも先にもこれ一回きりであった。

例文3

"Great Heavens! madam," cried Harry. "What have I done that thus, for a second time, you insult me?"

William Makepeace Thackeray, The History of Henry Esmond, Esq.

ハリーは大声を出した。「驚きました。こんなふうにまたもやわたしを侮辱なさるとは、いったいわたしがなにをしたというのです?」

Wednesday, September 11, 2024

英語読解のヒント(134)

134. for all I care / see / tell / read

基本表現と解説
  • He may die for all I care. 「あんなやつは死んだってかまわない」
  • For all I see, politics only brings a poor man into trouble. 「わたしが見るところ、政治っていうのは貧しい人間を面倒に引き込むだけのようだ」

前項の for all I know にかわって for all I care とか for all I see などという言い方もある。ただし know と care では原意の相違により次のような差を生じる。

  • He may be a good man for aught I know. 「彼はおそらく善人だろう」
  • He may be a bad man for aught I care. 「彼は悪人でもかまわない」

例文1

You spend your passion on a mispris'd mood:
I am not guilty of Lysander's blood;
Nor is he dead, for aught that I can tell.

William Shakespeare, A Midsummer Night's Dream

あなたはとんだ勘違いをしている。
わたしはライサンダーを殺していません。
それにあの人は死んでおりますまい。

例文2

For aught I know or care, the plot may be an exactly opposite one, and the Christians intend to murder all the Jews.

Charles Kingsley, Hypatia

その陰謀はまったくの逆で、キリスト教徒がユダヤ人全員を殺そうとするのかもしれない。

 for aught I know or care は、語り手「わたし」は陰謀についてそれがどういった性質のものか、知識もないし、関心もない、という意味。

例文3

My sketch may be a daub, for aught I care.

John Masefield, "Dauber"

わたしの絵が下手だろうとそんなことはかまわない。

Sunday, September 8, 2024

英文読解のヒント(133)

133. for all I know / for what I know

基本表現と解説
  • He may be a good man for all I know.
  • He may be a good man for what I know.
  • He may be a good man for aught I know.
  • He may be a good man for anything I know.

いずれも「たぶん彼はいい人なのだろう」という確信を欠いた言い方。この句は多くの場合 may や might を伴う。

例文1

He thought I slept placidly through that half-hour, which seemed to him as brief as a minute. To me it was long — ah, so long! as I lay pondering with an intensity that was actual pain, on what must come some time, and, for all I knew, might even now be coming.

Dinah Mulock Craik, John Halifax, Gentleman

彼にはほんの一分のように思えたあの半時間のあいだ、彼はわたしが穏やかな眠りをむさぼっていると思っていた。わたしにとってあの時間は長かった。おそろしく長かった。わたしは実際苦しいほど一心になって、いつか来るにちがいないこと、いや、いままさに来ようとしているかもしれないことについて考えながら横になっていたのだ。

例文2

For aught I know, you may give me up to justice; but unless you do, here I stop until I can venture to escape abroad.

Charles Dickens, "The Drunkard's Death"

ことによるとお前はおれをお上へ突き出すかもしれないが、そうでなきゃ、おれは外国へ高飛びするまでここにいるつもりだ。

例文3

He [Julius Caesar] had expected to find pearls in Britain, and he may have found a few for anything I know; but, at all events, he found delicious oysters....

Charles Dickens, A Child's History of England

彼(ジュリアス・シーザー)はイギリスで真珠を見つけるつもりだった。もしかしたら少しは見つけたかもしれない。しかしそれはともかく、おいしい牡蠣は発見できただろう。

Thursday, September 5, 2024

英語読解のヒント(132)

132. for...to...

基本表現と解説
  • For us to search our own glory is not glory. 「人、おのれの誉れを求むるは誉れにあらず」

この構文において for の目的語は to 不定詞の主語になる。

例文1

For an old man to be reduced to poverty, is a very great affliction.

Brandon Turner, A New English Grammar

老人が貧苦に陥ること、これは大きな不幸だ。

例文2

For such a person to lose his money is to suffer the most shocking reverse, and fall from heaven to hell, from all to nothing, in a breath.

R. L. Stevenson, "A Lodging for the Night"

そのような人が金を失うということ、それはもっとも恐ろしい禍に遇うことであり、一気に天国から地獄へ落ちることであり、富裕の身からすかんぴんになることである。

例文3

It is not a graceful thing for me to say, nor pleasant for you to hear, that what you have done hitherto in art and literature is neither of any value in itself nor likely to lead you to that which is truly and permanently satisfying.

Philip Gilbert Hamerton, The Intellectual Life

こんなことを言うのはぶしつけで、あなたがたも聞いて不快に思うだろうが、あなたがたが今まで芸術や文学においてなしてきたことにはなんらの価値もないし、真に、そして永遠に満足をもたらすものへとあなたがたを導くこともないだろう。

Monday, September 2, 2024

英語読解のヒント(131)

131. for (2)

基本表現と解説
  • We went to Suma for the summer. 「われわれは須磨に避暑に行った」

この文は We went to Suma to spend the summer. と言い換えることができる。

例文1

I saw in a newspaper that you were gone to Tintagel for the summer.

Charlotte Mary Brame, Wife in Name Only

ティンタジェルで夏をお過ごしになるということは新聞で知りました。

例文2

My aunt has taken an apartment in Rome for the winter and has already asked me to come and see her.

Henry James, Daisy Miller

伯母が冬をローマで過ごすために部屋を借りましてね、もうすでに遊びに来いと言ってきているんです。

例文3

In 1865 he was once more attacked by his malady, and had to retire to the country for three years.

Paul Rosenfeld, Musical Portraits

一八六五年に彼はふたたびこの病気にかかり、三年間田舎で療養生活を送らねばならなかった。

英語読解のヒント(145)

145. 付帯状況の with 基本表現と解説 He was sitting, book in hand, at an open window. 「彼は本を手にして開いた窓際に座っていた」 book in hand は with a book in his hand の...