Thursday, May 29, 2025

読書の衰退について


The Guardian 紙の文芸欄にエリフ・シャファクが「読書をやめた? エリフ・シャファクが語る「なぜわれわれはいまだ小説を必要としているか」が掲載され、興味深く読んだ。(こちら

最近のある調査によるとイギリス人の40%が昨年本を一冊も読んでいないらしい。アメリカの作家フィリップ・ロスが2000年に「文学の時代は終わった」と言ったが、今の人がひとつのことに集中できる時間は45秒から2.5分くらいというから、小説を読む習慣が消えていくのも当然である。ニューヨークにはTEDというNPO団体があって、ここはいろいろなゲストを呼んで新しい考え方を世に広める活動をしているのだが、エリフ・シャファクが2010年に講演を頼まれたときは、話す時間が20分あったのに、2017年に講演をしたときは13分に減らされていた。聴衆の集中時間が減っているから、というのが主宰者側の言い訳だった。

「われわれは情報(information)があふれかえっているが、充分な知識(knowledge)がなく、知恵(widsom)はさらに少ない時代に生きている。この情報過多はわれわれを傲慢にし、ついでわれわれを麻痺させる。この割合は変えられ、知識と知恵にもっと力点が置かれなければならない。知識のためには本やスロー・ジャーナリズム、ポッドキャスト、深い分析、文化的イベントが必要である。そして知恵のためにはとりわけ物語芸術が必要である。われわれは長い形式を必要としている」

要するにエリフ・シャファクは小説が必要と言っている。もちろん小説家が知恵者であるなどということではない。しかし小説には「洞察、共感、感情知能、深い同情」が含まれている、と彼女は主張する。

最後にエリフ・シャファックは四千年前に書かれた「ギルガメシュ」を例に、人間が成長していくために必要な要素がこの長編詩のなかにどのように見出されるのかを説明している。

小説は十九世紀の芸術形態であるとよく言われる。そして映画の誕生とともに小説の衰退ははじまり、ティックトックの登場とともにとどめをさされそうな形勢となったのである。

エリフ・シャファクは小説の教育的側面を強調しているが、しかし身近さ、手軽さがもてはやされがゆえに、深さ、あるいは長さが消滅しだしてから、わたしが気にかかっているのは、人々が質の良くない文学に容易にだまされるようになったということである。文学をたくさん読むということは、さまざまな物語パターンを知り、それらに対してすれっからしになるということだ。批評眼が発達し、容易に物語に取り込まれない態度をつちかう、これが文学研究だろう。だからこそ文学を学ぶとは文学を批判することと言われるのだ。

深さ・長さの消滅は、この態度の消滅をも意味している。そして人々はくだらない「文学」にころりと騙されるようになった。どこぞの首相が「美しい日本」などとほざいていたが、これなど愚劣な文学の典型例だろう。最近も一部の人間が流すでたらめを信じて噴き上がるような人々が大勢いる。文学のすれっからしなら決してひっかからないような詐欺に、まんまとひっかかってしまう。

文学をよく読む人なら、善と悪といった二項対立がなかなか成立しない、複雑でやっかいな事態をよく知っている。勧善懲悪の物語なんて馬鹿くさくって読めたものじゃない、というのが読書のすれっからしの最初の反応だ。(もちろん読書狂としてそんな作品を読まないわけじゃないのだけれど)だから外国人と日本人とか、現役世代と高齢者といった単純な二分法を用いた言説には眉に唾をする癖がついている。ところが文学を読まない人々はそういう一見「明快」な図式にすぐさまとりこまれてしまう。すれっからしでない人々にはこうしたものに対する免疫がないのだ。わたしはこれこそが本当の問題ではないかと思う。

文学や美学は一見すると実用世界からかけ離れているようだが、じつは極度に政治的な意味合いを持っているし、わたしが読書するときはイデオロギー的構築物としての側面に注意を払っている。

Monday, May 26, 2025

フランク・ハリス「爆弾」

 


作者のフランク・ハリス(1856ー1931)はアイルランドに生まれ、アメリカに移民した編集者・小説家である。アメリカのニューヨークに渡ったときは14才、ほとんど無一文で、靴磨きやポーターをやり、ブルックリン橋の建設工事にもたずさわった。この経験が小説「爆弾」の最初の部分のもとになっていることは間違いない。主人公であり、語り手でもあるルドルフ・シュナウベルトはドイツの、それなりに裕福な家庭に生まれ、ギムナジウムで教育も受けた。しかし父親との仲がうまくゆかず、若くしてアメリカに渡ることになる。彼は米国に行ったら文筆業につきたいと考えていたが、いくら仕事を探してもなにもない。とうとう有り金がつきそうになったとき、彼は肉体労働者として道路工事の人夫になる。そのあとは橋の建設工事に参加した。いずれも過酷な環境での労働だった。同じ仕事をしていた労働者のなかには、命を失う者もいた。

ようやくルドルフはドイツ系アメリカ人が経営する新聞社に記事を寄稿できるようになる。そしてニューヨークからシカゴへと活動の場所を移す。シカゴでは恋人も見つけるが、文字通り命をすり減らして働く労働者たちの社会主義的活動にのめりこむようになる。なかでも彼が心を惹かれたのがルイス・リングという男だ。雄弁で頭が切れ、(少なくともルドルフには)人間的魅力にあふれた人物だった。ルドルフはリングとともに労働者たちのさまざまな抗議集会に参加する。知識人がまじって理論的な話をする少数の集会もあれば、野外で開催される数千人の集会もあった。なにしろ当時の労働条件、労働環境は労働者を人とも思わぬとんでもないものだったし、とりわけ外国人労働者の扱いは奴隷以下のひどいものだった。さらに野外で集会を開くと警察隊が「やめろ!」と解散を命令する。労働者たちは周囲になにもない空き地で、ただ演説を聴き、示威行為に及ぶわけでもないのに、だ。警察はわざと労働者を挑発するように振る舞い、彼らがちょっとでも抵抗すると、警棒を振り回して男も女も子供すら容赦なく打擲しはじめる。それが次第にエスカレートして銃で彼らを殺すようにすらなる。新聞は警察の味方で、彼らがどんなに無茶苦茶な乱暴をはたらいても、警察を賛美するから、一般の人まで外国人労働者を怖れるようになる。

ルドルフは教養のある男であり、リングは教養こそないものの鋭い思考力の持ち主だったが、それでも目の前で若い女や子供が死んでいくのを見て、ついに一大決心をかためる。今度警察が集会の邪魔に来たら、爆弾を使おうと……。

1886年5月は今日のメイデイの起源となる、労働者の集会が行われたが、シカゴにおいては4日の日に、この小説に描かれた事件が起きた。労働者は会社によっては十二時間以上だった労働時間を八時間減らし、それまでの十時間労働分の給料を支払えと要求していた。集会そのものは平和的だったが、警察はまさに暴力的で、実際に拳銃を発射して労働者を殺していた。それに業を煮やし、集会に突入してきた警官隊に誰かが爆弾を投げつけたのである。

File:HaymarketRiot-Harpers.jpg
By Harper's Weekly - http://www.chicagohs.org/hadc/visuals/59V0460v.jpg, Public Domain, Link


この小説に出て来るのはほとんど実在の人物である。ただ爆弾を投げたのが誰かはいまだに特定されていない。が、ウィキペディアによるとルドルフではなかったかという説は有力なようだ。作者のフランク・ハリスはこの事件をかなり調べ、多少の想像力を働かせながらこの物語を書いたものと思われる。

本書には異様な迫力がある。十九世紀の後半は資本主義がとてつもなく昂進し、劣悪な労働環境があらわれた。そしてそれを告発する人々(Muckraker と呼ばれる)が活躍した時代だ。ネリー・ブライ(彼女の精神病院潜入記や世界一周旅行記は翻訳されていない!)やアプトン・シンクレア(新訳を出してほしい!)の作品は今でも古びていない。こうした錚々たる告発者たちのなかにフランク・ハリスの名もしっかり刻みつけなければならないだろう。それくらいすぐれた小説である。

Friday, May 23, 2025

マイケル・フリードマン編「トポロジーの観点から見た精神分析」

 


この本は自分にはやや専門的すぎるかなと不安を抱えながら読んだ。案の定、よくわからない部分もあった。とくにサモ・トムシッチやクローディア・ブリュムルの論文は専門家むけに書かれた難解なもので、正直、読み終わってもぽかんとさせられた。しかし啓発されたところもいくつかある。面白いと思った論点をわたしなりの言葉で書きつけておく。

1.フロイトを読むと物理学的な用語が頻繁にあらわれる。それは精神分析という新しい学問を自然科学のなかに位置づけようとする狙いがあったからだ。彼の叙述にはトポロジカルな観点がないわけではないが、それが明白に問題化されるのはフロイトの論理を整理し直したラカンによってである。

トポロジーというのは、なにかの図形を切ることなく、連続的に変形しても保たれる性質を研究するものだ。たとえば紙コップがあるとしよう。普通われわれはそのコップにどれくらい水が入るかと、深さや大きさを問題にする。さて、このコップが紙ではなく、ゴムよりも伸縮自在の素材でできているとする。すると徐々にコップを外側に展いていって、円形の平べったい平面に変形することが可能だとわかる。トポロジーにおいては変形前の紙コップと変形後の平べったい形のものはおなじであると見なされる。平べったいものを見れば、紙コップのときにわれわれが見た深さはじつはある種の錯視であったことがわかるだろう。

俗流精神分析ではよく無意識は心の奥底に存在しているように言われるが、トポロジーを導入したラカンはそれを否定する。無意識は紙コップの深さとおなじで奥底にあるように見えるとしたら、それは一種の錯視なのである。平べったい状態を考えれば、無意識は意識と同一平面上にある。柄谷行人はどこかで、無意識は深層にあるのではなく、隣にある、と言っていたが、これはラカンと同じことを言っている。

2.ラカンとフロイトの概念はパラドクスに満ちている。一つの例が「事後性」(Nachträglichkeit)の概念である。たとえばある瞬間(T1)の出来事は、それ以後のあるとき(T2)になってはじめてトラウマとしての効果を持ちはじめる。このときT1はT2の原因とみなされるけれども、通常の意味での原因ではない。通常の意味ではT1は結果T2を必ず生じさせることになる。ところが精神分析においては、そのような因果律は成立しない。T1があったからといって、必ずしもT2が発生するとはかぎらないのだ。つまりトラウマ的な体験をしたからといって、必ずそれがあとになってなにかの心的障害をもたらすとは決まっていない。心的障害が起きて、はじめて以前のある体験がトラウマ的であると認識されるのである。未来の時間T2が過去の時間T1をみずからの原因とか根拠に変質させる、というわけだ。

精神分析には「対象a」とか「現実界」とかパラドキシカルな概念が山ほどあるが、こうしたやっかいな構造をあらわすには三次元的なイメージではうまくいかず、メビウスの帯とか、クロスキャップとかクライン管といった四次元に属する逆説的な図形を利用しなければならない。

3.ムラーデン・ドラーの論文はいちばん読みやすく、刺激的だった。彼はラカンの議論のとりわけ声にかかわる部分に特別な注意を払っている学者だ。彼はここで内なる声、あるいは主体の分裂を問題にしている。われわれはそれぞれ主体 Subject であるけれど、その核心はなんだろうか。たとえば事故で指をなくした人がいるけれども、その人は指がない分だけより主体ではないとは言えない。肉体の損傷は主体の概念とは関係がないのだとしたら、なにをもってわれわれは自分を主体と考えるのか。もっとも考えられそうなのは心の声、内なる声ではないだろうか。しかしドラーの論文を読むとこれまた問題がありそうだ。内なる声を発する主が存在するということは、それを聞いているなにかも存在するということではないだろうか。だとすると主体は声を発するものとそれを聞くものとに分裂しているということになる。(実際、ラカンは主体を$と表記した。主体は線によって分割されているのだ)いったいこの輻湊する内なる主のどれが「わたし」なのだろうか。主体はじつは複数存在し、単一の主体性なるものはじつは幻想なのだろうか。あるいはこの複数存在する「わたし」がいつの間にか奇怪な階層性を生み出し、そのトップにたまたま立った「わたし」が主体という幻想のもとになるのだろうか。

特に結論らしきもののないこの議論が面白いのは、小説における「作者」と「登場人物」の概念にかかわってくるからである。物語のなかにはさまざまな立場の人間が登場人物としてあらわれる。この登場人物たちは「わたし」の内部にあるさまざま「声」ではないのか。そして「作者」はこれらさまざまな声を小説という形にまとめあげていく、一段上の階層にある「声」と見なせるだろう。しかし「作者」の声はもともとは登場人物の声と同一平面上にあったものなのではないか。それがある種トポロジカルな錯視の結果、登場人物の声を統括する声のように見えてしまうのではないか。マルクスは貨幣が商品群のなかから特権的なものとして析出されるさまを理論的に考えたが、作者も登場人物群のなかから析出されるのではないか。

わたしは「ドールズ」というホラー映画と「わが名はジョナサン・スクリブナー」という小説において、物語内部の周縁的存在が、じつは物語の枠組みを決定しているという奇妙なループ構造を見出して以来、作者と登場人物の関係をずっと考えているが、ムラーデン・ドラーはヒントになりそうなことをちょっとだけ与えてくれたと思う。

Tuesday, May 20, 2025

注目のPG作品

Eleanor Marx Aveling, (nickname Tussy) daughter of Karl Marx in 1913


Eleanor Marx(1855ー1898)

エリノア・マルクスはいわずとしれたマルクスの末娘。フェミニズム運動、社会主義運動で知られているが、小さい時から文学好きで、翻訳を何点か出している。今回プロジェクト・グーテンバーク入りしたのはフローベールの「マダム・ボヴァリ」で、エリノアがこの作品の最初の英訳者になるのだそうだ。すんなりよくわかる文章になっていて、彼女がすぐれた翻訳者であることがわかる。最近わたしは「作者」という概念が気にかかり出し、「ボヴァリ夫人はわたしだ」と言ったフローベールに注目し、なんだかんだと考えている。それはともかく、エリノア・マルクスは演劇にも興味があり、イプセンの「人民の敵」とか「海から来た婦人」などを翻訳し、「人形の家」(これはエリノアは翻訳していない)の朗読会をバーナード・ショーなどとともに開催してもいる。愛する人に裏切られ自殺した哀れな女性は、イギリス文学にも小さな、しかし大切な足跡を残していたのである。




Alfred Kubin(1877ー1959)

画家でいて作家(詩人)でもある、という人がいる。ウィリアム・ブレイクとかダンテ・ガブリエル・ロセッティとかデントン・ウェルチとかいくらでもいるが、アルフレート・クービンも両方の分野に秀でた人である。オーストリア・ハンガリー帝国のボヘミアに生まれ、十代で風景写真家アロイス・ビアの弟子になったが、あまり学ぶところはなかったという。精神が繊弱だったのだろうか、十九才のときに母親の墓の前で自殺をはかり、翌年軍隊に入ったが一年余りでノイローゼのため除隊している。二十一才から私立アカデミーで絵を習いはじめ、マックス・クリンガーの銅版画に出会い、おなじような作品の作成のためにおのれの人生を捧げようと決意する。その後、彼は象徴主義や表現主義の代表的な画家と見なされるまでになる。

今回、プロジェクト・グーテンバーク入りした作品 Die Andere Seite はカフカを思わせるような暗い雰囲気の不条理小説で、カルト小説と言っていい人気を誇る。五十年以上前のものだが、日本語訳も出ているので、図書館にあれば手に取ってみてほしい。この本には面白い逸話もある。本の挿絵はグスタフ・マイリンクの「ゴーレム」に使われるはずだったのだが、作品の完成が遅れたため、クービンが挿絵に会わせて独自の小説をかいてしまった。それが本作だというのである。

Saturday, May 17, 2025

Elementary German Series (5)

5. Der Körper1 des Menschen

der Kopf2

Der Kopf des Menschen ist mit Haaren bedeckt.3 Frauen und Mädchen haben langes Haar auf dem Kopfe. Männer und Knaben haben kurzes Haar auf dem Kopfe. Das Haar ist schwarz, braun, rot, blond, grau oder weiß. Schwarzes und braunes Haar ist dunkel; blondes und weißes Haar ist hell. Junge Leute4 haben schwarzes, braunes, rotes oder blondes Haar; ältere Leute haben graues oder weißes Haar; oder sie haben kein Haar auf dem Kopfe.

1. der Körper 肉体.
2. der Kopf 頭.
3. bedeckt 覆われている.
4. die Leute (複数形) 人々.

das Gesicht5

In dem Gesicht des Menschen sind zwei (2) Augen.6 In der Mitte des Gesichtes ist die Nase. In dem Gesicht sind auch der Mund, zwei Lippen, zwei Backen7 oder Wangen8 und das Kinn.

5. das Gesicht 顔.
6. das Auge 目.
7. der Mund 口.
8. die Backe = die Wange 頬.

das Auge

Das Auge ist schwarz, braun, blau, grau oder auch grün. Schwarze und braune Augen sind dunkel, blaue und graue Augen sind hell. Von den Augen sagen wir: „In den Augen liegt das Herz.“9

9. das Herz 心.

die Nase

Die Nase beginnt zwischen den Augen. Die Nase endet über dem Munde. Wer zu viel Wein trinkt, hat oft eine rote Nase.

der Mund

Der Mund ist unter der Nase und über dem Kinn. Der Mund ist zwischen der Nase und dem Kinn. Der Mund hat zwei Lippen. Die Lippen des Menschen sind rot. Wer sehr viel und sehr laut spricht, „hat einen großen Mund.“

die Backe (die Wange)

Wir haben eine rechte10 Backe und eine linke11 Backe. Gesunde Menschen haben rote Backen (Wangen). Die Backen kranker Menschen sind nicht rot. Wer viel iẞt, hat häufig dicke oder volle Backen. Wer viel Wein trinkt, hat häufig volle, rote Backen.

10. recht 右の.
11. link 左の.

das Kinn

Das Kinn liegt unter dem Munde. Wir sprechen von einem starken Kinn oder einem schwachen Kinn. Schwache Menschen haben häufig ein schwaches Kinn.

die Zunge12

Die Zunge ist im Munde. Wenn wir gesund sind, ist unsere Zunge rot; wenn wir krank sind, ist unsere Zunge grau. Wer viel Böses über13 andere Menschen sagt, „hat eine scharfe Zunge.“

12. die Zunge 舌.
13. über: ~に関して; sagen über ~について言う.

der Zahn14

Ein gesunder Zahn ist hart und weiß, ein kranker Zahn ist grau und dunkel. Mit kranken Zähnen gehen wir zu einem Arzt, zu einem Zahnarzt. Viele Tiere haben scharfe Zähne. Die Zähne des Wolfes sind scharf. Ein Krokodil hat viele große, scharfe Zähne.

14. der Zahn 歯.

das Ohr15

Die Ohren sind an den Seiten des Kopfes. Wir haben ein linkes Ohr und ein rechtes Ohr. Der Hase und der Esel haben lange Ohren. Oft sagt man: „Die Wände16 haben Ohren.“

15. das Ohr 耳.
16. die Wand 壁.

der Hals17

Der Hals ist unter dem Kopf. Der Hals ist zwischen dem Kopf und der Brust.18 Einige Tiere haben einen dicken, starken Hals, zum Beispiel der Elefant. Andere Tiere haben einen dünnen Hals, zum Beispiel der Storch.

17. der Hals 首.
18. die Brust 胸, 乳房.

die Brust

Die Brust junger, starker Menschen ist hoch19 und breit.20 Die Brust alter, kranker Menschen ist nicht hoch und breit, sondern schwach. Einige Tiere haben eine starke, breite Brust, zum Beispiel das Pferd.21

19. hoch 高い.
20. breit 広い.
21. das Pferd 馬.

der Rücken22

Das Pferd und der Esel haben einen starken, breiten Rücken. Das Pferd trägt23 den Menschen auf seinem Rücken. Der Esel trägt schwere Säcke auf dem Rücken.

22. der Rücken 背中.
23. tragen 運ぶ; 身につけている.

die Schulter24

Wir haben zwei Schultern, eine rechte Schulter und eine linke Schulter. Wer viel mit dem Körper arbeitet, hat starke, breite Schultern.

24. die Schulter 肩.

das Herz

Das Herz ist in der Brust. Das Herz liegt auf der linken Seite der Brust. Wenn wir schnell laufen, schlägt25 das Herz schnell; wenn wir schlafen,26 schlägt das Herz langsam. Wenn das Herz still steht, sterben wir. Von einem guten Menschen sagen wir: „Er hat ein warmes Herz.“

25. schlagen 打つ.
26. schlafen 眠る.

das Bein

Wir haben zwei Beine, ein linkes Bein und ein rechtes Bein. Wer viel geht, läuft, tanzt oder springt, hat starke Beine. Wer sehr wenig geht, läuft, tanzt oder springt, hat weniger starke oder schwache Beine. In Deutschland sagt man nach dem ersten27 Glase Bier oder Wein: „Auf einem Bein kann man nicht stehen,“ und dann28 trinkt man ein zweites27 Glas. Wenn jemand29 etwas30 vergißt,31 sagt man: „Was man nicht im Kopf hat, muß man in den Beinen haben.“

27. erst 最初の; zweit 二番目の.
28. dann それから.
29. jemand 誰か.
30. etwas 何か, いくらか.
31. vergessen 忘れる.

der Fuß32

Wir haben zwei Füße, einen linken Fuß und einen rechten Fuß. Eine Katze fällt immer auf die Füße. Wenn jemand viel Glück33 im Leben hat, sagt man: „Er fällt immer auf die Füße.“ Wenn jemand ein großes, schönes Haus hat, viel Land und viel Geld, sagt man: „Er lebt auf großem Fuße.“34 Wenn man gut versteht, was ein Freund spricht, sagt man zu seinem Freunde: „Was du sagst, hat Hand und Fuß.“

32. der Fuß 足(くるぶしより下).
33. das Glück 運, 幸福.
34. er lebt auf großem Fuße ぜいたくな暮らしをする.

die Hand

Wir haben zwei Hände, eine linke Hand und eine rechte Hand. An jeder Hand haben wir fünf Finger. Mit dem Zeigefinger35 zeigen35 wir. An dem Ringfinger tragen wir einen Ring. Man sagt: „Eine fleißige Hand macht reich“; -- „Er hat eine glückliche Hand"; -- „Er ist in guten Händen.“

35. zeigen 見せる, 指し示す; der Zeigefinger 人差し指.

das Knie

Wir haben zwei Knie, ein linkes Knie und ein rechtes Knie. Das Knie ist in der Mitte des Beines.

Wednesday, May 14, 2025

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(8)

§8.was = etwas
wer = jemand

 was, wer は元来は疑問詞ですが、通俗にはこれを不定代名詞(不定指示詞)として用います。

(1) Dort ruft wer um Hilfe.
  あそこで誰か助けを呼んでいる。

(2) Brauchen Sie was?
  何かご入用ですか?

(3) Gibt's was Neues?
  何か珍しいことがありますか?

§17. の welche の用法もこれからきています。

§8. (1) um Hilfe rufen: 助けを求めて叫ぶ(um は「……を求めて」。)

Sunday, May 11, 2025

英語読解のヒント(171)

171. if ever

基本表現と解説
  • If ever eyes spoke, hers did very plainly. 「目がものを言うなら、彼女の目はじつに明瞭にものを言った」
  • If ever a man was glad, I was that man. 「人が喜んだことがあったとすれば、わたしこそその人だった」

「もし……だとすれば、……こそその典型例である」という言い方。 ever, any, anyone, anything 等、強意を示す語が付随する。

例文1

If ever we thanked God from the bottom of our hearts, it was then.

George Kennan, Tent Life in Siberia

心の底から神に感謝したことがあったとしたら、それはじつにその時であった。

例文2

"If anything will cure your throat for you once, it will be the sea air."

Anthony Trollope, Christmas at Thompson Hall

「あなたの喉を治すものがあるとしたら、それは海の空気です」

例文3

If ever man was mad with excess of happiness, it was myself at that moment.

E. A. Poe, "The Spectacles"

嬉しさきわまって狂気のごとくなったとすれば、それはそのときにおけるわたしであった。

Thursday, May 8, 2025

英語読解のヒント(170)

170. if a day / if a penny

基本表現と解説
  • Why, the husband was seventy, if a day. 「いや、夫はどうしたって七十は確かです」
  • Why, it is worth a thousand, if a penny. 「いや、どうしたって千ポンドの値打ちは確かです」

if a day は年齢について用いられ「少なくとも七十歳」「七十歳は確か」の意味になる。if he was a day old 「一日でも齢を取っているとするなら」の省略形。省略しない形が使われることもある。if a penny も if it is worth a penny 「いやしくも(一ペニーでも)価値があるとするなら」の省略形。

例文1

He measured six feet two, if an inch; he weighed eighteen stone, if a pound.

James Augustus Henry Murray, A New English Dictionary on Historical Principles

彼は身長が六フィートはあった。体重は十八ストーンはあった。

例文2

"Mortimer, if I have told you once, I have told you a hundred times, that singing causes vibrations in the atmosphere which interrupt the flow of the electric fluid, and — What on earth are you opening that door for?"

Mark Twain, "Mrs. McWilliams and the Lightning"

「モーティマー、もう百遍は繰り返したわね。歌を歌うと空気が振動して電液の流れを阻害し、さらに……あなた、なぜ戸を開けるの?」

 if I have told you once は省略すれば if once となる。ただし、省略形を用いるときは hundred times の後に置かれる。また electric fluid だが、昔は電気は目に見えない液体に溜め込まれていると考えられていた。

例文3

The weight of these valuables exceeded three hundred and fifty pounds avoirdupois; and in this estimate I have not included one hundred and ninety-seven superb gold watches; three of the number being worth each five hundred dollars, if one.

E. A. Poe, "The Gold-Bug"

これら貴重品の重量は常衡三百五十ポンドを越えていた。この見積もりには百九十七の豪華な金時計は含まれていない。そのうちの三個は、いずれも五百ドルの価値はあっただろう。

 if one は if it was worth one dollar の省略形。

Monday, May 5, 2025

英語読解のヒント(169)

169. if not

基本表現と解説
  • Of whom should I think, if not of you? 「あなたのことを思わないで誰のことを思いましょう」
  • If not clever, the man was very honest. 「利口ではないが非常に正直だ」

「……でなければ」とか「……ではなくても」の意味になる。

例文1

Some hand had removed that bag; and whose hand could it be, if not that of the man to whom the knife belonged?

George Eliot, Silas Marner

誰かの手がその袋を奪った。その手はナイフの主の手でなければ誰の手であったろう。

例文2

It was now nearly if not altogether daylight....

E. A. Poe, "The Spectacles"

すっかりというわけではないが、ほとんど夜は明けていた。

例文3

The contending arimies were nearly equal in military strength, if not in numbers.

George Warburton, The Conquest of Canada

相争う両軍は、兵数においては差があったとしても、兵力においてはほぼ互角だった。

Friday, May 2, 2025

英語読解のヒント(168)

168. as much...as if / no more...than if

基本表現と解説
  • She thinks as much of her nurse as if she were her own mother. 「彼女は母親を思うほどに乳母のことを思っている」
  • She thinks no more of her nurse than if she never existed. 「彼女は乳母ははじめからいなかったかのように少しも思っていない」

前項とおなじように上記の例文もそれぞれ次の文の省略形である。

  • She thinks as much of her nurse as she would think of her if she were her own mother.
  • She thinks no more of her nurse than she would think of her if she never existed.

例文1

...the girl heeded him no more than if he had been made of stone.

Charles Dickens, Oliver Twist

娘は相手が石ころででもあるかのように少しも注意を向けなかった。

例文2

The English, keeping side by side in a great mass, cared no more for the showers of Norman arrows than if they had been showers of Norman rain.

Charles Dickens, A Child's History of England

密集して一大集団をなしていたイギリス軍は雨のように降りかかるノルマンの矢など意にも介さなかった。まるでそれがノルマンの雨であるかのように。

例文3

The most important requisite for a croquet ground is smoothness of surface. Very good sport may be had on a ground slightly inclined; indeed a little practice will enable the players to make allowance for the inclination, so as to play with as much accuracy as if the surface were horizontal.

Anonymous, Croquet

クロッケーでいちばん大切なのは地面にでこぼこがないことである。やや傾きのあるクロッケー・グラウンドでプレイするのは非常に楽しいことがある。すこし練習すれば傾きを考慮に入れ、地面が真っ平らであるかのような正確さでプレイできるようになるだろう。

エドワード・アタイヤ「残酷な火」

  エドワード・アタイヤ(1903-1964)はレバノンに生まれ、オクスフォード大学に学び、スコットランド人の女性と結婚した作家である。自伝や「アラブ人」という評論が有名だが、ミステリも何冊か書いている。ウィキペディアの書誌を見る限り「残酷な火」(61)は彼が書いた最後のミステリ...