Monday, September 29, 2025

劉慈欣「三体問題」


今回読んだのは、「三体問題」三部作の第一部だけだ。

「三体問題」はエイリアンとの遭遇を描いているため、同じような主題のSF作品とよく比較されるようだが、わたしは読みながら十九世紀の作家ジョン・ユーリ・ロイドが書いた「エティドルパ あるいは地球の終末」やD・リンゼイの「アルクトゥルスへの旅」を思い出した。異世界に対するセンス・オブ・ワンダーをかきたてるという意味で、「三体問題」は現代の西洋のSFを移植したというより、どっしりとした古典的な書き方に逆戻りした印象を与える。

それにしてもこれだけ重厚なSFが書かれるとは、中国文学は爆発的に成長しているということだろう。ほんの二十年前までエンターテイメントといえば任侠小説で、ミステリやSFは傍流に過ぎなかったのに、えらい変化である。たぶん中国系アメリカ人作家の活躍がいい刺激を与えているという部分もあるのだろう。

一般解が存在しない三体問題を小説の中心に据えたのはいい着眼だと思う。三体問題と現在の世界の政治状況がパラレルな関係にあるのは明白だろう。米ソの冷戦の時期は、世界は二体問題を解けばよかった。これは解が存在するし、この二つの力を利用して安定的に第三世界も存在し得た。しかし現在はどうだろう。中国がとてつもない勢いで国力をつけ、アメリカ、ロシア、中国、そしてEUと力は多極化している。とてもではないが、この先、どのような力の配置が展開されるのか、読むことはできない。安定の時期がどれぐらいつづき、波乱の時期がどれだけわれわれの発展を阻害するか、わかったものではない。三体世界では波乱の時期に惑星が割れてしまったようだが、これは戦争による国土分割の比喩とも取れるのではないか。ただこの問題系が三部作全体のなかでどれくらい発展させられていくのだろうか。第一部を読む限り、話が三体世界から離れていくようで、不安である。せっかくの面白いテーマが単純化されなければいいが。

物語は地球と三体世界の両方で進む。地球の物語は文化革命およびそれ以後の、とある科学者の人生を追う。一方、三体世界の物語は、過酷な環境のもと、何度も文明が滅亡と再興を繰り返すさまを描いている。で、あるとき地球の科学者が宇宙にむかって信号を発し、その信号が三体世界によって受信されることで、両者につながりができる。進んだ科学文明を持つ三体世界の住人は安定した惑星、地球を乗っ取ろうとする。中国の政治に絶望していた科学者のほうも、文明の進んだ三体世界に救世主の姿を見出し、思わず「来てくれ」と頼む。いったい地球はどうなるのか。結末は第二部、第三部に持ち越されている。

後半に入って地球VS三体世界という対立図式ができあがると、前半の謎めいたドラマが急に平板なものになり、陳腐化するのは(とりわけ三体世界の進んだ科学力に地球人がかなうわけがないと絶望する主人公らの描写はおセンチすぎていただけない)瑕瑾と言えるかもしれないが、それを補って余りある厚みがこの作品には備わっている。

量子力学や宇宙論に多少とも興味があるなら、本書に説明されている科学的・擬似科学的説明はべつに珍しくもないし、理解可能なものだろう。すくなくともグレッグ・イーガンを読むときより、わたしは楽に読めた。YouTube で感想を発信している人々の言葉を聞くと、量子力学をまったく知らない人のほうが、わからないなりに深い感銘を受けているような気がする。現代科学が切り開く異様な世界が作家たちの想像力を刺激し、新しい物語を紡ぎ出していくわけだが、本書はその最良の成果のひとつとなるだろう。前半部分の謎めいた書きぶりは秀逸。

Friday, September 26, 2025

アガサ・クリスティー「アクロイド殺し」


最近クリスティーの代表作を読み返しながらいろいろなことを考えた。

「アクロイド殺し」が出たのは1926年。しかしこの有名な叙述トリックはそれ以前にも用いられている。谷崎潤一郎の短編「私」が出たのは1921年だし、スヴェン・エルヴェスタッドの長編「鉄の馬車」が出たのは1909年だ。どうやら二十世紀の初頭は、一人称の語りに問題があるということが世界的に認識されだした時期らしい。ちなみにヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」(若い家庭教師の手記として書かれている。つまり一人称の語りだ)はそれまでたんなる幽霊譚と見なされてきたが、それを信頼できない語り手の物語と見事に読み替えて見せたエドマンド・ウィルソンの論文は1934年に出ている。

もともと小説などというものはいかがわしい産物であって、日本でも「源氏物語」なんか読むヤツは地獄に墜ちるといわれていた。西洋でも事情は変わらない。十八世紀にはやった書簡小説の序文を見ると、作者は道を歩いているとき偶然手紙の束を拾った、読むと面白いので、自分が不適切な部分やつたない表現に手を入れて、ここに出版する、などと書いてある。要するに、この物語は作者がでっちあげた物語ではない、と言い訳をしているのである。そうでなければ作家みたいな口先三寸の嘘つき野郎が書いた物語など誰が読むか、という空気があったのだ。「ねじの回転」のプロローグだっておなじような言い訳である。とある男が、自分の友人の知り合いの家庭教師の手記を、そっくりそのまま読者のご覧に入れよう、と書いてある。ちなみに、自分が書いたものではないと言い訳をして物語の客観性を保障する技法を、ディスタンスの技法という。

ところが次第に序文など書かれなくなり、大衆は物語を素直に享受するようになった。いまだに「小説なんて嘘っぱちだ。おれはノンフィクションしか読まん」という人はいるけれど、たいていの人は、物語が「わたし」によって語られていたら、素直に「わたし」の語りを信じるようになってしまった。

クリスティや谷崎やエルヴェスタッドは、語り手に信頼を寄せるようになった読者たちに対して背負い投げをくらわせたのだ、といっていいだろう。

しかし問題はこれだけにとどまらない。嘘つきの語りは確かに信用できないが、明白に嘘をついているのでなければ信用していいかと云えば、そうではない。問題は「すべての語り」がある種のバイアスを帯びているという点である。「アクロイド殺し」においてはある事実が最後まで隠匿されている。客観を装いつつもある種の事柄は語られない。この語るか、語らないかという取捨選択はすべての物語において生じる。そしてこの取捨選択がすでに語り手の特殊なバイアスによって行われているのである。どれほど作者が事実を書こうとしても、どれほど客観的な記述を志そうとも、このバイアスからは逃れられない。フランスのヌーボーロマンなどはこの問題系に偏執的な関心を寄せているように見える。

精神分析の受容が進んだ現在では、われわれはさらなる一人称の語りの奇怪な問題点に逢着している。一人称の語りはもちろん「わたし」が語るのだが、精神分析においては「わたし」が語るとき、「誰が語っているのか」そして「どこから語っているのか」が問われなければならない。われわれは言語を使用しているのではなく、言語に使用されている。あるいは、われわれは言語を書いているのではなく、書かれているという認識が受け入れられるようになったのだ。ピエール・バイヤールの驚くべき「アクロイド殺し」論は、まさにこの観点から書かれている。バイヤールは「アクロイド殺し」の語り手の背後に別の人物の欲望が存在すること、いわば「わたし」の二重性を見出した。そしてこの二重性が「アクロイド殺し」の叙述に混乱をもたらしていると指摘したのである。

バイヤールの議論は理論的洗練を持っていないせいだろうか、あるいはミステリは所詮知的遊戯という思い込みが広がっているせいだろうか、それにふさわしい注目をあびていないと思われる。しかしこれは小説論としてだけでなく、主体のアイデンティティといった哲学的な問題にも拡大しうる論点を含んでいる。じつはわたしも1990年頃からこの問題に就いて考えてきた。きっかけはスチュアート・ゴードン監督の「ドールズ」というホラー映画だった。主人公の少女の欲望がその母親の欲望の反映であることに気づいたのだ。そして少女の欲望の物語と見えたものが、じつはべつの存在の欲望の物語であると解釈可能だとわかった。また数年前に翻訳したクロード・ホートンの隠れた名作「わが名はジョナサン・スクリブナー」においても、語り手の「わたし」に二重構造が認められることに気づいた。(詳しくは後書きを読んでほしい)

ちょっと話がずれたが、クリスティーの「アクロイド殺し」をはじめとする一人称の問題を扱った作品群は、「わたし」の奇怪なありようを探るきっかけを与えてくれているように思われてならない。

Tuesday, September 23, 2025

チャールズ・ボーモント「侵入者」


アメリカ南部のとある町キャクストンでは、白人の学校に黒人を受け入れ、一緒に学ぶ人種統合政策が施行されようとしていた。地元の人々はなんとなく反発を感じつつも法律で決まったことだからと、それを受け入れていた。ところがここにアダム・クレイマーという謎の若者がワシントンの「組織」なるものから派遣されてキャクストンにやってくる。彼は町に着くなり、住民たちに電話で連絡を取り、またエラという高校生と親しくなって、黒人と一緒に学ぶことになる若者たちともコンタクトを取る。そして彼らのなかに眠っている人種差別的感情を煽り立て、人種統合政策を潰そうとかかるのだ。彼の煽動にのった町の住民たちは黒人にむかってすさまじい憎悪と暴力をむけはじめる。

1959年に出版されたが、まさに現代を描いているといっていい作品。とりわけ日本で排外主義を煽動するアダム・クレイマーのような男が登場したため、読んでいてその切迫感は半端じゃない。ボーモントの描く暴力シーンはリアリスチックで強烈。平然と読み流すことなどできなかった。また、明らかな暴力の登場にもかかわらず、警察やジャーナリズムがそれを問題にするまいとする態度にも注目するべきだろう。日本でも被害者の自殺や明白な脅迫、物理的暴力が存在するのに、警察やジャーナリズムの追求は弱い。そのことを考えるうえでも本書は一読の価値がある。そしてもう一つ。排外主義者が用いるレトリックがこの作品でも反復されている。本書ではアダム・クレイマーが何度か大勢の町民の前でヘイトを煽る演説を行う。しかし少なくとも言葉の上での主張によれば、排外主義者はたんなる外国人ヘイトではない。それはいわば洗練されたヘイトである。それにどう対抗するのかという問題を考える上でも本書は役に立つだろう。

なぜこれほどの作品が翻訳されていないのか。日本でも起きた外国人虐殺の記憶を呼び覚ますほど、内容があまりに政治的すぎるからか。それともたんに「トワイライト・ゾーン」の作家は賞味期限切れと思われているのだろうか。たしかにマイナーなジャンル小説を専門に出している Valancourt 出版社が本書をリプリントしているので、英語圏でもボーモントが忘れかけられている可能性はある。しかしもったいない。じつにもったいない。わたしが訳そうかな。

Sunday, September 21, 2025

今月の注目作

fadepage.comから

Darkness at Pemberley by T. H. White


先月 fadepage.com は大量のミステリを電子化して気を吐いた。そのなかの一冊が T. H. ホワイトの「ペンバーレイの暗闇」である。ホワイトはアーサー王伝説をもとにした「永遠の王」というファンタジーで有名だが、ミステリも書いている。本書の前半は密室もののミステリになっていて、後半は冒険ものという、二つのジャンルを一つにくっつけたような作品だ。

前半は興味深く読んだが、後半は犯人がスパイダーマンみたいに屋敷のなかを徘徊し、かなり調子が狂った。

standard ebooksから

Simon by J. Storer Clouston


ずいぶん前だが、一時期クロウストンの小説を読みあさったことがある。文学的な価値があるわけではない。ただ読みやすくて、そこそこ面白く、そして最後には軽く失望させられるからである。それなりの才能はあるようだから、一作ぐらいは偶然にいいものを書いているのじゃないか、と思い、それを捜して次々と作品を読んだ。そして一作だけ、今でも読むに耐える本があった。1899年に書かれた The Lunatic at Large (野放しの狂人)である。ピカレスク小説としてマイナーな傑作だと思う。

Simon 「サイモン」は間違いなく読んだと思う。タイトルをなんとなく記憶しているから。しかし内容はきれいさっぱり忘れた。本に添付された粗筋によると、スコットランドの検察官サイモンは土地管理人の仕事もしていたのだが、彼が管理していた土地の所有者が奇妙な状況下で殺害されてしまった。地元警察ではとても事件解決はおぼつかず、片眼鏡のキャリントンという探偵が雇われることになる……というような話らしい。

クロウストンの英語はわかりやすいし、どの作品も途中まではたしかに面白いので、暇つぶしに読むにはうってつけだと思う。

fadepage.comから

Ex-Wife by Ursula Parrott


このブログで去年レビューした作品。コピーライターとしてばりばり働くパトリシアはピーターと結婚し、いわゆる「モダン」で「実験的」な結婚生活を送っていたのだが、ピーターのほうがそれに耐えられなくなり出て行ってしまう。この本は「元妻 Ex-Wife」となったパトリシアの赤裸々な感情やふるまいを描く、ジャズ・エイジのベストセラー。1929年といえば昭和四年だが、あの頃にもうこれだけの小説が出ていたのかと彼我の差に驚く。今読んでも面白い。


LivriVoxから

The Quaker City by George Lippard


「クエーカー・シティ」は十九世紀の中期に出版された。この頃は急速に大都市化がすすむと同時に貧富の差が拡大し、都市特有の犯罪や腐敗も増えていったが、フィラデルフィアにおけるその様子をジャーナリスティックな目であばいて見せたのが本書。「パリの秘密」とか「ロンドンの謎」とかこの当時は大都市のありようを主題にした大作が各国で書かれたが、アメリカを代表するのが「クエーカー・シティ」だと言える。LivriVox の朗読は二十七時間を越える長大なものだが、朗読者のマーク・ネルソン氏の声は素人ながら聞きやすいほうなので、この奇書を読むお伴におあつらえ向きだろう。


Wednesday, September 17, 2025

Elementary German Series (9)

9. Der Tag

Der Tag und die Nacht haben zusammen vierundzwanzig Stunden.1 Eine Stunde hat sechzig Minuten. Eine Minute hat sechzig Sekunden.

1. die Stunde 時間(60分).

Der erste Teil2 des Tages ist der Morgen, der zweite Teil ist der Mittag,3 der dritte Teil ist der Nachmittag, der vierte Teil ist der Abend, und der fünfte Teil ist die Nacht.

2. der Teil 部分.
3. der Mittag (昼) + das Essen (食事, 食物) = das Mittagessen 昼食.

Der Morgen ist für fleißige Leute viele Stunden lang. Für faule Leute ist der Morgen sehr kurz, denn faule Leute schlafen bis zum Mittag. Der Mittag liegt in der Mitte des Tages. Am Mittag essen wir unser Mittagessen.3 Nach dem Mittag kommt der Nachmittag. Am Nachmittag trinkt man in Deutschland Kaffee. Nach dem Nachmittag kommt der Abend, und nach dem Abend kommt die Nacht.

Am Morgen sagen wir: „Guten Morgen, haben Sie gut geschlafen?“4 Vor dem Mittagessen sagen wir: „Guten Appetit!“ Am Nachmittag sagen wir: „Guten Tag!“ Am Abend sagen wir: „Guten Abend!“, und wenn wir zu Bett gehen, sagen wir: „Gute Nacht, schlafen Sie wohl!“5

4. geschlafen 眠った.
5. wohl よく, 充分に.

Sunday, September 14, 2025

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(12)

§12.alle
(すべての)
beide
(両方の)
viele, manche
(多くの)
wenige
(少数の)
einige
(若干の)
andere
(他の)

 これらの後を定語尾属(すなわち、冠詞や dieser, jener など)と見なすべきか、あるいは不定語尾属(前に立つ定語尾属の如何によって格語尾の変わるもの、すなわち形容詞)として扱うかは一定していません。

 まず alle ですが、これは全然定語尾属として扱います。すなわち定冠詞と同じ扱いで、その次にくる形容詞は各格とも弱語尾です:

1. alle guten Dingeすべての良き物事は
2. aller guten Dingeすべての良き物事の
3. allen guten Dingenすべての良き物事に
4. alle guten Dingeすべての良き物事を

 ただし、「すべての私の仲間たち」は alle meine Kameraden です。なぜかといえば、meine は語尾の一定した冠詞類(すなわち定語尾属)で、つまり alle と同じ部類のものだから同語尾になるわけです。

 ところが beide となると、定語尾扱いにしたり(beide angrenzenden Staaten 両隣接国家)、あるいは形容詞扱いにしたり(beide angrenzende Staaten)します。(manche も同様。)

 einige, wenige, viele, andere は、二格以外は必ず形容詞扱いにします。

1. andere gute Dinge
2. anderer guter (または guten) Dinge
3. anderen guten Dingen
4. andere gute Dinge

 この例にならって、zwei, drei にも語尾をつけることがあります。それは主として二格です:Sie ist Mutter zweiter gesunder (または gesunden) Knaben.(彼女は二人の健康な男の子の母である。)

§12. angrenzend: 境を接した、隣接の。

Thursday, September 11, 2025

英語読解のヒント(187)

187. be it enough

基本表現と解説
  • Be it enough to say that the man was identified at last.

この be it enough は前項の suffice it とおなじ意味。

例文1

We have nothing to do with David until we find him, at the age of twenty, on the high road from his native place to the city of Boston, where his uncle, a small dealer in the grocery line, was to take him behind the counter. Be it enough to say that he was a native of New Hampshire, born of respectable parents, and had received an ordinary school education, with a classic finish by a year at Gilmanton Academy.

Nathaniel Hawthorne, "David Swan"

話は二十になったデイヴィッドが、街道を通って故郷からボストンの街へ向かうところからはじまる。ボストンには食糧雑貨を扱ってささやかな商いをしている叔父がいて、彼を店員として雇うことになっていた。彼はニューハンプシャーの生まれで、立派な両親を持ち、普通の教育を受けたあとギルマントン専門学校で一年古典を修めたということだけ言っておく。

例文2

But let us not be betrayed from a defence into a critical history of poetry and its influence on society. Be it enough to have pointed out the effects of poets, in the large and true sense of the word, upon their own and all succeeding times

Percy Bysshe Shelley, "A Defence of Poetry"

しかしわれわれは擁護論から、詩の批評史や詩が社会に与える影響論へと入り込んではならない。大きな意味、真の意味における詩人が、同時代、そして後世に与える影響を指摘したということで、ここは満足しておこう。

例文3

Nature, which had turned my young mind toward the bird and the flower, soon proved her influence upon my heart. Be it enough to say, that the object of my passion has long since blessed me with the name of husband.

John James Audubon, Ornithological Biography

自然はわたしの若き心を鳥と花にむけさせたが、じきにそれはわたしのハートにも影響力を及ぼすことになった。ここではわたしの情熱の対象がそれ以来長らくわたしを夫と呼んでくれているとだけ申し上げよう。

Monday, September 8, 2025

英語読解のヒント(186)

186. suffice it

基本表現と解説
  • Suffice it that the man was identified at last.

「男の正体が判明したというだけで充分としよう」。suffice it は let it be sufficient 「十分なれ」という意味の古い命令法。次のような形もある。

  • Suffice it to say that the man was identified at last.
  • Let it suffice that the man was identified at last.

例文1

"Well, to continue my story — at the end of a fortnight my son and his friend escaped. I need not trouble you with the dangers which they ran, or with the privations which they endured. Suffice it that to disguise themselves they had to take the clothes of two peasants, whom they waylaid in a wood."

Arthur Conan Doyle, "The Lord of Chateau Noir"

「さて、話をつづけよう。二週間ののち、わたしの息子とその友人は逃亡した。彼らがどんな危険に身をさらし、どんな困難に耐えたかは語るまでもないだろう。ただ、変装のために林のなかで二人の農夫を待ち伏せ、その服を奪わなければならなかったということだけは言っておく」

例文2

I have no need to explain to you the nature of the obligation under which he was laid; suffice it to say that I knew him ready to serve me in any practicable manner.

R. L. Stevenson, New Arabian Nights

「彼がどんな恩義を抱いているのかという点は説明する必要がないでしょう。ただ彼はやれることならなんだってわたしのためにやってくれる、とだけ言っておきましょう」

例文3

Horror and fatality have been stalking abroad in all ages. Why then give a date to the story I have to tell? Let it suffice to say, that at the period of which I speak, there existed, in the interior of Hungary, a settled although hidden belief in the doctrines of the Metempsychosis.

E. A. Poe, "Metzengerstein"

恐怖と宿命はいつの時代にもはびこってきた。ならばこれからわたしが語ろうとする物語に年代を付す必要があるだろうか。ただそのころ、ハンガリーの僻地においては輪廻の信仰がこっそりと、しかし牢として抜きがたく行われていたとだけ言っておこう。

Friday, September 5, 2025

英語読解のヒント(185)

185. be it so / so be it

基本表現と解説
  • Be it so.
  • So be it.

いずれも Let it be so. 「それならそれでいい」、「そういうことにしよう」という承認、あるいはあきらめをあらわす表現。また「そうあれかし」という祈願の意味にもなる。

例文1

"Be it so," said his fellow-traveller. "Betake you to the woods, and let me keep the path."

Nathaniel Hawthorne, "Young Goodman Brown"

連れの旅人は言った。「それならそうするがいい。あなたは林のなかを進み、わたしはこの道を行こう」

例文2

 "You jest," he exclaimed, recoiling a few paces. "But let us proceed to the Amontillado."
 "Be it so," I said, replacing the tool beneath the cloak and again offering him my arm.

E. A. Poe, "The Cask of Amontillado"

 「冗談だろう」と彼は後じさりながら叫んだ。「とにかくアマンティリャードのあるところへ行こう」
 「ああ、いいよ」わたしは道具をマントのなかにしまい、また腕を差し出した。

例文3

 "Thou need'st not stir; he will return quickly."
 "So be it, then. I will try to wait."

Mark Twain, The Prince and the Pauper

 「ここにいらっしゃればいいですよ。彼はすぐに戻ってきますから」
 「じゃあ、そうしよう。待つとするか」

Tuesday, September 2, 2025

英語読解のヒント(184)

184. no matter を使った譲歩

基本表現と解説
  • No matter how trifling the matter may be, don't leave it out.

「どれほど詰まらないことでも省かないでください」。no matter how は however の意味になる。同様に no matter who は whoever の意味。

例文1

Association with the good can only produce good; with the wicked, evil. No matter how sly, how secret, no matter if our associations have been in the dark, their images will sooner or later appear in our faces and conduct.

Orison Swett Marden, Pushing to the Front

善きものとの交わりは善きものを生み出し、悪しきものとの交わりは悪しきものを生み出す。どれほど人目を盗み、どれほど秘密のうちに、またどれほど暗闇に隠れて交わろうとも、その面影は遅かれ早かれわれわれの面貌や振る舞いにあらわれるものである。

例文2

Emile is an orphan. No matter whether he has father or mother, having undertaken their duties I am invested with their rights.

Jean-Jacques Rousseau, Emile (translated by Barbara Foxley)

エミールは孤児である。両親がいようがいまいが、彼らの義務を請け負ったわたしは、彼らの権利を与えられたのである。

例文3

We are here — no matter who put us here, or how we came here — to fulfil a task. We cannot afford to go of our own volition until the last item of our duty is discharged.

Felix Adler, Life and Destiny

われわれがここにいるのは……誰がわれわれをここに据えたのか、どのようにわれわれがここに来たのかに関係なく……なんらかの務めを果たすためである。務めが完全に果たされるまでわれわれは勝手にここを離れることはできない。

Elementary German Series (10)

10. Die Tage der Woche 1 Die Tage der Woche heißen Montag, Dienstag, Mittwoch, Donnerstag, Freitag, Samstag (oder Sonnabend) und Sonntag. D...