Wednesday, January 29, 2025

エドナ・シェリー「バックファイア」

 


エドナ・シェリーは1885年オハイオ州に生まれ、スターテン・アイランドのカレッジで英文学を教えたのち、文筆業に転じた。もっぱらパルプ雑誌に短編やらキワモノ的な小説を書いていた。彼女が書いた最初のミステリは48年の「突然の恐怖」で、これはジョーン・クロフォード主演で映画化された。しかしわたしが見るところ、彼女は文章が凡庸で、物語も人物造形も定型化していて、あまり面白い作家ではない。

56年の「バックファイア」もその弊を免れていない。貧しい家に生まれたチャールズという男が、金と地位を求めて必死に働き、のしあがるが、妻に浮気相手ができ、さらに離婚の危機にさらされる。妻はその土地の実力者の娘で、彼女と別れるとなれば、社会的地位を極めようとする彼の目論見にはきびしい痛手となる。そこで自分の出世に響かないような形で、妻を殺害することを考える。その殺人は完全犯罪でなければならない。

物語の後半では、妻の浮気相手だったアダムが事件を知り、犯人はチャールズにちがいないと、警察の友人の助けを借りて、彼の鉄壁のアリバイを崩そうとする。

最初の数章ですぐわかるのだが、この作品は登場人物がみな一面的で、プロットのために機械的に動いている感じがする。人間的な複雑さとか、心理のあやはまるでない。文章も決まり文句が多用され、俗っぽい。「赤い色が彼女の白い肌をゆっくりと登っていった。アダムの脈搏は120まであがった」などという文章が臆面もなく書きつけられるのだから、正直、いやになる。

しかし後半のアリバイ崩しに入ると、チャールズが考えるところの完全犯罪が、いかなる盲点を持っているかが次第にあきらかになり、それなりに面白くなる。チャールズは出世欲に取り憑かれた、ひたすらエゴイスチックな男だが、後半の中心人物であるアダムは売れない劇作家であるせいか、人間味があり、すくなくともチャールズほど平板でもなければ、不自然さも感じさせない。

後半は確かに楽しめたから、出来が悪いとは言わないが、総合的には標準をちょっと下回る作品。

(表紙を見たらわかるように Detective Book Club の三冊合本版で読んだ)

Monday, January 27, 2025

AIの翻訳力についての雑感

中国の AI の技術力がマーケットに波乱を起こしているようだが、たまたまエセル・リナ・ホワイトの Fear Stalks the Village を再読していたわたしが、本文のある箇所に疑問を感じ、Copilot と 今話題の DeepSeek に質問してみたところ、面白い結果が出たので報告しておく。

Fear Stalks the Village (「恐怖が村に忍び寄る」)には次の様な会話がある。

  “I simply can’t understand all this silly worship of Miss Asprey,” she said. “You see, I went to school with her. Of course, I was much younger, for she’s sixty-four. But, even then, I was a little novelist, only my books were more mature than The Young Visitoe. Decima was one of the big girls, with long, fair pigtails-but I took her measure, all right.”

  “Fair plaits. She must have looked like Marguerite,” murmured Vivian.

  “Marguerite, without the guts to go to hell. And I don’t see she’s made a success of her life. She chucked her job when she was still a young woman. After all, I’ve stuck to mine.”


最初の段落は、自分はミス・アスプレイがどうしてあんなに崇拝されているのか、理解できない。自分とミス・アスプレイはおなじ学校に行っていた、もちろん自分のほうが学年は下だ。あの頃から自分は小説を書いていた。「わかきほうもんしゃ」よりももうちょっと大人びた作品を。デシマというのはミス・アスプレイのことで、彼女はあの頃、金髪を長いお下げにしている大柄の女の子だった、と書いてある。ちょっと註釈をいれると、「わかきほうもんしゃ」というのはデイジー・アッシュフォードという女流作家が九歳のときに書いた小説で、綴りも文法も子供らしく滅茶苦茶なのだが、非常にませた内容で、1919年に発表されてひどく有名になった本だ。

二段目は「金髪のお下げ髪」と聞いて相手が Marguerite みたいだったんでしょうね、と言っている。この Margurite はいったい誰を指しているのか。これが問題だ。

正直わたしも最初はぴんと来なかったが、ミス・アスプレイが純粋で道徳心の化身のように見なされていること、三段目で「地獄に墜ちる勇気のない Marguerite ね」と言われていることから、シャルル・グノーのオペラ「ファウスト」に出て来るマルガレーテだろうと見当をつけた。(ちなみに、女性はこういうふうに髪の毛の色とかスタイルに鋭い観察眼を働かせるが、わたしはそういうことに情報価値を見出さない鈍感な男である。女流作家の作品を読んで感心し、またあきれてしまうのは、こういう女性的リアリズムである)それから確認を取ろうと思って、上記の引用をまずは DeepSeek に示し(作品の内容や書かれた時期についての情報も与えた)この Marguerite は誰を指しているかと聞いてみた。するとこれはアレクサンドル・デュマ息子の小説 La Dame aux Camelias に出て来る Marguerite Gautier だと解答した。この本は読んだことがないので、びっくりしてちょっと調べたのだが、要するにこの Marguerite Gautier は娼婦のような女であり、道徳心のかたまりであるミス・アスプレイを彼女に譬えることはどう考えてもありえないと思った。

そしてファウストのマルガレーテではないかと再度問うと、「あんたが正しい!」ときた。ファウストのマルガレーテは金髪でお下げにしており、引用文にぴったり合うと言うのだ。

面白いので今度は最初の質問をそのまま Copilot に投げかけてみた。するとまたもや驚愕の解答がかえってきた。Marguerite は「紅はこべ」の Maruerite Blakeney だと言うのだ。いやいや、彼女は金髪だったかもしれないが、はたしてお下げにしていただろうか、とわたしは思った。それにミス・アスプレイのイメージとだいぶ違う。ミス・アスプレイのイメージは「恐怖が村に忍び寄る」の大切なポイントなのだ。で、こちらでもファウストのマルガレーテではないか、と再び問いかけたのだが、「鋭いね!」と返事をしやがった。そして「ファウスト」のマルガレーテなら引用文がどう解釈できるか説明して、最後に「ご指摘ありがとう」などと言うのである。さらに Copilot には、「ファウスト」のマルガレーテはお下げ髪なのか、とも聞いてみた。すると、とくにそうと決まっているわけではない、オペラのプロダクションによってヘアスタイルは違ってくるだろう、と返答した。

そこで DeepSeek に戻って、「先ほどファウストのマルガレーテは金髪でお下げにしていると、あなたは解答したが、その情報源はどこか」と聞いてみた。すると興味深い答が返ってきた。自分の解答は芸術的伝統、オペラ舞台の伝統、マルガレーテの文化的、歴史的表象を踏まえてのものだという。

まずマルガレーテは純真な村娘だが、オペラにおいては金髪、お下げ髪というのが、とりわけ十九世紀ヨーロッパにおいては、お決まりのヘアスタイルだったらしい。また十九世紀、二十世紀初頭のオペラ公演においては、マルガレーテ役はお下げ髪にすることが多かったという。ネリー・メルバやマリア・カラスもお下げ髪で公演したことがあるという。(ほんまかいな)さらに絵画においてはマルガレーテの純真さを象徴して金髪お下げ髪姿が描かれることが多いのだそうだ。

確かに絵画を見てみるとマルガレーテは金髪、お下げ髪になっている。してみると、DeepSeek の答は一応根拠がありそうだ。こうしたイメージが一般に流布していて、引用文にあるような「マルガレーテみたいだんでしょうね」という発言につながっているのだろう。

(右のほうの女性がマルガレーテ。金髪の髪の毛を三つ編みにしているようだ。)

(左の白衣の女性がマルガレーテ。こちらも金髪をお下げにしている)

そんなこんなで二時間ほど AI と遊んだが、単純に AI を信じてはいけないことが身に染みてわかった。同時に AI が優秀なツールになりうることもよくわかった。しかし AI に翻訳をまかせるのはまだちょっと早い。AI は文学作品が特殊な磁場を持った情報体(しかも読み手によってその磁場が変化するような情報体)であることを理解していないからだ。この磁力の働きを感じ取れないから、Margurite が誰なのかを判別できないのだ。これは文学を翻訳=解釈する際に決定的な欠点となるだろう。今回は AI に翻訳をさせたわけではないが、その基礎となる原文の理解力の部分で、まだ問題が残っているということがわかった。

Sunday, January 26, 2025

ヘレン・ライリイ「ドアが開いて」

 

ヘレン・ライリイのマッキー警部もので、1944年に書かれた。舞台は第二次世界大戦中のマンハッタン。灯火管制が敷かれ、夜は真っ暗だ。なぜ灯火管制が敷かれているかと言えば、もちろん日本が零戦で攻撃してくるのを避けるためである。登場人物の一人が米国空軍の軍人であるため、戦争の話もちらりと作中に出て来る。さて、事件が起きるのは、霧が出て、昼間でも視界はよくない十二月のある日だ。この日、フラヴェルという富豪の一家が一堂に会する。父親、父親の義理の姉、父親の娘、息子とその婚約者や配偶者、さらに父親が再婚したときに産まれた娘とその婚約者である。彼らのあいだには愛憎関係や利害関係が複雑に渦巻いている。黄金期の推理小説にはよくある設定だ。そしてそのうちの一人、父親の義理の姉が夕方、近くの公園で殺され、翌朝、死体が発見される。もちろん犯人は集まった人間のうちの一人だ。

本書は捜査過程がこまかく描かれているので、いわゆる「警察もの(police procedural)」のジャンルに入れる人もいるだろうが、同時にフラヴェル一家の一人イブという娘の視点からも叙述がなされる。イブには婚約者がいるのだが、じつは昔、腹違いの妹の婚約者とひそかな関係があったらしく、彼への思いを他の人に悟られないようにみんなの前で振る舞わなければならない。そして昔の恋人に警察の嫌疑がかかると、こっそりその証拠の品を隠すし、新たな事件の手掛かりに気づくと、単独で捜査に乗り出したりする。おかげで毒を飲まされ、殺されかかりもするのだが、彼女の恋愛感情や行動力がマッキー警部の冷静な捜査態度といい対照をつくって、物語を面白くしている。

ヘレン・ライリイは本書を派手さのない抑えた調子で書いている。が、物語を展開させるペース配分がみごとで、あっという間に読んでしまった。闇のなかでうごめく犯人やその他の人々の様子はラインハートばりのサスペンスに満ちている。いぶし銀のような一作だ。犯人の意外性といい(わたしはまったくわからなかった)大いに推奨する一作。

いつも思うのだが、1920年以降に登場する本格ミステリと、それ以前に流行していたセンセーション・ノベルは構造が靴下をひっくり返したように反転している。センセーション・ノベルでは衝撃的な物語が全編を通じて展開されるが、ミステリでは、それは最後の部分で(たいていの場合、探偵によって)凝縮した形であきらかにされる。「本邦未訳ミステリ百冊を読む」というブログをつけていたときは、この反転を可能にしたものはなにか、という問題意識をもって過去の作品をよみあさったのだが、「ドアが開いて」を読みながら、もう一回この反転構造に就いて考えてみたくなった。十九世紀的感性と二十世紀的感性の差が決定的にそこにあらわれているような気がする。

Thursday, January 23, 2025

森雅裕「モーツァルトは子守唄を歌わない」

 


日本語の作品はレビューに取り上げないことにしているが、とびきり上等の作品にでくわしてしまったので、書かざるを得ない。

森雅裕の「モーツァルトは子守唄を歌わない」である。

この作者の文章はすばらしい。はじめて読んだが、感服した。本書は江戸川乱歩賞を受賞したらしく、巻末に選考委員のコメントが出ていたが、はっきり言って選考委員の誰よりも文章がうまい。選考委員の小林久三をわたしは高く評価しているが、文章の魅力という点では森の比ではない。これはいい人を発見した。これから彼の作品を探し出して読みふけるという楽しみが出来た。

内容はベートーヴェンが探偵となってモーツァルトの不審な死の真相を探る、というものだ。ベートーヴェンが語り手となって物語は進むのだが、あの堅苦しい顔からは考えられない口の悪さだ。その弟子もそんな師匠と丁々発止を展開できるくらい、口の減らない男であって、この二人の掛け合いがたまらなくおかしい。そういう笑いが明らかに漢文脈を基礎に持つ地の文のなかで繰り広げられるのだ。たんにおかしみがあるだけでなく、どことなくグロテスクさすら感じさせる。

ところで漢文脈という言葉でわたしはなにを意味しているのか。中島敦みたいに漢文訓読調の言い回しを多用していればもちろん漢文脈だが、漢字の使用が多く、それに欧米語の翻訳文体を意識的に合わせ用いているものも、わたしは漢文脈と考えている。本書から例を取ろう。


 協奏曲の中で絢爛なピアノ技巧が炸裂するためには、オケは断じて添えものであってはならない。

 独奏楽器とオーケストラが競い合い、呼応しながら緊張の刃で時間を削りとっていくのが協奏曲なのだ。

 オケがひどければ、ピアノもこける。技術と解釈が一致した上で演奏するのでなければ、闘争は足の引っ張り合いに終わってしまうのだ。


「ひどければ」とか「こける」とか「足の引っ張り合い」といった俗っぽい口語的語彙も含まれているが(この混淆の見事さが森の特徴ともいえる)、この文章の背骨にあるのは漢文脈で、その凝集性と、力強さがよく出た一節だと思う。もちろんそのために理屈っぽくなり、和文脈のようなやわらかさは犠牲にされることになるのだけれど。しかしわたしは漢文脈が大好きで矢野龍渓の「浮城物語」や大町桂月の「西遊記」を枕頭の書にしている。思うに、和文脈すら、漢文脈との対立において、その緊張関係においてのみ、成立するのではないか。

いったいこの作者はどんな作品を読んで、この文体を獲得したのだろう。大いに気になる。

Monday, January 20, 2025

ピーター・チェイニー「星は暗くまたたいて」

 


第二次世界大戦を背景にしたチェイニーのスパイ小説。主人公クエイルはイギリスの諜報組織を統轄している。彼の下で多彩なスパイたちが働いている。水夫のように体格のいいグリーレイ、美人だが恐るべき記憶力を持つジラ、仕事ひとすじに打ち込むフェル等々。彼らはチームを組んで敵国ドイツの情報を探り出そうとする。

あるときモロッコからフォーデンという男がイギリスに帰国した。彼はドイツに関するとびきりの機密情報を持っているらしい。そしてそれを大金と引き替えに売ろうとしている。フォーデンの情報ははたして信頼できるものなのか、また、本人が思っているような重要な機密なのか、それを探り出すためクエイルはスパイたちにフォーデンと接触を命じる。

ところが接触したメンバーのうち、ジラが不可解にもピストル自殺をしてしまうのだ。しかしそれは本当に自殺なのか。ドイツとイギリスのあいだで虚々実々のスパイ合戦が展開する。

1943年の作品だが、この時期になると現代のスパイ小説の形がほとんどできあがっていて、読んでいてもあまり古さを感じさせない。しかし微妙に違うとしたら、それはどんな点にあるのか。それは単に時代背景だけの問題ではないだろう。やはり書き手の認識が変化してきているのだ。二十世紀初頭のスパイ小説、たとえばル・キューとかオッペンハイムの作品にはロマン主義がただよっている。そこにはまだ正邪の区別があり、夢と冒険が可能な世界だ。チェイニーではすべてがぐっと地味になる。登場人物は普通の人々、もちろんスパイの教育は受けているが、地位も身分もない市井の人々でもある。(ル・キューやオッペンハイムの主人公はたいてい貴族である)そして物語に描かれているのは夢と冒険ではなく、頭脳合戦である。どちらが敵の読みを上回るかという、チェスゲームであり、銃撃戦やらなにやらといった活劇は付け足しに過ぎない。しかし正邪の観念はまだ残っているように思われる。

グリーンやル・カレになると、この正邪の観念が曖昧になる。正邪の区別をするときジレンマに襲われるようになるのだ。その認識の差が現代のスパイものとチェイニーの大きな差ではないだろうか。わたしにはチェイニーの作品にはまだ「甘さ」があるように思えるけれども、しかし充分に面白い。

Friday, January 17, 2025

関口存男「新ドイツ語大講座 下」(4)

§4. Solch ein kleines Kind weiß von gar nichts.

そんな小さな子供は何も知らない。

 一般的に「さような」という際には solch- を用います(英語の such)が、その用法には二三の場合が区別されます。まず題文のような、感歎的ないし軽蔑的な口吻を交える場合には solch ein あるいは so ein を用い、solch や so の方は無語尾のままで、ein の方だけを格変化します。「そんな小さな子供には人はすべてを許す」ならば Solch (または So)einem kleinen Kinde verzeiht man alles です。英語も such a little child ですが、 so を用いると形容詞の方が前に来て So little a child となる点がドイツ語とちがいます。

 複数になると ein は用いませんから、solch kleine Kinder または solche kleine Kinder となります。

 形容詞が無い場合には、solch を形容詞として扱って Ein solches Kind (Solch ein Kind と同じ)ともいいます。

 以上は感歎的・侮蔑的な口吻の場合ですが、前節で述べた derjenige や dasjenige と同じ用法、すなわち単に「その」といって指すにすぎない場合には、殊に複数では、solche kleinen Kinder (……のその小さな子供ら)と、solche を指示詞(すなわち冠詞の一種)として扱い、形容詞の格語尾を弱語尾にします。(前述の solche kleine Kinder では、solche も kleine も共に形容詞扱いになっています)。ちょっとやっかいな区別ですが、語尾によって意味の区別を明らかにしているわけです。

§4. verzeihen: 許す。

Tuesday, January 14, 2025

英語読解のヒント(155)

155. would sooner...than...

基本表現と解説
  • I would sooner die at once than live in this agony.
  • I would rather die at once than live in this agony.
  • I would liefer die at once than live in this agony.

前項の表現より取捨選択の意を露骨にあらわしたもの。would の代わりに had が用いられることもある。

例文1

I had rather people laugh at me while they instruct me than praise me without benefitting me. Goethe

Dictionary of Quotations (compiled by James Wood)

わたしにとっては、笑われながらも有益な学びを与えられるほうが、得るものがない賞賛を受けるより、好ましい。

例文2

 I had rather be a dog, and bay the moon,
 Than such a Roman.

William Shakespeare, Julius Caesar

そのようなローマ人であるより、犬になって月に吠えるほうがいい。

例文3

I would rather be the author of one original thought than conqueror of a hundred battles. W. B. Clulow

Dictionary of Quotations (compiled by James Wood)

百の戦に勝つより一個の独創的思想を生み出すことを私は欲する。 W・B・クルーロウ

Saturday, January 11, 2025

英語読解のヒント(154)

154. would as well...as

基本表現と解説
  • I would as well die at once as live in this agony.
  • I would as good die at once as live in this agony.
  • I would as lief die at once as live in this agony.
  • I would as soon die at once as live in this agony.

「ひと思いに死ぬ」のも「こんな苦しい思いをして生きる」のも好ましさ、あるいは好ましくなさにおいておなじであるという意味。それを踏まえた上で、 「こんな苦しい思いをして生きるくらいなら、ひと思いに死んだほうがまし」と訳すことも可能 (I would rather die at once than live in this agony)。would (仮定法)の代わりに had も用いられる。

例文1

I'd as soon listen to dried peas in a bladder, as listen to your thoughts.

W. B. Yeats, The Hour Glass

おまえの考えを聞くくらいなら莢のなかの乾涸らびた豆の音でも聞いたほうがましだ。

例文2

"Oh, that is an old door connected with another passage that leads by a dark and wearying staircase to the servants' corridor beneath! I am afraid you won't be able to open it, as it is rusty with age and disuse. The servants would as soon think of coming up here as they would of making an appointment with the Evil One; so it has not been opened for years."

Margaret Wolfe Hungerford, The Haunted Chamber

「ああ、あれは古いドアでべつの通路につながっています。その先の暗くてうんざりするような階段を降りると召使いたちのいる廊下に出るんです。開けることは無理でしょうね。古いし使われていないから錆びついているんです。召使いはここに上がってこようとは思いません。悪魔と会う約束をしようなんて思わないように。で、何年もあのドアは開けられていないのです」

 この部分は The servants would consider coming up here as much as they would consider making an appointment with the devil. と考える。例文3 も同様。

例文3

La Bruyère said: "Women often love liberty only to abuse it." Two hundred years later Balzac wrote: "There are women who crave for liberty in order to make bad use of it." The thoughts are not great, they are not even true, but that is not the question. Could such a genius as Balzac be accused of plagiarism because he expressed a thought practically in the very words of La Bruyère? I would as soon charge Balzac with plagiarism as I would accuse a Vanderbilt or a Carnegie of trying to cheat a street-car conductor out of a penny fare.

Max O'Rell, Rambles in Womanland

ラ・ブリュイエールは「女はただ悪用せんがために自由を愛することがしばしばある」と言った。二百年後バルザックは「女は悪用するために自由をほしがる」と書いた。深遠な思想でもなければ、真実ですらないが、しかしそれはどうでもいい。ラ・ブリュイエールと実質的におなじ言葉遣いで思想を表現したからといって、バルザックのような天才に盗作の非難を浴びせることができるだろうか。盗作だといってバルザックを非難するのは、電車賃を一ペニーごまかしたと言ってヴァンダービルトやカーネギーみたいな金持ちを責め立てるのとおなじである。

Wednesday, January 8, 2025

英語読解のヒント(153)

153. have the + 抽象名詞 (2)

基本表現と解説
  • Whom have I the honour of addressing?
  • May I have the pleasure of seeing your brother?

丁寧な辞令として「have the + 抽象名詞」の形が使われる場合は「光栄」「愉快」は意味が軽くなって単に What is your name? とか May I see your brother? の意となる。

例文1

“I have had the honor of telling you that I have only just stepped out of the train.”

Henry James, Daisy Miller

「ただいま申し上げた通り、わたしは汽車から降りたばかりです」

例文2

"I never had the pleasure of seeing him — as yet," answered Mr. Jones, very stiffly.

Anthony Trollope, Christmas at Thompson Hall

「いや、お目にかかったことはありません……いまだに」とジョーンズはすこぶる改まって答えた。

例文3

“May I have the pleasure of dancing with you?”

Unknown, The Comic English Grammar

「ダンスのお相手をお願いできますか」

Sunday, January 5, 2025

英語読解のヒント(152)

152. have the + 抽象名詞 (1)

基本表現と解説
  • He had the audacity to deny such a patent fact.
  • He had the audacity of denying such a patent fact.

抽象名詞を形容詞に置き換えて言い直すと He was so audacious as to deny such a patent fact. となる。「彼は厚顔にもこのような明白な事実を否定した」

例文1

"I do think," I said, "that when I speak to you you might have the civility to pay some little attention."

Barry Pain, Eliza

「おいおい、人がものを言うときは、ちょっとは注意を向けてくれてもいいと思うがね」

例文2

But he had the ill-fortune to be older by a couple of years than most of his fellow-students....

William Makepeace Thackeray, The History of Henry Esmond, Esq.

しかし彼は不幸にして学友の大半の者より二歳年上であった。

例文3

You have married not only a low-born girl, but the daughter of a felon — a felon's daughter is mistress of proud Beechwood! You who scorned Philippa L'Estrange, who had the cruelty to refuse the love of a woman who loved you — you who looked for your ideal in the clouds, have found it near a prison cell!

Charlotte M. Braeme, Wife in Name Only

あなたは生まれの賤しい娘と結婚しただけではありません。重罪犯人の娘と結婚したのです。重罪犯人の娘が高慢なビーチウッドの奥方! フィリッパ・レストレンジを蔑んだあなた、あなたを愛する女の愛を残酷にもしりぞけたあなた、理想の女を雲の上に求めたあなたは、その理想を牢獄のそばに見出したのです。

Thursday, January 2, 2025

英語読解のヒント (151)

151. fate willed it that...

基本表現と解説
  • Fate willed it that he was absent on that particular night.

Luck willed it that... とか Chance willed it that... という形もある。「運命・幸運・偶然が……然らしめた」あるいは「……と定めた」という意味である。

例文1

Further, chance willed it that he should be an American.

William Le Queux, The Broken Thread

さらに彼はたまたまアメリカ人であった。

例文2

Accident willed it that one of the shapeless groups of masked men and women collected in a vast barouche, stopped on the left of the boulevard, while the wedding party stopped on the right.

Victor Hugo, Les Misérables (translated by Lascelles Wraxall)

たまたま仮面をつけた男女の雑然たる一団が馬車に乗り合わせて大通りの左側に停まり、婚礼の人々が右側に停まっていた。

例文3

Chance had so arranged the denseness of the branches that Déruchette could see while Gilliatt could not.

Victor Hugo, The Toilers of the Sea (translated by Isabel F. Hapgood)

たまたま枝の繁り具合のせいでデルシェットからは見えるのだが、ギリヤットからは見えないようになっていた。

 W. Moy Thomas の訳では Accident had so placed the branches, that Déruchette could see the newcomer while Gilliatt could not. となっている。

ジェフ・ヴァンダーミア「滅び」

  SFといってもスペースオペラのような作品はあまり好まない。しかし Speculative Fiction には目がない。フィリップ・K・ディックの小説やサマンサ・ハーヴェイの「軌道」、また、タルコフスキーの「ストーカー」みたいな映画は大好きである。ジェフ・ヴァンダーミアの「滅...